古事記にまつわる阿波の神社 


16、鹿江比売神社

  吉野川の北岸に沿って走る撫養街道が板野郡上板町に差し掛かったところに神宅という村がある。神様の住む土地という意味が込められた地名だそうだ。近くには高速道路のインターがあるが、ここに鹿江比売(かえひめ)神社がある。訪れてみると結構広い境内の真ん中に社殿があり、周りには「鎮守の森」が広がっている。この周辺の子供たちの格好の遊び場になっていることは容易に想像できる。最近こんな神社にめぐり合うことが少なくなった。

 境内に立てられている社歴によると、この神社は昭和の時代に古くなった2つの神社を合祀したものらしい。一つは鹿江比売命を祭神とする葦稲葉神社であり、もうひとつは須佐之男命を祭神とする殿宮神社である。ただ、この神社の正面に立っている古い石の鳥居には葦稲葉神社、殿宮神社、鹿江比売神社の3社の名前が掲げられている。はたして鹿江比売命は葦稲葉神社の祭神として祀られているのか、あるいは鹿江比売神社として合祀されているのか、今ひとつ定かでない。しかし鹿江比売命は厚く祀られていたらしく社歴には鹿江比売命を祭神として奉る葦稲葉神社には陽成天皇から従4位の上を賜った、と記している。私が調べた限りでは鹿江比売命を祭神とする神社は、近くの大麻比古神社に小祠として祀られているのを除けば、全国でここだけのようだ。

 

この鹿江比売命とはどんな神様なのか、古事記には次のように登場する。「イザナギノ命とイザナミノ命は国生みの後、多くの神様を生み始める。海の神、水戸の神、風の神、木の神などを生んでから続いて山の神と野の神を生む。山の神の名前は大山津見神(おおやまつみのかみ)であり、野の神の名前は鹿屋野比売神(かやぬひめのかみ)である。この鹿屋野比売神がこの神社のご祭神である鹿江比売命である。この神様は大山津見神との夫婦神で、二人で山の神、野の神々を次々に生んで8柱の神様を誕生させることになる。」

このように鹿江比売命は古い時代の神様であり、阿波の神様であるオオゲツヒメノ命よりも前に登場している。この地に野の神様が祀られているならば、この近くに山の神様が祀られているはずである。どこかに大山津見神をご祭神とする神社があるはずだが、まだ私はそのような神社を知らない。

この8柱の神様のほかに二人の娘が次のように古事記に登場してくる。「ニニギノ命が5柱の神様を従え、3種の神器を携えて天孫降臨して笠沙(かささ)の御前(みさき)に降りてくるが、そこで美しい娘と巡り会う。ニニギノ命が名前を問うと、大山津見神の娘で木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)だと答える。ニニギノ命はこの娘との結婚を大山津見神に申し込む。大山津見神は快く承諾して姉の石長比売(いわながひめ)を添えてニニギノ命のところに奉った。ところが姉の石長比売は大変醜い娘だったので、ニニギノ命は姉の石長比売を返して木花之佐久夜毘売と一夜を共にした。大山津見神はニニギノ命に対して、『私が二人の娘を差し出したのは、石長比売は天津神(あまつかみ)の子の命が永遠に続くようにと願ってのことであり、木花之佐久夜毘売は木に花の咲くように永遠に栄えるようにと願って奉ったものだ。しかし石長比売を返し木花之佐久夜毘売だけを受け取られたことは、天津神の子は木の花のように散ってしまうことであろう』と。このときから天津神の子には命に限りがあり、寿命が尽きるようになった、とか。

 木花之佐久夜毘売はまもなく懐妊したことがわかる。ニニギノ命は「一夜しか床を共にしていないのに妊娠するとは、それは私の子ではないのでは」と怪しむ。意外に天津神も嫉妬深かったようだ。木花之佐久夜毘売は「天津神の子でなければ無事に生むことはできないだろう」と言って産屋を土で塗り固め、そこに火をつけて子供を生む。こうして無事に3人の男の子を生むことになる。長男の名前は火照命(ほでりのみこと)、次男は須勢理命(すせりのみこと)、3男を火遠理命(ほおりのみこと)という。この長男は成長して海幸彦となり、3男は山幸彦となる。そして山幸彦は海神宮(わたつみのかみのみや)で秘術を授かり後の天皇の祖先となることはご存知の通りである。山幸彦の孫が初代天皇の神武天皇となるのである。

 さらに場面は異なるが、須佐之男命がヤマタノオロチを退治するときに出会ったクシナダヒメの父親アシナヅチは、須佐之男命に向かって、自分は大山津見神の子だと名乗っている。つまり鹿江比売命の孫が須佐之男命の妻のクシナダヒメであり、鹿江比売命は大国主命の8代前の先祖ということになる。つまり、この神社のご祭神である鹿江比売命は夫の大山津見神と共に、後の天皇家につながっていく重要な神様であるとともに出雲の神の先祖でもあるのだ。後のヤマト王権と出雲族共通の先祖ということになれば、まさにこの国のルーツとでもいえる神様と言える。このように大切な神様であり式内社としての長い伝統があるにもかかわらず2,3の神社の合祀という格好になっている。寂しい限りである。

明治39年の神社合祀令以来1町村1神社の圧力が強まり、神社の歴史・格式をないがしろにする風潮が起こっていたことは残念なことである。廃止された神社の跡地は耕されて食糧増産の下支えになったかもしれないが、人々の心を近くで日常的に支える力にはならない。我が国の長い歴史を生きてきた民衆の心のよりどころが消えることは神社を合理化したメリットを帳消しにしてしまうだろう。

 今年の311日の東日本災害によって多くの神社が失われた。政府は被災地の復興には力を入れているが、宗教には関わらないとの原則のもと、神社仏閣の救済は行わないとしている。必要なら自分たちで作れ、ということだ。

困ったときの神頼み、やはり人には心のよりどころとしての神社や寺が近くにあることが大切なのではないだろうか。ここの神社の合祀を見ていてそんなことが心をよぎった。

 


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