亭主の寸話 @『不二家事件と食の安全性』


 今日は食べものの安全に味覚がどのように関係しているのか、ということを話題にしようと思っています。そのために皆さんにはお茶菓子として営業再開したばかりの不二家の製品を用意しようとして探したのですが、ついに見つけることが出来ませんでした。事件以前には置かれていたデパートの食品売り場からも姿を消してしまっていました。そこで代わりに浅草の海苔煎餅を用意させてもらいました。
ご存知のように海苔を食品としてそのまま食べているのは世界でも日本人だけだろうと思います。それは日本が周囲を海に囲まれた国であり、食糧確保のために古代の先祖が海草を試食して食品のレパートリーに組み入れてから繰り返し食べてきた民族の歴史が続いているからです。

 大衆から人気のあったお菓子メーカー不二家は原料や製品の賞味期限切れを無視して加工販売していたとして消費者から非難を浴びせられ、山崎パンの傘下に入ってやっと先日、事業再開にこぎつけることが出来たばかりです。消費者の信頼を傷つけた代償は当事者たちの想像を超えて大きかったことでしょう。
食品に対する消費者の反応は最近特に激しいものになってきているように感じられます。カイワレ大根にO-157の汚染源の疑いがかけられただけで店頭から姿を消す事態が起こったのも数年前のことでした。そしてこの類のニュースは今も後を絶たず、メディアの攻撃対象になって一瞬の線香花火のように燃え上がります。

 このような、消費者の過剰反応とも思える動きに対応するように、スーパーの店頭管理も厳しさが加速しています。スーパーマーケットやコンビニエンスストアでは賞味期限が過ぎたとして、まだ十分に食べられそうなおにぎりやお惣菜もごみ袋の中に捨てられています。私たちは自分達の経験から、これらコンビニでごみ袋に捨てられている食べ物の多くは、食べても害がないものが多いことを知っています。しかし、いったん賞味期限という数字が商品に打ち込まれたとたんに、人の経験による今までの安全判断はまったく意味をなさなくなってしまうのです。お弁当についている醤油の賞味期限が2日過ぎたということで、お弁当自身が廃棄されたというニュースも聞きました。日本は大量の穀物や野菜を世界から輸入しており、その量は年間2.7千万トンに達すると言われています。しかし家庭や営業現場からこのように食べずに捨てている量がその過半数に達しているらしいことも聞きました。現在、飢餓を救うために世界が行っている食糧支援は年間800万トンにすぎないことから考えても、輸入して捨てている我々の行動が常軌を逸していると思わずにはいられません。日本人が培ってきた「もったいない」の精神はどこへ行ってしまったのでしょうか。お弁当につけた醤油の賞味期限が2日過ぎた程度で品質に問題がないことは、醤油メーカーの人たちは常識的に知っています。醤油がお弁当に使われるまでの保管条件をチェックすれば、醤油メーカーのプロならばそれらの醤油が使えるかどうかは簡単に判断できるはずです。しかし、スーパー側にはそのような説明が通じない、プリントされた日にちが優先されてしまうのでしょう。

 私も、現役時代に消費者から、賞味期限の切れた食用油脂が調理に使えるかどうか、電話で質問を受けたことがあります。電話をかけてきた主婦は、賞味期限の過ぎた食用油脂は破棄しなさい、なんていう答えを期待しているのではないのです。封を切っていない油脂をなんとか活かす道がないものか、プロの意見を聞いてきたのです。こうなると営業マンの手に負えず研究部門に電話がつながってくるのです。その主婦との会話で、家庭内での油の缶の保管状況などについての様子を聞きながら、油脂の劣化の判別の仕方、比較的安全な使用方法、油脂製品の劣化予防にメーカーが行っている処置、過去のデーターなどを伝えることによって、その主婦は賞味期限の切れた油脂を使用することを選びました。食品メーカーの技術部門はこのような商品管理情報を豊富に持っているはずです。商品に表示される賞味期限は、ある一定の状態で保管されていた場合を想定して決められているものであり、当然商品の劣化状態は保存の仕方で変わってくるものです。賞味期限の刻印だけで全てを画一的に廃棄してしまう現代はどこかおかしい、と感じざるを得ません。なぜこうなってしまったのだろうか。

 我が家の冷蔵庫の中では、陰に隠れていた賞味期限切れの食品が現れてくることがよくあります。そんな時、家内はスーパーで買うときの賞味期限にはうるさい割には、我が家では数日の期限切れなどは軽く無視されている。それは、そのまま捨てることにある種の罪悪感を感じることと、今までの経験からその程度なら十分食べられる、という記憶が支えとなっているからでしょう。ひどいのになると、焼き海苔などは数年前に期限が切れているものも平気で食べてしまっている。しいたけ、そうめん、納豆、調味料などなど、多少の賞味期限切れでも捨てるのがもったいないと思いながら食べています。消費者は賞味期限を過ぎた商品を目の前にして賞味レベルをどこまで下げることを容認するかということと「もったいない」とか経済的損失とを天秤にかけながら、経験則を元に判断をしているのです。我々の子供の頃は、たとえカビが生えていても、良いカビと悪いカビを識別しながら、カビを削り落しながら餅などを食べていたものでした。そして、それらの食品の味、臭い、色などを注意深く見極めて食べながら、食品の安全性について経験を身に付けていたものでした。しかし、最近は食品についての安全情報はすべて食品に添付されています。食物の組成、生産地、生産者、添加物内容、製造年月日、賞味期限、アレルゲンの有無、栄養価などが一瞥しただけで知ることが出来るのです。このような食品に対する安全情報の表示が進むにしたがって、私たちは自分の長い間に積み重ねてきた経験則に頼らなくなり、食の安全に対する判定能力が急速に退化してきているように感じられます。自分の体験による安全情報よりも与えられる情報を信用する傾向が強くなってきたのです。

 そんなことを考えていると、最近のテレビや週刊誌にはグルメ情報が氾濫していることに同じ傾向を感じてしまうのです。テレビや週刊誌で美味しいと紹介された店には長蛇の列が出来、味には大差がないと思われる隣の店の方は閑散としている、なんていう現象があちこちで起きています。そもそも美味しさには共通の物差しなんていうものはないのです。友人が美味しく感じた食べものに自分も美味しく感じるかどうかは全く別のことです。美味しく感じるかどうかはその人それぞれの食の体験に基づいているからです。

 美味しさを感じる仕組みは、生まれながらにして備わっている味覚の働きと、経験によって培われるものとの両方から成り立っています。動物として生きていくために必要な味覚については生まれながらの共通の能力ですが、他人との嗜好の違いはそれぞれの育った環境によって異なってきます。また、楽しい思い出につながる食品は美味しく感じますし、生牡蠣などで食あたりを経験したことがある人は生牡蠣を美味しいとは感じません。その人が育てられた家庭料理の違いによっても味に対する感じ方が違ってくるものです。テレビでうまいと放送された味は、テレビ局の担当者にとって美味しい味であったに過ぎないのです。人の感じる味覚とはそんなものなのです。

 ところが、自分の食に対する経験則が衰えてくると噂や情報を優先する傾向が強くなってくるのでしょう。味という、本来自分の生命を支える食物信号でさえも他人の情報に頼る傾向が強くなってきているのです。こうなると食品メーカーにとっては思う壺です。テレビなどでの広告が有効な手段となってくるからです。素材や味よりもパッケージやキャッチフレーズで消費者をひきつけることが出来るからです。食品会社の開発者たちはそのことを十分に知った上で新製品を開発しているのです。新しい味を商品化したとき、本来ならば半分の人が好ましい味だと感じたときには残りの半分の人たちは好ましくないと感じているはずです。そこで消費者にある情報を与えて好ましい味と錯覚させるのです。テレビ、雑誌などに情報を載せて消費者を誘導するのです。それはグルメ、ダイエット、爽やかさ、新しさ、人気の様子などの情報を前面に押し立てて、あたかも皆が美味しいと認めているかのような雰囲気に仕立て上げるのです。こうすることで、それまで好ましく感じていなかった人の20%は転向してしまうとさえ言われています。このようにして、テレビなどで駅前のケーキ屋さんが美味しいと放送されただけで、多くの人の美味しさの物差しは狂ってしまい、ケーキ屋さんの前に行列が出来るようになるということです。

 逆に、もし、食品の安全情報が全くなかったとしたら、自分はどのような行動を取ると思いますか。今、私たちは店頭に並んだ食品には全て毒のない安全な食品であることを知っています。だから食卓に上ってきた食品は疑いもなく口に放り込んでいますが、自分の皿にある食べ物に毒があるかどうかわからないとしたら、あなたはどうしますか。食べなければ飢えに襲われるが、その食べ物が安全であるかどうかも分からないのです。あなたは、まず他人が食べるのを待って、苦しまないかどうかを確認しようとするでしょう。しかし、他人が周りにいなければ、仕方がなく食べ物をじろじろ眺め回して不審な色や臭いがしていないかどうかを注意深く確認しようとするでしょう。外見で不審な様子が見られなければ食べてみますが、それもいっぺんに全部を口に入れずに少しずつ口に入れながら全神経を集中させて食べることでしょう。このような姿は動物がえさの安全を確認している姿とまったく同じ行動です。現在の私たちは食品の安全について、他人の情報に100%頼って食べているのです。

 味覚とは、本来食べ物の安全性を確認するシグナルなのです。甘味やうま味は栄養のシグナルで、それは糖分や蛋白質が含まれているサインなのです。逆に酸味や苦味は腐敗していないか、毒が入っていないかを知るための危険のシグナルなのです。動物にとってどっちのシグナルが重要でしょうか。当然直ちに生命にかかわる危険に対するシグナルのほうが重要でしょう。だから、私たちが感じる味の敏感さ、専門的には閾値といいますが、酸味・苦味は甘味・うま味の千倍から1万倍鋭いのです。味覚はこのように食べ物の安全性を知る手段として、私たちは感覚を磨いてきたのです。しかし、いまや食の情報に頼りきったことによって味覚が鈍感になりつつあるといわれています。自分の感覚を使わなくても安全かどうかを知ることが出来る時代になっているのです。

 こんなに頼り切っていた食の安全情報が裏切られたときのショックは大きいものです。もうなにも信じられなくなってその会社の全ての商品を買わなくなってしまう、それが今回の不二家ショックの実態といえるのではないでしょうか。

 私はこの茶話会シリーズを通じて、現代の我々が「食」をどう捕らえていけばいいのかを提案し、話し合っていければと思っています。


今回の参会者から出た心に残る話題


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