古事記にまつわる阿波の神社 


17、御井の清水と産宮神社

 

 古事記の下巻は仁徳天皇から始まる。その仁徳天皇の章の最後に書かれているのが「枯野という船」の話である。なんとも不思議な物語である。それはこんな話だ。

 『トノキ河の西に大きな木が生えていた。その木の影は、朝日に当たれば淡路島まで延び、夕日に当たれば高安山(信貴山のことか?)を越える。この木を切って船を作ると、とても速く走るので「枯野」と名づけた。この船で朝な夕なに淡路島の寒泉を汲んできて大御水を奉っていた。やがて船が壊れたので、その船の木で琴を作るとその音は七里(ななさと)に響きわたった。』というのである。 

 仁徳天皇がいる難波の宮は水に恵まれた処であり、わざわざ淡路島から水を運ばなければ困るという状況ではないはずだ。しかも淡路島はむしろ水が乏しい島である。瀬戸内式気候の淡路島は昔から絶えず水不足に悩まされている。今も生活や農業のために多くの溜池をつくって雨水を大切に活用しているような島である。現在淡路島には23千もの溜池があり、農業用水や生活水に使われているらしい。そんな水の乏しい島から水の豊富な難波の宮へ毎日船で水を運ぶとは一体どういうことだろうか。私は古事記のこのくだりを読んだときにその不自然さに興味が惹かれた。そこで友人を介して淡路島に住む郷土史家にその寒泉の場所を教えてもらって訪ねることにした。それが今回訪ねた『御井の清水』である。

 

 仁徳天皇が何故わざわざ水の乏しい淡路島から水を難波の宮へ運んだのか、それが知りたくて「聖なる水」が出ている処まで出掛けてみた。鳴門から高速道路で淡路島へ入ると、そこから一般道に降りて国道28号線を延々と北上した。目指す清水が湧いている場所は淡路市佐野というところにある。海岸沿いの駐車場に車を止めて急な山道を、道を尋ねながら20分ばかり登っていくと山あいの大きな木々に囲まれ、肌がひんやりするような処に小さな杉皮葺の簡素な小屋がある。そこには、岩の間から湧き出した水が樋を伝って音を立てて流れていた。横に「史跡 御井の清水」という石碑が建てられていなければ見過ごしてしまいそうな寂しい場所である。ここに湧き出ている水は六甲山系の花崗岩質から浸透して湧き出ているらしい。一口飲んでみたが水の冷たさが喉に染み渡り、心地よい清冽さが口の中に広がった。でも、ここから船が待っている海岸まで毎日水を運ぶのは大変だったろうと想像する。こんな苦労をしながらも運び続けたのは、やはり仁徳天皇にとってはこの水はかけがえのない特別な意味を持っていたからであろう。 

 古事記によると、仁徳天皇は淡路島には特別な執着があったようであり、ここへよく来ている。狩猟を楽しむために来たり、愛する女性を訪ねるための口実に使ってみたりとさまざまだ。

 古事記によると仁徳天皇には妻が3人いたがその他にも恋の相手が何人か登場する。しかも正妻である大后が大変なやきもち焼きであり、仁徳天皇はいろいろと苦心する様子が面白い。そのような場面のひとつに、吉備(今の岡山県)から来ていた女官に惚れてしまうが、その女官は大后の嫉妬が怖くなって吉備に逃げ帰ってしまう。仁徳天皇は大后に「淡路島を見に行く」と嘘をついて難波から船で淡路島に向かう。その船の上でこんな歌を詠んでいる。私なりに口語訳すれば、「難波の岬を出て わが国を見渡せば 淡島、おのごろ島、あじまさの島が見える さけつ島も見える」というような歌の内容だ。つまり仁徳天皇が難波から出航して淡路島を望むと、その横にはおのごろ島が見えた、と詠っている。やはり、淡路島に隣接する今の沼島を見てイザナギ、イザナミが国生みをした「おのごろ島」とはっきり認識していたことがこれで分かる。

 結局、仁徳天皇はこのときもまんまと淡路島を通り抜けて吉備の国に行って愛する女性に会ってきている。このように仁徳天皇はいろいろな理由をつけて淡路島に出掛けており、大后はそれを止めることは出来なかったようだ。それは淡路島が仁徳天皇にとって特別に重要な島であったことによるのではないだろうか。 

 そんな中で大后が出産間際になってから天皇が淡路島へ狩りに出掛けたいと言い出した。淡路島には古代から鳥獣が多く棲んでいたために狩猟場としての仮宮、「淡路宮」も置いていたほどである。さんざん天皇の女性問題で苦労してきた大后は天皇の腹の内を心得て、自分も一緒に狩についていくと言い出した。医療の発達した現代でも女性にとって出産は命がけのことであり、ましてや古墳時代の出産であってみれば、出産直前の臨月に船に乗って狩についていくことは、ひとつ間違えば自分の命が危ない大変な事態である。すでに日継太子となる長男と次男を生んでいるが第3子の出産直前である。こうして大后は淡路島まで天皇の狩についていって、そこで無事男児を出産することが出来た。この皇子が後の反正天皇である。そのときに産湯を使ったところが南あわじ市にある「産宮神社」となっている。この話は古事記には書かれていないが、仁徳天皇ゆかりの神社として足を延ばして訪ねてきた。

 しかし、この神社にたどり着くのにも苦労した。近くの高速道路インターで場所を尋ね、さらに神社近くの交番で尋ねるが誰もその場所を知らない。こんな片田舎に仁徳天皇ゆかりの神社があることもあまり知られていないようだ。神社の境内には今も当時の産湯を使ったとされる池が残されている。この皇子は成長して大男の天皇となり、身の丈92寸半、歯の長さ1寸と古事記には書かれている。

 では、一体仁徳天皇のこの淡路島に対する強い思い入れはどこから来ているのだろうか。私は、それはここが天地創造した偉大な神、イザナギノ命が眠る島だからではなかったかと思っている。イザナギノ命がこの地で国生み、神々を生んだことに対する畏敬の念と、その大神がこの地に眠っているという「神聖な島」であり、ヤマト王権の長としてそうした先祖を丁重に祀っていきたい、との気持から淡路島の湧き水を朝晩神棚に供えていたのではないかと想像している。それはイザナギノ命が国生みをした「おのごろ島」を意識して歌に詠みこんでいることからも容易に推測できる。

 仁徳天皇は後世の人たちから「仁」、「徳」という最も気品の高いおくり名をつけてもらうほどに偉大な大王だったようだ。民衆のカマドから煙が上がらないことから、数年間税の徴収を止めたという逸話も残されているほどである。当時は古事記などが作られる前だからイザナギ、イザナミの物語を知っていたかどうか定かではないが、古事記に登場する「おのごろ島」を歌に詠むところを見ると、古事記編纂にまでつながる天地創造の口伝はすでに始まっていたのではないかと思われる。そのように考えると仁徳天皇が淡路島から朝夕清水を宮殿に運んでいた気持ちが見えてくるように感じられる。

 


「古事記と阿波の神社」の目次に戻る