古事記にまつわる阿波の神社 

 4、忌部神社

 

 今回は忌部神社の話です。忌部神社は徳島県内には4つあります。2年ほど前に徳島市の眉山の山頂付近の忌部神社にも行ったことがある。ここには官幣社らしく無人の神社には皇室の菊のご紋が染め抜いた幕が張り巡らされてる。しかしここの忌部神社は明治20年に新しく作られたもので、日鷲忌部神社と五所忌部神社の本家争いを、時の内務卿大久保利通が喧嘩両成敗の形でまったく別の土地に建てたもので国幣中社忌部神社とし、戦前にはここで皇室その他国家的行事の報告や知事などの就退任などが執り行われていたらしい。

 そんなことから旧麻植郡山崎にある日鷲忌部神社を尋ねていった。徳島市内で昼食を摂った後、吉野川沿いに車を走らせた。こんなところに神社があるのだろうかといぶかりながら山道に入り、しばらく走っていると草むらの中に忌部神社が突然現われた。これが天孫降臨にまつわる国幣中社忌部神社なのか、と我が目を疑った。この忌部神社は本家争いが長く続いていた歴史がありすっきりしない部分もあるが神代の時代から歩んできた道は1級品である。

 古事記には「布刀玉命(ふとだまのみこと)は忌部の首(おびと)らが祖(おや)」としか書かれていません。このフトダマノミコトとは高天原で天照大神が天の岩戸に隠れたときに馬鹿騒ぎして天照大神を岩戸から外へ出すときの主演男優賞で、主演女優賞は天岩戸の前で踊ったアメノウズメノミコトというところでしょうか。フトダマノミコトは岩戸を少し開けて天照大神が覗いたときに目の前に鏡を出した。鏡に映った自分の顔を不審に思って体を乗り出してきた天照大神を、力持ちのタジカラオノミコトが手をとって引き出し、フトダマノミコトがすばやく後ろにしめ縄を張って戻れないようにした、という話です。

 さらに古事記には「天孫降臨」の場面でニニギノミコトが高天原から降るときに5人のお供の神を引き連れてくるが、その中にこのフトダマノミコトが入っている、これらの神様と一緒に八倉比売神社の天石門別神(あめのいわとわけのかみ)も天照大神から鏡を預かって高天原から降りてきます。古事記にある忌部神社にまつわる話はこれだけです。古事記の後(800年頃)で書かれた古語拾遺には『天富命をして天日鷲命の子孫を率いて豊饒の地を求めて粟国に遣わし、穀麻の種を殖えしむ』と書かれている。
忌部族は天日鷲命の孫に当り、大和地方を出て阿波の国に移ってきて麻の栽培を手がけたのです。当時の粟国へは忌部などの天神族だけでなく出雲系の一族、海神族の綿津見族も移ってきた形跡があったといわれている。当時の主要食品であった粟の栽培に適した粟国はその時代の民族の垂涎の地域であったようだ。

 かくして忌部族はその後も天照大神の着物を織るときの原料となる麻の栽培を続けており、現代の天皇即位のときに行われる大嘗祭のアラタエを奉納する儀式に繋がっている。ここの忌部神社の片隅には平成2年のアラタエを織った小屋が残されていた。しかし、氏子である忌部の子孫が近所にいないのか、神社は写真のように雑草で覆われていました。 私が近くに住んでいたら草取りぐらいしてあげたのにと勝手に思い巡らしながら帰ってきた。

山崎の忌部神社を参拝して数ヵ月後に残った忌部神社2社も廻った。これで阿波の忌部神社4社全てを巡ったことになります。最初に旧地名で麻植郡川田の種穂忌部神社を、続いて貞光(旧麻植郡西端山村)にある忌部奥社五所神社を参拝してきた。忌部奥社五所神の近くには木綿麻(ゆうま)温泉があり、どれをとっても麻に関連した地名がついています。この2社ともに現在は忌部本宮を旧麻植郡山崎にある日鷲忌部神社に譲っていますが、いずれも明治時代には本家争いをし、大久保利通の決済で現在の本宮へと落ち着いたという経緯を持った神社です。

忌部族の先祖はこのように天孫降臨以来、天照大神から鏡を預かり、それを天照大神の身代わりとして崇めるようにとの指示に従い神を祀ることを職業としていたが、もう一人同じように神を祀ることに従事していた子孫がいます。それは中臣族で、この両者で天照大神を祀り祭儀を執り行っていた。しかし、やがて両者の力関係に差が生じ、中臣氏が祭儀を行い、忌部氏が祭儀に使う材料を整えるという分担になってしまった。この不平等を嘆いて時の天皇に嘆願書をしたためたのが平安時代に斎部(いんべ)氏の当主が書いた「古語拾遺」である。ここには忌部一族の由緒正しさを記した歴史から、我々こそ神の祭儀にふさわしい家柄であり、今では阿波忌部を中心に讃岐の国にも一族が住んでいることなどを訴えている。しかし、これらの嘆願にも拘らず両者の力関係は変わらず忌部族は祭儀に使う麻の栽培へと追いやられたままとなってしまう。そして既に触れたように阿波での麻栽培へと都を追われ移住してくることになる。

忌部一族はここ粟(阿波)国での麻栽培に活路を見出すのですが、地元の部族との軋轢で次第に山奥へと移っていった者と(これは私の想像)、海を渡って新しい土地を求めて阿波を去っていった忌部族がいたようです。一方、中臣族は一手に神様を祀っていたが朝鮮族の蘇我氏が仏教を持ち込み両者の宗教戦争へと発展することになる。このときに有力な皇族のである聖徳太子が仏教側について中臣氏は敗れてしまうが、このとき中臣氏が考え出した生き残り策が「神仏混淆」で神と仏は同じという奇策を考え出した。これにより中臣一族も生き残り、その後一族の中から鎌足、不比等の親子が出、彼らの活躍で藤原姓を名乗るようになり、平安時代に一族が華を咲かせたのはご存知の通りです。

話は元に戻って、彼ら忌部族の阿波の中での移動の形跡は大麻比古神社、麻植(おえ)郡、山岳族へと移っていくところから知ることが出来るが、もうひとつの移動の形跡が現代に残されている。それは海を渡って千葉県に移り住んだ忌部族です。彼らは住みにくくなった阿波の地を離れ、中臣族が勢力を張っている大和の地を避けながら、海流に乗って房総半島に渡ったのです。そしてこの地を故里の阿波に思いを馳せながら、安房(あわ)の国と名乗ったのです。そしてここに彼らは阿波から持ってきた種を蒔いて衣類に欠かせない麻の栽培をはじめた。麻はこの時代の古語では「ふさ」と発音していた。これは麻が茂っている様を表した言い方ですが、この「ふさ」という言葉が残り、これらの地方を「上総(かずさ)」、茨城県にかけての地域を「下総(しもふさ)」と呼ばれるようになったのです。こうして忌部族もけっこうしたたかに生き延びていたのです。

それにしても私が毎月郷里の母の介護のためにフェリーで往復しているこの海を千数百年前に徳島から千葉に向かって小船に乗った忌部の一族が決死の覚悟で渡っていたかと思うと身につまされる思いです。私が乗っているフェリーは徳島港から東京の有明港まで650kmを18時間で航行しているが、海流に流されながら渡っていった彼らは何日掛かったのでしょうか。しかし、関東には忌部神社は見当たらない。彼らはどのようにこの地で生きていったのだろうか。

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