亭主の寸話 J『私達の食糧はどうなるのか』


平成20年1月茶話会

 私は現在、郷里の徳島県に住む95歳の母の面倒を見るために、毎月の半分は故郷で母と共に過ごしています。私の郷里の村は徳島県の南部を流れる那賀川水系の豊富な水に恵まれており、30世帯ほどの農家が稲作を主体として生計を立てている、どこにでも見られるような一般的な農村です。毎年、お盆の頃に帰ると黄金色の稲穂が敷き詰められたように、どこまでも続いている豊かな田園風景が広がっています。しかし最近、村の人たちと話をしているうちに、私が想像していなかった、日本農業が根底から崩れていくのではないかとさえ思わせるような姿があらわになってくるのです。今日は日本の農村でどんなことが起こっているのか、そしてそれが私たちのこれからの食糧問題にどんな姿で現れてくるのかをお話したいと思います。

 私の村で起こっている不気味な状況をまずご紹介しましょう。冒頭で書いたように私の郷里は豊富な水に恵まれた水田地帯です。きれいな水が豊富にあるために、村から海岸にある自衛隊基地に向かって太いパイプで飲料水を送っていたほどです。ところが最近その水がなくなるという思いがけないことが起こっているのです。那賀川水系は奥深い四国山脈の森林を源として1年中豊かな水を流し続けていますが、その疑いもしなかった那賀川の水が、昨年の夏干上がってしまったのです。現地の新聞報道を見ると最近になってこのようなことが何回か起こっているようで、地域の稲作のみならず、いろいろな地域産業に大きなダメージを与えている、ということです。そして、これらの原因は、放置され荒れたままになった山奥の森林が保水能力を失い、雨季の激流と乾季の渇水という荒廃した姿に変わってしまったことによる、とのことです。現在、四国の林業もご他聞にもれず、採算が取れないために放置されたままになっているところが多く、そのことが、森林の荒廃となり、周辺の稲作農業を圧迫し始めていたのです。このようなことは、なにも那賀川水系に限ったことではなく、林業が低迷しているいま、日本の多くの地域で起こっている現象ではないかと想像されます。「瑞穂の国」といわれた日本農業の一端が崩れ始めていることをひしひしと感じさせられる出来事でした。

 もう一つは農業後継者の喪失です。私は子供の頃はこの村で育ちましたから、その頃に一緒に遊び、現在も村に残っている昔の仲間たちは良く知っています。そしてその人たちは現在も村で農業を受け継いでいるのです。いま、村で農業をしている人たちは私の世代の人たちが大部分で、全員60歳代後半から上の人たちです。次の世代は一人も村に残っておらず、皆な都市へ働きに出て行っています。彼らは子供の頃から農業をしたことがなく、将来も村に帰ってくることはないでしょう。我が家も現在、農地の耕作を村の高齢者に委託していますが、委託を受けてくれている人も、もうすぐ70歳で、その息子たちに農業をする気配はありません。米の政府買い取り価格が半減し、かつ米離れが進む消費動向から見ても今後米価が上向く見込みはありません。しかも農業機械に多額の費用がかかることを考えると、皆尻込みしてしまうのです。つまり、数年後にわが村の農地は引き受け手がなくなり、農地が崩壊してしまう姿が眼に見えてきます。農地の集約化が叫ばれていますが村の中からは一向に声があがってきません。

 いま、日本の農業は確かな指針もないまま弱体化の道をたどっています。このことは今から約50年前、日本経済が自由化に舵を切ったときから始まっています。自由化によってわが国の産業は活性化され、工業製品の輸出で国力が栄え、世界で最も富める国に駆け上ってゆくことが出来ました。国民も豊かになり、いままで口にすることも出来なかった食品も近所の商店で買えるようになりました。いろいろな食べ物が豊富になり、1年間に120kg食べていた米も、外国から輸入した麦で作るパンや麺そのほかのものに切り替えられて、今では60kgほどで充分になったのです。米が余るようになると「減反政策」で田んぼを遊ばせて補助金をもらう、という内向きの農業が続くようになります。世界がさらにグローバル化し、日本もWTOの枠の中で世界と向き合うようになると、日本の農業は流れの中で一人取り残されたままの格好になってしまったのです。最近NHKテレビで日本、中国、アメリカで作られている「こしひかり」の米を比較した番組がありました。日本でコシヒカリを作っている農家の人でさえ味の区別が出来ないほど、それらは旨い米でした。しかもその価格は、アメリカ産こしひかりで日本産の10分の1、中国産の米では7分の1でした。その他のアジアの多くの国でも、自国で作る安価な米を日本に売り込みたいとさかんに働きかけています。しかし、日本の米は国によって守られているのです。自国の農業を守ることはどこの国でも行っており、なんら不自然なことではありませんが、米だけ守ってパンや麺用の麦は輸入に頼っているので、日本の穀物全体の自給率は、たったの28%です。この自給率は砂漠の国サウジアラビアよりも低く、世界の124位とされています。日本の農業は砂漠の国よりも劣っているのです。しかも、国内に休耕田や荒廃田を多く抱えているのですからどう見ても不自然ですね。肉類の自給率は54%といっても、肉、牛乳、卵などを作るための飼料の大部分を輸入していることから考えても、これらはわが国の自給食品とは言えないでしょう。わが国は世界の食糧貿易量全体の12.9%を購入しており、世界で最も食糧輸入の多い国となっています。また、単に購入量が多いだけでなく、それらを遠くから運んできているために、その指数であるフードマイレージもドイツ、イギリスの約5倍と世界でもずば抜けたエネルギーをかけて運んでいる国なのです。このようにして、わが国の食糧全体の自給率は39%と一貫して下降傾向をたどっているのですが、わが国の食糧はこれでいいのかとなると、現在の国際情勢から見て大いに不安です。

 世界はいま、深刻な食糧危機に直面しています。それはまず、@現在急速に地球人口が増大していること、A温暖化・砂漠化・塩害・森林保護の呼びかけなどで耕作面積の拡大に限界が見えていること、B中国・インドなど巨大人口国の食糧爆発が始まったこと、Cバイオ燃料に農産物が転用され始めたことなどによるものです。しかもこれらの要因は今後簡単に消滅する可能性がありません。すでにここ2年間で主要穀物の価格は大きく跳ね上がっています。この穀物騰貴には一部投機的な資金が流れ込んできていて、必ずしも穀物需給を正確に反映しているわけではありませんが、投機的な資金が流れ込んでくること自身すでに需給のバランスが崩れていることを意味しています。いずれにしてもこのような状況になると各国政府は自国の国民の不満を抑えるために、食糧の輸出を制限するようになります。1970年代の初め、アメリカは天候不順から大豆などの穀物が不作となり価格が高騰したことがありました。このとき、アメリカ政府は国内の不満を沈めるために、大豆の輸出を禁止したのです。アメリカに大豆の供給を頼っていた日本ではパニックとなり、このとき豆腐などの価格が暴騰し、社会不安を引き起こしたことを覚えています。現在も中国などでは一部の食糧について輸出関税を重くして食糧輸出を制限し始めています。世界中に食糧が潤沢に存在するときには食糧自給率の低さは気にしなくてもいいのですが、モノ不足になると輸出国に支配されざるを得ません。これからは地球が食糧不足に向かっていくことを思えば日本の農業のあり方をもう一度皆で考えなければならないと思います。もし、外国からの食糧が入ってこなくなれば、私たちが食べられる食糧は、せいぜい3日に1杯のうどん、5日に1杯の牛乳、10日に1個の卵などのような有様になるのが実体なのです。

 現在、わが国の輸入食料品に占める中国の比率は高まっています。中国に対して今後とも食品の供給を頼っていってもいいのでしょうか。じつは中国にはそれ相応の食糧に対する不安定さを抱えているのです。中国の農業にとって最もネックになっているのは水問題です。中国は国土の面積に対して水の供給が充分ではありません。限られた水をどのように使うかは大きな課題です。しかし現在の中国の政治姿勢は、水を農業よりも工業に優先的に振り向けて、世界の工場としての競争力を伸ばし、そのことにより不足する食料は工業で得た外貨で輸入しようとしています。つまり、中国自身も日本と同じように農産国よりも工業国を指向しているのです。現在すでに大豆などを大量に輸入していますが、今後はさらに多くの穀物を外国に頼る国となっていくことでしょう。それは、中国人が所得の向上に伴って肉食指向に向いていることにも原因しています。肉を生産するためには、その肉の量の7倍の穀物を飼料として与えなければなりません。牛肉を得ようとすれば12倍の穀物を与えなければなりません。つまり国民の肉食指向は大量の穀物を消費することを意味しているのです。すでに10億人の人口を抱えたインドも食糧の大量消費国になっていこうとしています。インドは宗教的な関係から肉を食べないのではないかと見られていますが、中国のように国民が豊かになれば肉の消費が高まっていくとの見方もあります。これからはどの国も自国の食糧を確保することに必死になることでしょう。わが国は安易に海外に頼ることなく、可能な限り国内の農業資源をフル活用して自国の食糧を確保していく必要があるのです。

 しかし日本の農地の広さと人口を考えると、わが国の食糧自給率を100%にすることは不可能です。海外との結びつきを強めておくことは一方では必要ですが、もう一方では国内の農地の有効活用をもっと真剣に考えなければならないと思います。地方を歩いていると放置された水田や畑を見かけることがあります。かつては稲を栽培していた田んぼが荒れ果てたままになっており、このまま放置すれば何の価値も生まない荒地になってしまうだけです。団塊の世代が産業界から大量に吐き出されてくるタイミングを捉えて、いろいろな仕掛けが可能になるのではないかと思っていますが、危機感に立脚した提案はいまだ見られていません。

 わが国はWTOとは別に個別の国と自由貿易協定を柱とする経済連携協定(EPA)を締結しつつあります。これによって経済的結びつきもより強固になっていきますが、相手国の農産物がわが国に入りやすくなります。このEPAの動きが広まればWTOを基盤としたグローバリジェーションはさらに加速化してゆくことでしょう。そしてこの流れはもはや止めることの出来ない時代の趨勢と考えなければならないでしょう。その趨勢の中で、どう国内の農業資源を有効活用するか、早急に国を挙げて考える必要があります。EU諸国も予算の半分は農業関連の予算だといわれています。食糧問題は国民の生命に直結した問題だけに、先に光を見出せば苦しくても国民は納得してくれるでしょう。日本人の食の根幹をなす和食でさえ、ご飯を除けばその他は外国産の農産物で出来ているというのでは寂しい限りです。

 私たちは、現在目の前に食品が豊富に並んでいるからと安心しているわけにはいかないのです。食料品の価格は生産量と消費量(と品質)のバランスで決められています。食料品の価格が高騰を始めたことは、すでに食品の生産量が不足し始めていることを示しています。これからの時代は再び、食べ物を節約しながら分かち合わなければならない時代なのです。私は、小泉内閣のときに食糧不足になったときに政府としてどう対応すべきかを諮問委員会で検討していたことを知っています。食べ物が不足したときに、若者と高齢者など世代間の調整はどうなるのか、我慢することを知らない若者世代がどう反応するか、パニックや暴動は起こるのか、などが検討されていたようでした。福田内閣になっても継続して検討されているのかどうかは知りませんが、私たちも食糧生産がすでに限界に達していること、そして限りある食糧を大切に使っていく心がけだけは、強く意識しておかなければならないでしょう。


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