古事記にまつわる阿波の神社 


 15、事代主神社

  古事記は上巻、中巻、下巻の3部より成っているが、その上巻である神代の記述の多くの部分を出雲の神である大国主命(おおくにぬしのみこと)で占められている。これほどまでにこの神にまつわる物語が多く語られているのは、大国主命が天津神(あまつかみ)にたいして国譲りをしたことがその後のヤマト王権、さらには天皇誕生に重要な出来事だったからだ、との見方をする人たちもいる。

 大国主命は須佐之男命(すさのおのみこと)と櫛名田比売(くしなだひめ)の間に生まれた子供から数えて6代目の子孫である。この大国主命の大一番の仕事は、なんと言っても建御雷神(たけみかずちのかみ)との国譲り交渉であろう。実は建御雷神が交渉に来る前に2人の神様がそれぞれ大国主命との交渉に派遣されている。しかし、2人の神様はいずれも大国主命に懐柔されて戻ってこないのだ。高天原では困ってしまい、連日の大会議を開いて派遣する全権大使の人選をした結果、建御雷神に天鳥船神(あめのとりふねのかみ)をつけて派遣することに決まった。

  この二神は出雲の国の伊那佐の小浜に降りてきた。そして大国主命に向かって「私は天照大神より、この国は自分の子が治める国であると言われて来ているがお前はどう思うか」と詰問した。これに対して大国主命は「私の息子である八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)に聞いてくれ、しかし彼は御大之前(みほのさき=美保ヶ崎)へ魚釣りに行ってまだ帰ってこない」という。そこで建御雷神はすぐに天鳥船神に彼を探して連れてくるようにと指示する。帰ってきた八重事代主神は父の大国主命に「恐れ多いことだ、この国は天照大神の子に奉ろう」と即答する。その後、紆余曲折しながらも事代主神の進言通り大国主命は建御雷神に国譲りを約束する。一方、事代主神は大国主命に国譲りを進言した後、身を隠してしまう。大国主命は建御雷神に対して「私の子供たち180人は事代主神に従って天津神に決して背かないであろう」と約束をする。かくして古事記における事代主神の登場はこの場面で全てとなる。

この大国主命の長男である事代主神が今日訪れた「事代主神社」のご祭神である。不思議なことに、平安時代に書かれた延喜式神名帳には事代主神社は現在の徳島県にある阿波市と勝浦郡にあったとされているが、徳島県以外では奈良県と宮中にしかない、とされており肝心の出雲にないのだ。

結果的に事代主神のひと言がヤマト王権の天下統一の大きな引き金となり、天皇家誕生へとつながっていく重要な分かれ道となったのである。それだけに後世の人たちはこの事代主神に対して敬意と親しみを込めて大切にお祭りをした。といってもこの神様についての情報はあまりにも少ない。そこで人々は少ない情報を元に想像を膨らましたのだ。まず、ひと言で進む道を示したので託宣神として崇められるようになる。さらに海に釣りに行っていたことから、豊漁・海上安全守護の神として祀られる。また、釣りの好きな事代主神を七福神のエビスさんが大鯛を小脇に抱えている姿にダブらせてイメージして事代主神=えびすさん、と親しみを込めて受け入れられるようになるのである。

 このように民衆に親しまれただけに徳島にもいくつか知られている。徳島市通町や阿波市市場町などが知られているが、今回は徳島市川内町にある事代主神社を訪れた。この神社は今切川の近くにあり、大塚製薬徳島工場からも近い。神社の周辺には徳島名産のサツマイモの畑が広がっている。この神社の一の鳥居、二の鳥居の位置から考えても、以前はもっと大きな境内を擁していたのではないかと想像するが確かめてはいない。

上古の時代には阿波の国に出雲族の人たちが大勢来ていたと言われている。あるいはそれは出雲族が大和王権による統一国家形成の過程でその傘下に降り、部族としての求心力を失いつつ、分散していったことによるのではないだろうか。ちょうど大国主命が天津神に国譲りをし、そして事代主神たち息子たちが姿を隠したとする古事記の文章は正にそのことをさしているとの見方もできる。そして、ある者たちは大和へ移り住み、ある者は地方に散っていったのであろう。そしてその一部が阿波の地に先祖神を携えて移ってきたものと思われる。事代主神社が阿波に多く祀られていることはまさにその証左であろう。

 


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