古事記にまつわる阿波の神社 

 8、おのごろ島神社

 古事記の最初のところで出てくる「おのごろ島」に比定される場所が実在しているとは思いもしなかった。古事記では「おのごろ島」は次のように書かれている。『イザナギノミコトとイザナミノミコトの二柱の神、天の浮橋に立たしてその沼矛(ぬぼこ)を指しおろして画きたまえば、塩こおろこおろに鳴して引き上げたもう時、その矛のさきより垂り落つる塩、かさなり積りて島となる。これ、淤能碁呂島(おのごろしま)なり』と。つまり、高天原の神々から下界の「ただよえる国をつくりおさめ固めなせ」と言われたイザナギノミコトとイザナミノミコトが矛でかき混ぜて引き上げたしずくが固まって「おのごろ島」になったということである。まるで夢のような話であり、そんな島が実在しているとは夢にも思わなかった。ところが「おのごろ島」は我が処だ、と名乗り出ている島が何箇所かあることを知った。なにを根拠に主張しているのか見当もつかないが、言った者勝ちかもしれない。

 古事記によると我が国の島と八百万の神々はすべてイザナギノミコトとイザナミノミコトが生んだことになっているが、このオノゴロ島だけは彼らのDNAを受け継いでいない唯一の島であるといえる。その「おのごろ島」を主張しているひとつが淡路島南端にある沼島(ぬしま)だという。そしてそこを訪ねてみると、すかさずその島には「おのごろ島神社」をしつらえている用意周到さには驚かされる。さらに、島まで舟で来る面倒を避けるように対岸の淡路島側にも「おのごろ島神社」を作って万全を期している。ここは淡路島の南端、南淡路市で、高速道路で来れば西淡三原ICで下りて10分ほどのところにある。ここも伊佐奈岐命と伊邪奈美命の二柱を祀っている。いや、こここそこの二柱の神を祀るのに最もふさわしい神社であろう。なぜなら、オノゴロ島にはこの二柱の神以外は来ていないのだから、おのごろ島神社は伊佐奈岐命と伊邪奈美命にとっては古里の実家そのものである。その意味ではもっとも威張っていられる神社のひとつかもしれない。

ところで淡路島の一角にあるこの沼島が古事記に書かれているオノゴロ島だと世間に認めさせる有力な手がかりのひとつとして仁徳天皇の歌を紹介しておこう。古事記にこんな一節がある。
 仁徳天皇が大后の留守中に逢引をしていた黒日売(くろひめ)という美女は、大后の激しい嫉妬で自分の出身地である吉備の国に逃げて帰ってしまう。天皇は彼女に会いたくて仕方なく、「淡路島へ参詣してくる」と大后をだまして淡路島経由で吉備の国へ出掛ける。その途中の淡路島で詠んだ歌に『おしてるや 難波の崎よ 出で立ちぬ 我が国見れば 淡島 おのごろ島 あじまさの 島も見ゆ さけつ島見ゆ』とある。つまり難波の崎から漕ぎ出して見れば淡路島やおのごろ島が見える、と詠っているのである。この歌からも淡路島の周辺におのごろ島があったと解釈でき、現在の沼島がおのごろ島である可能性が高い。

このおのごろ島神社には高さ21m、幅31m、太さ3mの朱塗りの大鳥居を立てて来た者を驚ろかしてくれる。日本三大大鳥居といわれ遥か彼方からも見つけることの出来る格好の目印である。この奇抜な大鳥居のわりには、神社全体は素朴な落ち着いた雰囲気であり、これも悪くはない。

木に覆われた石段を登ると質素な社殿がある。幽玄の雰囲気が漂う神秘な空間が広がっていい気分となる。ところが社殿の脇には記念写真を撮る人のためにか「日本発祥おのごろ神社」と名前を彫った石柱が立っている。心穏やかな気持ちになって社殿を後ろにしたが、石段の下の社務所ではいろいろな神社グッズも売っており、観光産業としての役割を忘れていない。私も参拝の記念品を買って売上にささやかな貢献をさせてもらった。

  おのごろ島神社には我が国の島々や八百万の神を生んだ起源に繋がる神社だというほどの物々しさは微塵も感じられなく、むしろ半歩後ろに下がった素朴なまでの謙虚さには好感を持つことが出来る。とかく大型バスで乗り付ける昨今の観光ブームの中で、これだけの物語性を持つ神社がひっそりとしているのに新たな感激を覚えながら神社を後にした。

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