古事記にまつわる阿波の神社 

 3、八倉比売(やくらひめ)神社

今回は徳島市国府町矢野神山に鎮座する『天石門別八倉比売神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)』です。私はこの神社にも2回訪れています。 この神社の周辺は国府という地名だけあって古代における阿波(粟)国の中心地にふさわしく古墳も200ほど見つかっている。しかしそれらの墳墓の中でもひときわ大きいのが今回取り上げる天石門別八倉比売神社を擁する陵墓です。近くには古代史跡公園や考古資料館なども点在しているまさに古代史ホットスポットとなっている。さらに四国88ヶ所の寺がいくつか集中しているので古代の繁華街だったというところでしょうか。先日も考古資料館の学芸員に案内されて近くの矢野古墳に入ってきました。想像以上に立派な石室で奈良の蘇我馬子の墓とされている石舞台に相当する雰囲気でした。このあたりに有力な部族が住んでいたことが想像されます。

前回の上一ノ宮大粟神社の中でも書いたように我々が現在呼び慣れている阿波という地名はオオゲツヒメノミコトがこの地を治めるときから付けられていた粟国から来ていることは容易に想像できるが、では古事記を書き上げた直後に勅命により始まった各地の風土記の編纂に際して行われた地名の2文字化のとき、粟がなぜ阿波となったのかについて私流に想像してみたい。阿波の波の字は、大和の地から淡路島を経由して四国の玄関にあたる鳴門の地に立ったときの姿を想像するといい。美しい海岸線に波が打ち寄せている景色から波のイメージがまず浮かんできたことは理解できるであろう。では、阿波の阿の字は何を想像したのだろうか。それを知るためにまずこの時代には「阿」という文字にはどんなことが連想されていたのか、漢和辞典でその辺のことを調べてみた。当時の日本人が用いていた中国の漢や呉の時代に使われた阿という字が何を意味していたのかを調べてみると、阿とは大陵なり、とある。さらに陵は大阜なり、としている。つまり阿とは土を高く盛り上げた墳墓を指していたのです。粟の国は、当時すでに多くの有力な豪族の墳墓がいくつも林立していた古代の際立った地方都市だったと想像できます。だから阿波とは美しい海の景色と大きな墳墓がいくつも見えることが特徴的な土地だったと命名したのではないだろうか。その墳墓群がこの国府町の周辺に多く見られたのではなかったかと想像されます。そしてその中でもひときわ大きかった墳墓の一角に今回の神社が建立されているのです。

 八倉比売神社はそのような周辺の中でも式内正1位という位の高い神社です。その理由は、ご祭神が天照大神(大日霊女命オオヒルメノミコト)であるというだけでなく神社の背後には5角形の陵墓を背負っており、ここに天照大神が葬られている、とされているからです。だからここの社殿は背後の陵墓を拝む格好に建てられた神社となっている。つまり背後の陵墓に重点が置かれた神社なのです。神社にある社歴によると、この神社は鎮座している山自体がご神体になっているが江戸時代に神陵の一部を削ってここに拝殿本殿を作って、拝殿の後ろにある神陵を拝む形にしたとのことである。その神陵全体は変形の前方後円墳となっているとされているがそこまでは確認できなかった。神陵の頂上には五角形の青石で築かれた祭壇が設けられている。この祭壇がどのように使われたのか見当がつかないが周囲の雰囲気とマッチして幽玄の世界を漂わせている。この神社につけられている八倉という冠詞も普通の神でなく天子の居所を示す尊称とされている。社伝記には天照大神がこの地に天降りされ、社殿裏の峰に遷座されたと葬儀の模様を伝えている。

古事記によるとニニギノミコトが高天原から降臨されるときに勾玉、鏡、草薙の剣を携えて従ってきた神様の一人が天石門別神であり、古事記には「この神は御門の神なり」と書かれている。つまりこの神社を守っている天石門別神とは高天原や天照大神を祀る神殿の出入り口を守る神であり、天照大神の宮、及び天孫御所の門を守るために天降りしてきている神である。このことは、ここが天照大神の陵墓を守る社であることを示していることになる。つまり天石門別八倉比売神社とは天照大神が葬られている陵墓を守っていることを表した神社名ということになる。以前にこのことがテレビで取り上げられて社殿の裏の陵墓の上から電磁波?で内部の構造を探索していた番組を見たことがある。そこには陵墓の内部に構造物らしきものが映し出されたというのですが、それ以上は発掘してみないとわからないというものでした。

 伊勢神宮以外に天照大神が祀られているという説は今も強く否定されており、この八倉比売神社で天照大神を祀っているということはなかなか認められないが、朝廷が定めた式内正1位という格式はこの神社に対する強い畏敬の念をまさに証明していることではないかと思っています。

 伊勢神宮に内宮と外宮があるように鮎喰川に沿って天照大神の「八倉比売神社」とオオゲツヒメの「大粟神社」が並んでいることは、深読みすれば意味を持っているのかも知れない。そんなことを想像しながら山道を車で下っていった。この話をさらに延長させていくと天孫降臨の地は徳島であったとする主張に発展するかも知れませんが、今回はその手前で止めておきます。


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