古事記にまつわる阿波の神社
1、阿波の神社を尋ねて
東京世田谷区の神社の一室を借りて始まった「古事記に親しむ会」もすでに3年が過ぎ、やっと古事記の素読を進めながらも周辺に目が向けられるようになってきた。古事記を読み始めて私がまず気がついたことは古事記の神代の部分には西日本、特に淡路島、四国周辺の記述が多いことだ。天地開闢(かいびゃく)に高天原から下界のどろどろした沼地のようなところをかき混ぜて島を作りイザナギノミコトとイザナミノミコトが降りてきたとされるおのごろ島は淡路島の一角にある沼島とされている。つまり古事記の物語のスタートは淡路島を中心とした四国周辺が舞台だったのである。
私は高校生活までを徳島県で過ごしていたが、地元が古事記の舞台であったとは当時思いもしなかった。ただ、地元の老人たちから古事記の物語はよく聞かされていたことは、今から思えばひとつの地域性だったのかも知れない。なぜなら関東生まれの私の家内は子供の頃には古事記の話しなどは聞いたことがなかった、と言っている。私は子供の頃、夜寝るときに祖母から、古事記の物語をよく聞かされていた。
だから古希を迎えたこの年齢になって古事記の素読を始めても神代の物語には馴染みが深い。しかし、私は自分の子供達を育てているときに古事記の話をしてやった記憶がない。だからおそらく孫たちも古事記の物語を知らずに育てられることだろう。私に語り継いでくれた祖母からのバトンを次の世代に語り継いでいないことに気がついた。
私はすぐに孫たちに、それぞれの孫の年齢に応じた古事記の物語を手作りのプリントで作ってプレゼントした。ママたちからの報告では、「おじいちゃんからプレゼントされたお話」として古事記をよく読んでくれていたようで一安心した。こんなことでもしなければ、書店に並んでいる子供用の本棚にはディズニーなどの絵本で埋め尽くされている。
そのような絵本から子供たちはキリストの生誕の物語は知っていても日本の国の誕生にまつわる物語は知らないままに大人に育ってしまう。古事記にある「因幡の白兎」や「ヤマタの大蛇」などは子供の頃に知っておくことが大事だと思っている。
確かに古事記の神代の巻に描かれている荒唐無稽な物語は現代の知識教育にとって何の役にも立たないと思われるかも知れないが、これらの物語にはわが国の黎明期に息づいていた我々の先祖の息吹が込められている。我々が古事記を読んでいてある種の温かみを感じるのは、私たちの体の中に古事記に書かれている先祖達のDNAが生き続けているからだと思っている。
私は徳島の高校を卒業して以来、関東を中心とした生活が続いている。そして長かった企業活動も終わり子供や孫たちに囲まれる静かな生活が始まっている。会社人間として働いていた現役時代の頃、郷里の徳島は年に1度帰る遠い古里でしかなかったが、今では郷里に住む母の介護のために毎月10日間ばかり帰省するという二重生活が続いている。徳島に帰れば昔からの懐かしい友人たちとの交流が待っており、そんな中から古事記にまつわる徳島県の神社を巡る楽しみが始まったのだ。もうすぐ100歳に手が届きそうな母も、隔週に往診してくれている医師が驚くほど元気であり、食事にさえ気をつけておけば1日程度の昼間の神社巡りは可能である。そんなことから毎回の介護には東京からフェリーで車を持ち込んで阿波の神社めぐりを楽しんでいる。
徳島県内の神社めぐりは、いざ始めてみると夢が次々と膨らんでいくのが楽しい。阿波の国だけでもいくつか繋ぎ合わせながら古事記の世界に思いを馳せて楽しむことができる。私は古代の世界に思いを馳せるときに、地元出身者としての多少の身びいきをするかも知れないが、特に古事記に対しては忠実に読んで古代記録を歪めて解釈することだけは避けたいと思っている。古事記(佐久間靖之訳本)を片手にこれらの神社を巡るのは古希を過ぎたこの年齢になると贅沢な遊びといえる。
科学技術が宇宙の謎、地球の歴史、人類の先祖、日本人の遺伝子による民族移動の足跡など日本列島の歴史が次々に明らかにされている中、今では誰も空に神様の国があるとは思っていない。日本列島を神様が生んだとも信じていない。それなのに現代の神社ブームはすごい。若い女性たちは自分たちの縁結びをせっせと神様にお願いしている。各プロ野球チームもそれぞれの神社に必勝祈願を欠かさない。受験シーズンが近づくと人気スポットの神社の絵馬は急速に厚みを増す。正月3が日で日本中の神社に何千万人の国民が出掛けただろうか。
私たち日本人は科学技術による真実の解明とは別に、古来の神様に対して計り知れない親しみと信頼感を持っているのだ。どんなに時代が進もうと天照大神にすがり、大国主命に自分の結婚をお願いする姿は変わらない。まさに私たちの体に流れている古代から受け継いできた血というか遺伝子によって、古事記に描かれた世界観とつながっているのだと思わざるを得ない。
そんな気楽な構えでこれから私流に阿波に広がる古事記の世界を楽しみたいと思っている。