古事記にまつわる阿波の神社
6、伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)
淡路島の中ほどに伊佐奈岐神社がある。いや、正確には「伊弉諾神宮」と姿勢を正して呼ぶべきであろう。この神宮は淡路島のほぼ中央に位置し、高速道路神戸淡路鳴門自動車道の津名一宮ICで降りて3kmというところにある。古事記に登場した伊佐奈岐命と伊邪奈美命の2柱を祀っているが、通称では幽宮(かくりのみや)として伊佐奈岐命がここに眠っているとされている。
古事記の国生みのところでは、伊佐奈岐命と伊邪那美命が最初に生んだ子供は水蛭子(ひるこ)だった。そこでこの子を葦舟に乗せて流してしまう。次に生まれたのが淡島だったがこれも正常な子供でなかった。そこで伊佐奈岐命と伊邪奈美命の二人が高天原に戻って正常な子の生み方を教えてもらうことにする。神のお告げでは男の伊佐奈岐命がリードしないと正常な子供が生まれないよ、といわれる。その通りしたらまず生まれたのが淡路島(正しくは淡道之穂之狭別島)で、続いて四国(伊予之二名島)を生む。四国については「この国は身ひとつにして面四つあり。伊予国を愛比売(えひめ)と言い、讃岐国を飯依比古(いいよりひこ)と言い、粟国を大宣都比売(おおげつひめ)と言い、土左国を建依別(たけよりわけ)と言う。」としている。このように四国は二人の男神と二人の女神からできている。「讃岐男に阿波女」との言いかたは、ここまでさかのぼることになるのであろうか。
伊佐奈岐命と伊邪奈美命はこの後も続いて国々とその神々を生んでいくが、ここで島の神として登場する神の中で、粟国のオオゲツヒメ神以外の神は古事記には再び登場してくることはない。粟国のオオゲツヒメ神だけが名前を変えながらも幾度となく再登場してくるのである。このことだけを見ても古代において粟国が別扱いされていたことが理解できる。ところで最初に生まれた淡路島である淡道之穂之狭別島とは何を意味する島だと思われるでしょうか。私は淡=粟であり、粟国に通じる道、と名づけていると見えてしまう。つまり最初に生まれたのではあるがあくまでも粟国に視点を置いて眺めていた様子がうかがえるのです。もう一歩踏み込むと、続く狭別島の表現は、粟国から分かれた狭い島と読めないでしょうか。間に挟まれた「穂」とは文字通り穀物が稔る豊かな土地との意味でしょう。粟国は忌部神社で書いたように天日鷲命が麻の栽培に適した豊かな国を目指して移動していったところである。
現在は兵庫県に属している淡路島も明治時代の中ほどまでは阿波藩の一部だった。ということで、私の「古事記にまつわる阿波の神社」に淡路島の神社も加えることにしました。
古事記によると『伊佐奈岐命は淡海の多賀になも坐します』とされている。この淡海を近江として滋賀県の多賀大社だとする説もあるがやや無理がある。なぜなら奈良県、大阪府などに伊佐奈岐神社はいくつか存在するが、当の滋賀県には見当たらないからである。古事記の流れから見ても伊佐奈岐命が亡くなった頃はまだ物語が淡路島を中心に展開していた初期の時代であり、「淡海の多賀」に籠ったとされている伊佐奈岐命とは、ここ淡路島の多賀町にある「伊弉諾神宮」と見るのが妥当だろうと私は納得している。
この神社にたどり着くと、まず入り口には大きな鳥居がそびえている。この大鳥居をくぐってさらに進むと境内の鳥居が待ち受けている。本殿は荘厳な桧皮葺で全体の幽玄の雰囲気によく似合っている。広大な境内にあるクスの大木は樹齢900年といわれ、多くの国や神を生んだことにあやかって夫婦和合・子孫繁栄のご利益があるとされている。
社歴によると、平城天皇のとき(806年)に神封13戸が充てられ、延喜式では名神大社に列せられ、明治時代には官幣大社となっている。神社のパンフレットにはイザナギ・イザナミ2柱の神を祀る最古の宮と謳っている。この表現が正確であるかどうかは確認できないが長い間伊佐奈岐命の幽宮として地元の人々に守られてきたことは確かであろう。
古事記には仁徳天皇が難波の宮での飲み水をわざわざ淡路島から運んでいた、とも書かれている。古事記によると、大木を切って船を作るとこの船が大変早く走るので「枯野(からの)」と命名して『この船をもちて朝夕淡路島の寒泉(しみず)を酌みて大御水献りき』としている。いくつもの川が流れ込んでいた難波の宮に水がなかったとも思えない。やはり、古代の天皇は淡路島を聖なる島として崇めていた様子が強く感じられる。
現代的に表現すれば、天皇家にとってまさに聖地であったのであろう。それは軍事的戦略地というよりもむしろ国土とそこを守る神々を生んだ伊佐奈岐命が眠る聖地であったという精神性のほうが強かったのではないかと思っている。
最近までそんなことに全く気づかず、人生の後半の今になって始めて参拝にやってきた自分が情けなかった。そんな後ろめたさを感じながら「伊弉諾神宮」を後にした。