大豆が歩んだ近代史 その9

「満州と当時の中国社会について」

 

満州とはどのような社会だったのか

日本が満州に満鉄を設立し、日系企業が満州に進出しようとしていた1910 年ころの満洲の様子を見てみましょう。満州には清朝が滅亡した1912年には地方軍閥がいくつか存在していて、軍閥間の抗争や軍閥による経済活動が盛んに行われるようになってきます。そして彼らの中には軍閥の力を伸ばして大きな勢力を持つようになってくるものも現れてきます。その代表的な軍閥として張作霖・学良父子のいわゆる張政権がありました。張作霖は、1908年に満洲に出没していた山賊を討伐した後、周辺の土地を収奪していき、1916年には自らの軍閥(奉天軍閥)の勢力を背景に遼河周辺の18億平方メートルの農家の土地を奪って自分のものにしてしまったのです。その結果、張作霖は満洲の軍事·政治を掌握し、満洲地方最大の地主となります。中国本土では科挙に合格した知識層が政治の中心になっていましたが、満州では教育をほとんど受けていない「馬賊」と言われるギャングが勢力を伸ばしていったのです。張作霖は土地の占有だけでは満足せず、自らの軍閥の勢力拡大のために国際商品として成長しつつあった大豆に目を付け、その確保のためにいろいろな施策をめぐらしていくことになります。

 

張作霖政権は自らの軍の戦力増強のために海外から武器を購入する必要に迫られ、その資金となる外貨の獲得が急務となっていました。そのため自分の配下に多くの糧桟を設立させていったのです。これらの糧桟は各地の農家から大豆を青田買いしており、そのことにより農民から低価格で大豆を買付けることができるために多くの利益を得ることが出来るようになります。そして、その流れの中でいくつかの銀行も設立し、そこで発行する私帖と称する信用預り証を大量に発効し、これを利用して農家を取り込んでいくことになります。同じようなことがいくつかの軍閥によって行われたために満州大豆の取引は外国企業にとってわかりにくい混乱状態となっていくのです。このように満洲には 20 世紀の初めから各地で多種類の通貨が並行して流通していました。そのために各地に亘って取引をする場合、それぞれの地区の流通貨幣に交換しなければならず、またその交換比率も複雑に入り込んでいて外国商社などにとって農家と直接取引することが難しい状態でした。そのうちに「官商筋糧桟」と呼ばれる糧桟が生まれてきます。官商とは官僚と特殊な関係にある商人のことで、次第にその数は増えていき過半を占めるほどにまで膨らんでいきます。官商たちは農家に支払う代金は自分たちの不換紙幣を乱発して当てていました。農民はこの紙幣を使って生活に必要なものの支払いに充てることが出来たのです。こうして官商系糧桟は不良紙幣の乱発で農家を取り込んでいくのです。官商には紙幣の乱発は自由でしたが、海外の商社がその紙幣を取得するには自分たちの優良貨幣で買い取らなければならず、不良紙幣の騰落による損害までも背負い込まなければならない危険性と背中合わせになってしまい、深く踏み込むことが出来ない大豆のビジネス世界となっていきました。

こうした動きに対して満州大豆を求める日本企業は警戒を深めていき、日本側も対抗措置として満鉄をはじめとする商社や製油会社などが自前の糧桟を設立するようになります。満鉄は協和糧桟を設立してハルビン・長春・東清 鉄道沿線で大豆を集荷するようになります。さらに三井物産は営口、安東、開原、長春、鉄嶺、四平街、公主嶺に出張所を設置して大豆の集荷に乗り出していきます。しかし日系企業が設立したこれらの糧桟は数年後には閉鎖することになります。それは現地の複雑な仕組みと不渡り、不正品交付、抜荷等の悪事に直面することになり、全体の7割に当たる組織が倒産して、いずれも莫大な損失を被ったとも言われています。

 

張作霖は1927年には北京で「大元帥」に就任し中華民国の指導者になります。しかし中国国民党が勢力を増してきたことで張作霖は北京を去って奉天に戻ろうとします。その張作霖の乗った列車が192864日に奉天近郊で爆破され、彼は爆死してしまいます。この事件は終戦までは犯人の公表は行われませんでしたが、その後の調査で、この事件の首謀者は関東軍高級参謀であった河本大作によるものとされています。この事件の後で張作霖の軍閥を引き継いだ息子の張学良は関東軍と日系企業に強く反発し、自らの大豆ビジネスをさらに拡大していきました。

一方、満州での農産物の生産地は広大な内地の奥深くにまで広がっていたために、鉄道が開通する前には、大豆などの穀物の取引は村や町で開かれる自由市場で行われていました。しかし鉄道が開通したことにより、農民は奥地の自由市場で販売するより鉄道で中央市場・沿線糧桟まで運んだ方が高値で売れるために、駅まで自分の馬車などで運搬していくようになります。こうして満州における鉄道の普及は大豆の交易システムを次第に整えていくことになります。しかし集荷された大豆を取引するためには糧桟の私帖などとの兌換が必要になり、簡単に日系企業が参入していくことが難しい状態が続いていました。張作霖はさらに満鉄との並行鉄道路線などを敷設して大豆の買付、販売、運輸などの事業を満鉄から奪う動きを始めます。こうして張作霖は1928年には満鉄の大豆輸送量を上回るようになっていました。

そして満州大豆がいよいよ世界に向けて大きく羽ばたく時代を迎えるのです。

 

しかし、そんな時に中国では、1911年に孫文が辛亥革命を起こし、翌1912年に清朝が滅ぼされて孫文が率いる中華民国が建国されたときには、この満州地帯もいったんは中華民国に組み入れられましたがその政情は安定せず、列強の支援を受けた地方の軍閥が争い合う不安定な状況が続きます。これに対し1919年に軍閥の打倒を目指した国民党が結成され蒋介石がその指導者になります。こうして広州から始まった国内戦は北方軍閥の討伐(北伐)に向かって進められ、19274月に南京政府を樹立します。日本ではそれまでは協調外交を進めていましたが、ここで陸軍出身の田中儀一が首相になると外交政策を変更し、蒋介石による北伐が日本軍の駐在している満州の権益を脅かすとして、北方の軍閥の張作霖を援護することを口実に山東省へと出兵をします。しかし張作霖は日本との共同戦線から離れていったことで奉天郊外において爆殺されてしまうのです。この事件は軍部の中で抑えられてしまいましたが、田中内閣は責任を取って退陣することになります。張作霖の後を継いだ息子の張学良は日本の意見を入れずに国民党に合流することになります。このことから蒋介石の国民党による中国統一がほぼ成し遂げられることになります。

 

これら一連の動きに対して満州の関東軍は、中国の統一を恐れて満州事変(1931)を起こします。満鉄の線路破壊を国民党の仕業とした柳条湖事件に端を発した満州事変により、満州全土が関東軍の管理下に置かれ、この地を中華民国から独立させて「満州国」を建国(1932)させることになります。満州国建国により清朝の最後の皇帝であった愛新覚羅が満州国の皇帝に就任することになります。これら一連の出来事は日本政府の方針を無視した関東軍の暴走によるものだったのですが、これら関東軍の思惑とは違って満州国の建設に立ち向かっていた若者たちがいたことも知っておく必要があるでしょう。国内の期待を一身に受けて満州の地に渡ってきた優秀な若者たちの、日本人と満州の人たち共同で理想の地を作りたいとの思いが強く、情熱に燃えた動きがあったことも菊池寛による「満鉄外史」から知ることが出来ます。いずれにしてもこれら一連の動きによって日本は満州国を自らの支配下に組み込むことになります。

満州という地域は、中国本土から見ると万里の長城の外にあり、中国の民衆にとって満州は

中国の外域との感覚もあり、満州国建設に対してそれほどの強いこだわりがなかったと思われます。しかしこの時の日本の若槻内閣は国際協調路線をとっており、関東軍が起こした柳条湖事変に対しても中国と話し合いで解決していこうとしていました。しかしこれを無視した関東軍は満州事変へと拡大していきます。国内の不況に苦しんでいた我が国の民衆もこの関東軍の暴挙をむしろ支持していたためにここで若槻内閣は解散して犬養内閣に代わります。犬養内閣も中国との交渉で事態の解決に臨もうとしてしばらくは満州国を認めようとはしませんでした。軍部に反対して満州国を認めない犬養首相は1932515日に暗殺されてしまいます。ここで実権を握った軍の圧力によって日本は9月になってやっと満州国を認めることになるのです。

 

これに反発した中華民国は、満州は中華民国の主権下にあるべきと主張して国際連盟に提訴します。国際連盟ではここでリットン調査団を結成して現地調査に入ります。そして国際連盟での調査結果に基づいて、満州からの日本軍の撤退などを勧告されます。当時の国際連盟加盟国の多くは中華民国の主張を支持して我が国は世界各国から強い非難を受け、ついに国際連盟を脱退する(1933)という窮地に立たされます。さらに19362月に「2.26事件」が陸軍青年将校などによって起こされ、軍部に反対していた閣僚などが暗殺されて更に軍部寄りの政策がとられ、関東軍は中国への兵の増強を更に進めていきます。

 

この一連の動きの中で1931年には中国共産党は抗日運動の拠点として「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立します。しかし、これに対し国民党の蒋介石は日本との全面衝突を避けて中国共産党との争いを優先する道を選び、毛沢東と蒋介石両者の争いが続きます。しかし、1937年の盧溝橋事件が勃発すると、蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党が連携して「抗日民族統一戦線」を作り、ここで流れは「日中戦争」へと発展していきます。もはや話し合いでは解決できないと判断した近衛内閣は「東亜新秩序建設」を旗印に戦争へと突き進むことに転換します。

 

関東軍と競合していた張学良はその後どうなったのか、気になりますね。満州を追われた張学良は蒋介石が率いる国民党に身を寄せます。しかしその一方で抗日戦争を優先する毛沢東に近づき、蒋介石を抗日戦争に導くために拉致監禁し、日本への対抗を促す「西安事件」へと展開していくことになります。蒋介石からすると自らの部下からの明らかな反乱であり、張学良はその後長期に亘り軟禁状態に置かれ、最後はハワイに移住して2001年に亡くなります。

 

日本の中国への兵力増強に対し蒋介石・毛沢東はイギリス、アメリカとソ連などの支援を取り付けて徹底抗戦に入ります。その結果として日本はアメリカから19418月になって対日石油全面輸出禁止を受け、さらにA(アメリカ)、B(イギリス)、C(中国)、D(オランダ)包囲網により窮地に追い込まれ、12月真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入していきます。日本政府は国家総動員令を公布し、国民徴用令を制定して、先の見えないまま泥沼の第2次世界大戦へと突入していきます。そして、日本がこの戦争に敗れたことによって満州国も消滅し、いまでは満州という呼称は消えてしまいました。

 

日中戦争の中で

日中戦争が長期化する様相となると、関東軍はその軍事費用調達のために大量の外貨を必要とするようになってきます。そこで1937 年には満州各地に農業合作社を設立し、農家から農産物を最低入札価格で買い取り、その場で大豆輸出商社に販売するという仕組みに変えます。しかしそこで取引された農産物は前年度の 51.7%でしかなかったのです。満州農家は闇市場との取引に逃げたのでした。

このように、満州大豆は国際商品として海外の情勢に影響される一方で関東軍が打ち立てた満州国の政策によってその力強さを失っていきます。これらのことは満州大豆が日本の戦時体制の下に置かれた運営だったからと見ることも出来ますが、こうして農民は大豆生産に魅力を感じないという状態に陥ってしまい、それがそのまま大豆の生産量の低下となって表れてきました。1939 年の大豆出荷量は、前年の325万トンに対して125万トンと38.7%でしかない急激な減産となっています。しかしこれに対して満州国政府は1941年にはさらに新たな制度を導入して、終戦を迎える1945 年まで農民たちに飢餓的な状態で強制的に大豆の集荷を強いて、日本の食料不足を支えることに注力することになります。

こうして満州国政府は農民から強制的に大豆を納入させ、闇ルートへの販売も厳しく監視した結果、終戦直前の1944 年には大豆買収実績は268万トンを確保していたことが記録されています。ところがこれらの大豆の多くは日本に渡らずに満州に留まったままで終戦を迎えることになります。終戦が近くなると日本海はアメリカ軍の潜水艦によって完全に封鎖され、満州大豆を運搬する日本船の多くは沈められてしまい、満州の港に大豆の山を残したまま終戦を迎えることになります。

 このようにして第二次世界大戦中の満州は、日本が戦時体制の食料を確保するための重要穀物供給基地として大豆を農家から強制的に買い上げるという構図となってしまいました。そしてそのことは結果的に農家の生産意欲を奪うと共に、満州からの大豆の供給が途絶えてしまったアメリカに自国増産へのきっかけを与えることになったとも言えます。こうして終戦とともに満州大豆は華やかだった往年の姿を消すことになり、アメリカ大豆の時代を迎えることになります。

 

中国の戦後の状況

1945年8月の日本の降伏によって第2次世界大戦は終結しますが、それまで日本と戦うために手を結んでいた国民党と共産党は、戦後の政治における主導権と統治地域の争いで再び両者の内戦へと突入することになります。最初は国民党が優位に立っていましたが、政治の腐敗や経済政策の失敗で国民の支持を失っていきます。それに対して共産党は農民に地主の持っている土地を分け与えることによって支持を拡大していきます。こうして勢力が逆転すると共産党は1949年には「中華人民共和国」を成立させ、敗れた蒋介石と国民党は台湾に逃れていきます。

こうして出来上がった中華人民共和国も翌年の1950年には朝鮮戦争に参戦し、53年まで戦争状態が続き、さらに戦後も敵対した資本主義諸国から厳しい経済封鎖を受けることになります。さらにそれまで手を結んでいたソ連のフルシチョフがアメリカとの平和共存路線へと転換したことを批判してソ連とも別れてしまい、中国はソ連と違う社会主義を目指すようになります。

 

中国が目指した経済立て直し策は、農業分野では人民公社を組織して大規模な集団農場を推し進めます。しかし共同作業に変わった途端に農民の労働意欲が低下してしまい、農業生産が減少し、2千万人もの餓死者を出すことになります。工業分野では自家製の溶鉱炉で鉄を作るために、その燃料として野山の木を伐採してしまい、野山が丸裸になってしまう結果になり、出来上がった鉄も品質の悪い粗悪なものでした。ここで共産党の指導者は毛沢東からケ小平に代わり人民公社は縮小して経済優先の政策を採りますが人民の気持ちを掌握するところまでいかずに再び毛沢東の登場となります。毛沢東はここで文化大革命を始め、ケ小平は失脚します。1972年には名古屋から始まった有名なピンポン外交からニクソン大統領の訪中、さらに田中内閣の「日中共同声明調印」へと国交正常化に向かっていくことになります。

 

                       2022.2

 

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