古事記にまつわる阿波の神社 

 

19、生夷(いくい)神社

   古事記によると、伊佐奈岐命と伊邪那美命がおのごろ島で国生みを始める前、まず最初に生れたのが未熟児の水蛭子(ひるこ)だったとされている。古事記には次のように書かれている。『然れども、くみどに興して 子 水蛭子を生みたまいき この子は葦舟に入れて流し去てき』と。おそらく水蛭子とは蛭のように手足が十分に発育していない未熟の水子を堕胎したのではないだろうか。この蛭子は葦舟に乗せて流してしまったというのである。この不遇な神様について古事記はその後ひと言もふれていない。

古事記の最初の国生みのところは、皆が興味をもって読み始めるところであり、そこにいきなり不幸な出来事の話から始まるという、なんとも不吉な幕開けである。どうして我が国の生い立ちを書き残した古事記に、こんな書き初めをしたのだろうか。誰しも不思議に思うところであろう。

流された不幸な子供はどうなったのだろうか、ふっとそんなことが心をよぎる。そもそも国生みの舞台となったのは「おのごろ島」といわれる所であり、それは今では淡路島の西側に位置している沼島であるとされている。ここで伊佐奈岐命と伊邪那美命から最初の神、蛭子(ヒルコ)が生れ、続いて国土と神々の誕生が始まるのである。伊佐奈岐命と伊邪那美命はこの不遇な新生児を葦の舟に乗せて流したというのだ。なんともかわいそうなことをしたものである。実は、蛭子の次に生れてきたのも不遇な子供であり、この子も育てることが出来なかった、としている。

蛭子はおのごろ島から葦の舟に乗せて流してしまったとされているが、ここから流せば常識的にみて鳴門海峡の速い流れに乗って紀伊水道を南下していくことが予想される。そしてその舟が次に陸地に漂着するとすれば和歌山県側よりも徳島県側に漂着する可能性が遥かに高い。では徳島県内に蛭子が漂着したという伝説は語りつながれていないのであろうか。

ところが蛭子伝説が意外な形で民衆の中に生きているのである。それは、葦舟に乗せて流された水蛭子はひそかに海岸に流れ着き、成長して商売の神エビスさんとなった、というのである。しかし、その神は本来の神様の列には加えてもらえず出雲の神在月での集まりにも出席させてもらえない。しかし商売の神様として庶民に親しまれて各地に祀られているという。今でも私たちは「蛭子(ヒルコ)町」と書かれていると「エビス町」となんの抵抗もなく読んでいる。つまり、流された蛭子が七福神の一人、えびすさんになったというのである。そのえびすさんとはなんと事代主神(ことしろぬしのかみ)のことである、と言われている。ちょうどえびすさんと対になって親しまれているもう一人の七福神である大黒様が事代主神の父親の大国主命とされているのと同じ民族的信仰によるものである。

古事記には事代主神について細かく書かれていないのでイメージされにくい神様ではあるが、わずかに国譲りの場面で釣りに出かけていたことから鯛を抱えた七福神のエビスさんとダブらしてイメージされるようになったのだ。それはちょうど古事記の「稲羽の白兎」の場面で大国主命が八十神たちの荷物を入れた袋を担いでいたことから大黒様に見立てられるようになったのと同じである。

それでは一体、おのごろ島から流された蛭子はどこにたどり着いたのだろうか。おのごろ島とされている沼島から鳴門海峡の流れに乗って25kmほど南下したところに徳島県勝浦郡勝浦町があり、ここにエビスさんが誕生したとする伝説が残っている。そこには平安時代の延喜式神名帳に事代主神社が祀られていると記録されている神社があった。しかしその神社は、いつの頃からか神社の名前が「生夷(いくい)神社」となっている。つまりエビスさんが生れた神社、という名前になって伝わっているのである。江戸時代に民衆の間で「えびす、大黒信仰」が起こった頃に事代主神社が今の神社名に替わったのではないかと想像している。だが、神社の名前は簡単に替えられるかもしれないが、そこの土地の名前は長い習慣の中で変わりにくいものである。この神社の周辺の地名が生夷から転じた生比奈(いくいな)であることからも、この神社名はもっと古い歴史を持っているのかもしれないとも思っている。

小春日和の晩秋にこの神社を訪れてみた。この神社のご祭神である事代主神の父親である大国主命を祀ってある八桙神社から県道を北上して勝浦川に出る手前を左に入るとここにたどり着く。この親子の神社は車で走って15分程という距離であろうか。周りは昔からの氏子と思われる民家に囲まれており、静かな雰囲気につつまれている神社である。

昔は、海岸線が今よりも平地の奥深くまで来ていたといわれているので、この神社も海岸線に近いところに位置していたのではないだろうか。とするとおのごろ島から流れ着いた蛭子がこの神社の周辺で地域の人たちに育てられていったのかも知れない。そして成長するに従って近隣の漁村の人たちから漁業の神様といわれる七福神のえびすさんに称えられるようになっていったのかもしれない。

そしてその陰では、すでにこの地に定着していた出雲族の人たちの、この神社を守る力が大きな支えとなっていたのではないかと思われる。この神社の奥にあたる勝浦町坂本地区に「いずの滝」がある。この「いず」とは出雲のことで、出雲の神様にかかわる土地である、と昔から言い伝えられている。

私は少年の頃に、ここ生比奈に何人かの友人を持っていた。そして、子供ながらこの地名の不思議さを薄々と感じていたように思う。他の多くの近世に名づけられたと思われる地名の響きとは明らかに異なっていたからである。今から思うと私の郷里の周辺には、そんな古代の響きを持った地名がいくつかある。

私の神社巡りをこれからもさらに楽しませてくれそうだと感じている。


「古事記と阿波の神社」の目次に戻る