古事記にまつわる阿波の神社
20、建御名方(たけみなかた)神社
古事記の上巻である神代の巻のクライマックスはなんといっても、大国主命と高天原の神との国譲りの交渉場面であろう。高天原から派遣された神による2度の交渉はことごとく失敗し、3度目に派遣されたのが建御雷神(たけみかずちのかみ)と天鳥船神(あめのとりふねのかみ)の二人であった。建御雷神は大国主命に国譲りについて詰問するが、大国主命は自分の息子である事代主神(ことしろぬしのかみ)に聞いてくれ、と答えを避ける。そこで建御雷神は事代主神を探し出して国譲りについて聞くと、事代主神は父の大神に「恐れ多いことだ。この国は天津(あまつ)神に差し上げよう」と即答する。建御雷神は大国主命に「これでよいか」と確認すると、大国主命は「もう一人の息子、建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。彼の意見を聞いてくれ」という。ところが建御名方神は建御雷神に力競(ちからくら)べをして決めよう、と挑んできた。建御雷神が建御名方神を投げ飛ばすと建御名方神は恐れをなして洲羽海(すわのうみ)に逃げ込んで「自分はここからはどこへも行かぬ、父の大国主命と兄の事代主命の言葉に従う」と言って姿を隠した。これ以降、建御名方神はもちろん大国主命も事代主命も古事記には登場しなくなる。この国譲りに登場した建御名方神を祭っているのが今回尋ねた建御名方神社である。
建御名方神社は徳島の北、名西郡石井町にあり、JR徳島線下浦駅と牛島駅のちょうど真ん中付近に位置している。この神社は平安時代の延喜式神名帳では「多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社」と記録されている。神社の住所は石井町浦庄諏訪である。そう、古事記にある建御名方神が逃げ込んだ「すわ」の地は、ここ石井町諏訪であったのだ。そしてここの建御名方神社には「諏訪本宮」の立札も立てられている。
長野県諏訪市にある諏訪大社は光仁帝の宝亀10年(779年)に阿波の多祁御奈刀弥神社から移遷された、と社伝にあるそうだ。その頃、現在の長野県にある諏訪大社は「南方刀美(みなとみ)神社」と言われており、阿波からご祭神が移されてきたことが伝えられている。つまり大国主命の息子神である建御名方神はここ石井町諏訪に祀られ、ここから各地に広がっていった、ということである。それにしても観光地として多くの参拝者が訪れる諏訪大社のご祭神が阿波から移遷された神様だと知っているひとはどれだけいるだろうか。
建御名方神社には珍しい注連縄(しめなわ)が締められている。藁で編んだ縄からカーテンのように縄が垂れている。写真で見ていただくのが手っ取り早いが、地元の住民に聞いてみても、昔からこのような注連縄だったと言っている。これにはどんな意味が含まれているのだろうか、他にもこのような注連縄を使っている神社があるのだろうか、これからも注意を払っていきたいと思っている。
また、ここの神社には注連縄にも一の鳥居にある「お旅所」にも鎌を交差させた印が飾られている。恐らく稲作の豊作を願ってのことであろうと想像しているが、ほかの神社ではあまり目にしないだけに、なにか特別の意味があるのでは、と勘ぐってしまう。
阿波には出雲の神が多く祀られていることは以前にも書いてきた。この神社もそのひとつである。それは、今までに書いてきたように出雲族が国譲りの後、集団で阿波の地に移り住んだ時期があり、そのときに先祖神を自分たちが住む、阿波の各地に祭ったのではないかと考えている。
しかも建御名方神が姿を隠したとされる諏訪の地がここであり、諏訪大社にはこの神社から移遷された神社だった、というのは多くの人にとっては目からウロコの話ではなかっただろうか。