古事記にまつわる阿波の神社
14、淤騰夜末(おどやま)神社
ひょんなところから新たな神社が現われてくるものだ。天村雲神社を尋ねて吉野川市山川町を車で右往左往していたときに地元の住民がくれたパンフレット「山川町山崎地区史跡めぐりマップ」に、この淤騰夜末神社が載っていた。私はこの想定外の見っけ物に心が躍った。このように古事記にまつわる神社が思わぬところから飛び出してくるのが徳島らしいところだと改めて感じた。
この神社に祀られている神様は一体古事記ではどのように登場してくるのか、まずはそこから始めてみよう。
イザナギノ命とイザナミノ命の二柱の神様はオノゴロ島で国生みの後、神々を生み始める。最初に生れる神様は大事忍男神(おおことおしおのかみ)であり、それに続いて次々と神様が生まれ、33番目に生れるのが火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)である。イザナミノ命はこの火の神様を生むことによって、やけどをして命を絶ってしまう。イザナギノ命はイザナミノ命の死を大変悲しみ、枕元や足元に泣き崩れて悲嘆にくれる。そして悲しみのあまり、生れた火之迦具土神の首を刀で切ってしまう。このとき刀の柄に付いた血から生れた神様が、以前に訪ねた阿波市土成町にある建布都神社に祀られている建布都神、またの名は建御雷之男神である。さらに切り殺された火之迦具土神の胸から生れる神様が淤騰山津見神(おどやまつみのかみ)、すなわち今回訪れた淤騰夜末(おどやま)神社の神様である。このように火之迦具土神の体からは次々と神様が生れてくるのだが、今回の淤騰山津見神はそのひとつに過ぎず、古事記にはこの神様の誕生を記しただけで、それ以上は触れていないし以後も全く登場しない神様である。
建布都神の場合は古事記では再び登場して華々しい活躍をしているので神様として人々から祀り崇められるにふさわしいと思われるが、今回の淤騰山津見神には活躍の場どころか、どんな神様であったかの説明もない。このような神様を祀ろうとした吉野川市山川町の昔の人たちにはどんな思いがあったのだろうか。また、この神様を村に祀ってどんな加護を期待したのだろうか。もし、現代の我々が村に新しい神社を作ろうとしたら絶対にこの神様は選ばれないだろうと思う。
しかし、ここに少し気になるところもある。それは最近の市町村合併で新たに生れたこの地の吉野川市は、もともと麻植郡といわれていたところである。この麻植郡という地名は上古の時代に忌部一族が天皇の神事に用いる麻を栽培していたことに由来する名前であり、ここには古い歴史が刻み続けられている土地柄である。この神社はそのような時代に生きた人たちが作ったものであり、現代の我々と違った見方でこの神社を眺めていたことであろうと想像される。さらにこの神社は忌部神社の摂社である。忌部一族にとって淤騰夜末神社は何か特別の意味があったのであろう。吉野川の向こう岸には火之迦具土神から生れた建布都神社を、川の手前には同じ神様から生れた淤騰夜末神社を祀っていることには何か意味があるようにも思えてくる。あるいはこの周辺にはまだ火之迦具土神から生れたほかの神様も人知れず祀られているのかもしれない、とも想像される。
すぐ近くには祇園神社があるが、これらはスサノオノ命など天村雲神につながるものである。このようにこの一帯は忌部一族の史跡や古事記の雰囲気に満ち満ちたところである。おそらくこの淤騰夜末神社は忌部一族がこの地に住んでいた頃にはなくてはならない神社だったことであろう。そして今でもその末裔に見守られて淤騰夜末神社はここに静かに息づいているのだ。