亭主の寸話 M『わが国独特の米文化』


 これまでは日本の食糧問題を私ながらの視点で捉えてきましたが、それでもまだ自分でも釈然としない問題がわが国の農業には根強くこびりついているように思えてならないのです。その最も特徴的なことは、わが国では米余りで減反政策を余儀なくされているにもかかわらず農家も政治も米にこだわり続けていることです。極端な言い方をすれば、農家は米だけを作って麦やトーモロコシ、大豆などの他の穀物はほとんど作らず、そのためにわが国の穀物は、米を含めた自給率が28%にしか過ぎないという実態です。多くの農家は年間のうちの4ヶ月だけ稲作農業をし、残り8ヶ月は田んぼを遊ばせているのです。
政府もWTOの農産物自由化協議には米だけを特別視して保護するが、他の穀物は全く保護しないという姿勢を貫いています。そして多くの国民も、それが、我が国の食糧を守る最後の砦だと納得している姿なのです。米余りが叫ばれて久しいにもかかわらずこのような納得が国民に浸透している背景は、いったい何なのか、今回はこのことに触れてみたいと思います。

 日本に稲作が入ってきたのは縄文時代の後期だといわれています。もちろん稲作が導入されたからといって、すぐに皆が米を食べられたわけではありません。縄文時代、弥生時代は木の実や獣の肉、魚などが摂取カロリーの大部分を占めていたことは容易に想像されます。遺跡の出土品から見ても鹿とイノシシが主要な食用肉であったと考えられています。さらに、このころの集落の大きさと水田の広さから考えても米は主要な食糧の地位を得ていたとは考えられません。時代が少し過ぎて「古事記」「日本書紀」、各種風土記の時代になると為政者の目は徐々に米に注がれていく様子が見られてきます。たとえば、稲穂を示す大年神(おおとしのかみ)は須佐之男命(すさのおのみこと)の子供とされており、他の食べ物よりも別格に見られていた様子がうかがえます。それらは、我が国に入ってきた仏教の普及と土着の神道の穢(けが)れ思想によって、天皇や支配者階級が米を特別視するようになるからでしょう。仏教の戒律による殺生禁断と古代から続く神道の肉食忌避観念に根ざしたものであろうと思われます。そして、律令国家を目指した天武天皇が675年に最初の「肉食禁止令」を出すことになるのです。もちろん下層の庶民は雑穀だけでは命をつなげられず、彼らは狩猟を続けていたようですし、為政者たちの間での肉食禁止令にも例外処置が認められていたようで、厳密な禁止でなかったにしても、肉を穢れた食べ物とみなし米を神聖な食べ物とするねじれ思想が台頭することになるのです。我が国の歴史は、その後も荘園制度時代の開墾による水田の拡大、武士の時代では領地における米の生産石高によって藩の力を評価する米中心主義の時代へと突き進んでゆくことになるのです。

 このようにしてわが国の農業は米に強く傾斜してゆくことになるのですが、多くの庶民は米を口にすることが出来ず、ますます憧れの食べ物と化してゆくのです。江戸時代の参勤交代で地方から江戸に出てきた侍たちが、江戸で白米を食べて得体の知れない病気に罹り、地元の藩に戻ると直る、という「江戸患い」という言葉が生まれたのもこのころです。このことは地方武士でさえも、当時は充分な米が食べられていなかったことを示しています。結局、この「江戸患い」は、近年になって白米の食べすぎによるビタミンB不足によるものであることが分かるのですが、この「江戸患い」は日露戦争、日清戦争まで尾を引くことになるのです。この「江戸患い」の原因究明のために陸軍に所属していた森鴎外はヨーロッパまで派遣されるのですが解決することが出来ませんでした。実は、この「江戸患い」は麦飯を食べることによって解決の道を得たのです。さらに近代になって鈴木梅太郎博士が、ビタミンB欠乏症であることを突き止めて落着することになるのですが、昔の人たちは米飯に恋焦がれて、江戸患いという病で死んでいった人たちが武士や軍隊の中に多くいたことは記録に残されています。

 ところが長年のこれらの流れを突き崩したのがペルー提督率いる外国艦隊の開国要求とその後に起こった文明開化だったのです。これによって明治政府は肉食奨励へと180度方針転換することになるのです。そして明治4年には「肉食禁止令」が解かれ、宮中で肉を使った西洋料理が食べられ始めることになるのです。福沢諭吉などの欧米事情を学んだ人たちによる肉食奨励なども後押しして肉に対する見直しが少しずつ進むことになるのです。しかし米が一般庶民の口に入るのはまだまだ先のことで、日本の米不足はまだまだ続くことになります。大正時代には米騒動が発生し、これを契機にして政府による米の間接統制、その後の食糧管理法による米の直接統制へと繋がってゆきます。そして、実質的に米飯が国民の口に入るようになったのは、池田隼人首相が「貧乏人は麦を食え」といった1960年頃からのことであり、ほんの50年前のことです。

 皆さんも知っているように、現在の日本人の米の消費量はこの頃の半分である、1年間に60kg程度しか食べず、米余り現象が続いているのです。そのため、政府の農家からの米の買い取り価格も低下の一途をたどっており、農家の稲の作付け制限が余儀なくされています。しかし、このように時代が大きく変わっても日本人が長い間持ち続けていた米信仰の意識はいまだに根強く、生産農家も消費者も米に対しては特別の思いがあるようです。平成5,6年に起こった冷夏による米の不作に対して消費者は過剰反応を起こし、政府も外国米輸入の道を開かざるを得なかったのも国民の米へのこだわりからです。

 一方、長い間忌避されてきた肉の消費量は、戦後の国民経済の発展と食の洋風化に伴い急速に拡大し、今では年間一人45kgくらいまで高まり、動物脂肪の摂取過多から生活習慣病の声が聞こえるほどになってきています。しかし、これだけ肉食が一般化しても、家畜のと殺や血に対する穢れ意識は強く、欧米や中国のように豚の頭が店頭に並んだり鳥がぶら下がっている光景は日本では避けられています。外国で栄養豊かとして店頭に並ぶ血液も日本では目にすることはありません。家庭の中でも子供たちが、お米を作ってくれたお百姓さんに感謝の手を合わすことがあっても、牛肉を作るために牛を殺してくれた人に感謝をする姿はありません。まだまだ日本人の意識の中には米信仰と肉にたいする穢れ意識は生き続けているのです。そしてこの意識が、たとえ米余りが続こうとも米にこだわる現代の稲作中心の日本農業に深く反映しているのではないでしょうか。

 このような米に対する特別な感情は、同じ稲作文化を持つ中国、韓国をはじめとする東南アジアの国々にも見られず、わが国独特の米文化ということが出来ます。


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