大豆が歩んだ近代史 その8

「満鉄の大豆ビジネス」

 

 日本は日露戦争に勝利したことによってポーツマス条約に従って、ロシアが持っていた鉄道事業を手に入れることになりましたが、この戦争により我が国の国家財政は危機的状態に置かれていました。そのために一時はこの満州の鉄道権益をアメリカの鉄道王エドワード・ハリマンに譲渡して国の財政破たんを埋め合わせようと桂首相は考えていたようですが、講和条約全権大使の小村寿太郎がポーツマスから帰ってくるや、その考えに猛烈に反対し、取り交わされていた覚書は取り消されてどうにか鉄道権益は日本の手元に残ったのです。そして半官半民の南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立され、満州軍総参謀長であった児玉源太郎が、当時台湾総督府長官であった後藤新平を満鉄初代総裁に推薦し、満鉄を基盤にした国家財政の立て直しに立ち向かうことになったのです。

 

満鉄初代の総裁となる後藤新平は日清戦争で清国から譲渡された台湾の立て直しに辣腕をふるって大きな成果を上げており、後藤の手腕による満鉄の順調な立ち上げに期待が集まりました。後藤新平が台湾で行った近代化政策は、それまでの力による強引な統治だけでなく、教育、生活環境の改善、産業振興など多岐にわたる施策を前面に立てて押し進めたことによって、当時台湾に住んでいた漢人たちの日本に対する統治時代初期の反駁も和らいでいき台湾の近代化に大きな成果を残すことが出来たのです。後藤新平が台湾で行った主な政策は、農作物の生産性向上、製糖業の育成と砂糖を主要輸出品へと育成し、さらに上下水道・電気の整備、鉄道の施設と港湾整備、台湾銀行の設立と通貨の統一、学校教育の整備などが挙げられます。

 

こうして日本政府の強い期待を背負った、半官半民の満鉄は1906(明治39)年に中国東北部、満州に設立され、鉄道事業の他にも都市計画や製鉄所や炭鉱事業など多角的に事業展開をしていたのです。このあたりの様子は菊池寛の「満鉄外史」などにも詳しく書かれています。 

満鉄は鉄道事業の収益性を維持するために、当初は事業の主体を満州の内部地域で生産される石炭の輸送を考えていましたが、鉄道沿線で盛んになってきた大豆の輸送を事業の主体とすることに切り替えていきます。当時の満州における農作物の中で換金作物となるものは大豆しかなかったからでした。1898年にロシアが大連に港湾施設を建設し、のちに満鉄がここを貿易港として重視するようになると、この地にも油房(搾油工房)の建設が相次ぎ、満州の主要な搾油基地となっていきます。そして搾油作業によって満州豆粕が大量に発生し、これらが日本に輸出されるようになり、我が国においても満州大豆の知名度が上がり、そのことが欧州での大豆の関心を高めることにつながっていきました。

 

当時の満州では政府からの支援を受けて耕作面積が大きく拡大していきます。1948年に出版された(中国)東北物質調整委員会がまとめた『東北経済シリーズ・貿易』によると、1908年に80.5億uであった満州の耕地面積は20年後の1927年には131.8億uと63.7%増という急速な拡大を遂げています。そして大豆の収穫量の8割以上が商品として輸送されていました。当時の記録によれば、満州全体の貿易額の50%以上を大豆が占めており、昭和初期には400万トンを超える輸出量が続くほど主要な作物となっていったのでした。そして満鉄の事業もこの大豆の輸送量増大によって安定していくことになります。

     

満州における大豆栽培の推移  (満鉄総裁室弘報課編 昭和16年)

 

作付面積(千町歩)

収穫高(千石)

1910

1,484 (100

13,859 (100

1914-18

  

20,255 (146

1924-28

2,815 (190

34,114 246

1929-33

4,015 (271

38,379 (277

 

満州における大豆三品(大豆、豆粕、大豆油)の輸出量にみると、1869 年に清朝政府が大豆の外国輸出を解禁してからは、満洲大豆は香港、東南アジア、そして日本へと輸出されるようになり、その規模が急速に拡大していく様子が次の表からも読み取ることが出来ます。この頃の大豆の集荷流通を担っていたのはイギリス系の京奉鉄路(1903年建設)、帝政ロシアの中東鉄路(1903年建設)、そして日本の満鉄(1906年からの運営)が大きな役割を果たしていました。満州大豆はヨーロッパへの輸出に加えて、大豆油の開発が進んできたアメリカに対しても徐々に輸出の道を広げ、国際商品としての立場をさらに高めていくことになります。

 

  大豆三品の輸出量推移 (満鉄総裁室弘報課編)

 平均輸出量/

大豆三品の輸出量

1872-1881

   276千トン

1882-1902

   693 

  1912-1921

  3,009

1922-1931  

  6,138

 

満鉄は多くの事業を展開しますが、そこには大豆などの貨物の販売業務は含まれていませんでした。それらを担ったのは日本の商社であり、三井物産が最も早く満州に進出しています。三井物産は満鉄の経営陣に社員を送り込み、当初から満州の大豆の取り扱いに積極的に参加していったのです。しかしその後は、ヨーロッパを含む海外への大豆の輸出業者としては三菱商事や日系製油企業が順次参加していくことになります。これら日系企業の他にはロシア、デンマーク、フランス国籍の商社がそれぞれに大きな大豆取引を始めるようになります。彼らも地元の糧桟から大豆を買い付けて、自分たちの院内(糧穀置場)か、あるいは鉄道用地内の糧穀置場にひとまず保管しておき、商機を見て商社や油房に大豆を売却していました。

 

日露戦争に日本が勝利して満鉄の鉄道事業が稼働し始めると、日本政府が掲げた満蒙開発戦略に従って多くの日系企業が満州への参入を始め、満州での大豆搾油事業に日本が大きく関与していくことになります。こうして日露戦争の勝利とともに、日系企業の満州への進出は一気に進みます。そうした企業の中でも特に満洲大豆を原料とする製油企業や満州大豆を買付する商社の進出が目立ちます。さらに三井物産は1907年になると三泰油坊を設立して自らも搾油業に参入していきます。三泰油坊は工場を大連に設置して豆粕や大豆油の製造と販売を開始しました。この会社は中国資本との合弁で設立したのが幸いして満州国内での事業も順調に進み、1945 年の日本の敗戦によって工場が閉鎖されるまで、三泰油坊大連工場の豆粕生産量は日系企業の油房のなかでも絶えず上位の生産量を誇っていました。

その他にも、1911年には大連に加藤油房が設立され、豆粕の生産能力 4,200 /日の能力を持っていました。それに続いて翌年には豆粕の生産能力 4,000 /日の和盛利油坊が設立され、さらに三菱油坊、大連油脂工業会社、 長春にある満洲製油株式会社などが日系有力製油企業として設立されていきました。しかし、それでも日系企業の満州における豆粕生産量は全体の15.2%に過ぎない状態で満州における大豆ビジネスは大きく発展していきました。この時代の日系製油企業の目標は、国内で求められる肥料用大豆粕をいかに生産するかに置かれており、企業活動の目安も生産される豆粕に置かれていました。

 

1920 年代になると大連をはじめ、満州各地に油坊が乱立するようになります。その結果、過剰設備の状況に陥り、製油各社は稼働効率を悪化させ、その生産能力の 4 割程度しか稼働できない状況に陥りました。日露戦争終結直後から満州で発展してきた多くの製油企業は 1920 年代になると、世界的な金融危機と満洲内部の諸事情の影響により、倒産が相次ぐようになります。製油事業の中心地、大連では1923 年には製油会社が 82 軒ありましたが、倒産により1930 年までに 48 軒にまでに減少してしまいます 

 

満鉄による大豆研究

 当時の満州では大豆は数少ない換金作物とされており、すでに述べたようにその収穫量の8割以上が商品として輸送されていました。そして鉄道のさらなる広がりは大豆の栽培地域を内地へと広げ、農家の大豆栽培への参入を促進していくと共に大豆の商品価値を高める役割を果していくことになります。このように20世紀初頭に満州に設立された満鉄にとって大豆は自らの事業を支える力強い商材であると同時に、自らも満州大豆を育成する役割を果たしていくことになるのです。

 

満鉄は大豆の価値を高めていくためにいくつかの取り組みを始めていきます。まず大連に「農事試験場」と「中央試験所」を建設し、大豆の研究に取り組みます。「農事試験場」では大豆の品種改良や栽培試験を、「中央試験所」では大豆の商品価値を高めるための利用研究を進めましたが、その中でも当時としては画期的な、溶剤を使った大豆油製造法の開発に取り組みました。この技術はその後の我が国の大豆搾油産業に大きな影響を及ぼす成果をもたらすことになります。

 と言っても、それまでの満州ではどんな方法で大豆から油を絞っていたのかを見なければ満鉄の新しい搾油法の斬新性が分かりにくいでしょう。そこで当時満州ではどんな方法で大豆から油を取り出していたのかを見てみましょう。満州大豆が外国に持ち出される以前にも満州ではすでに大豆搾油が行われていました。そのために満州で行われている搾油方法が当時存在した唯一の大豆の搾油方法であったということになります。

 

 満州で古くから使われていた搾油法に「楔式圧搾法」というのがあります。これはまだ満州で小規模な搾油しか行われていなかった時代に多く用いられていた方法で、満州での大豆搾油が大規模化するにしたがって消えてしまった方法です。その方法はまず、大豆を砕き蒸熱した後に包装して搾油します。大豆を砕くのは、大きな丸い石盤の中央に軸木を立て、この石盤上に円筒形の石車を置き、ここに大豆をおいてこれを馬やロバに周りを引かせながら石車で粉砕します。次にこの砕いた大豆を柳で底を編んだ籠又は麻布を張った木製の丸い筒に入れ、これを蒸した後に木製の丸い木枠にひろげ、上に油草(奉天周辺に自生している単子葉植物)の根元を束ねたもの2束を広げて鉄棍で固定してから搾油作業に入ります。この前処理には熟練を要するところで、時間も手間もかかる工程でした。ここから搾油作業に入るのですが、搾油機は4本の柱を1mほどの間隔で立て、上部に横木をわたして固定し、さらに4柱を縄で縛って固定します。この4本柱に油を絞る詰木を横たえ、ここに先程の鉄棍で固めた大豆の包装を5-7個並べ、さらにこれに木楔をさし込んで職工2人が両側から鉄槌で木楔を強打します。木楔を打ち込まれるにしたがって大豆中に含まれる油が絞り出され、搾油機の下に設けた油槽中に流れ出すというものです。最後に絞られた大豆粕の包装を取り外し油草、鉄輪をはずして脱脂粕を取り出します。絞られた油は数日間油槽内に静置して油滓が沈殿するのを待ってその上澄みを油容器にとり、口を布で包みさらに油紙を豚血と石灰で貼り付けて市場に出すことになります。この作業は長時間を要する原始的な方法であり、搾油量が増加するにしたがってその多くは消えてしまいました。 

 次に登場した搾油法は、「螺旋式圧搾法」と呼ばれるものでした。この方法が登場したのは1897年で、当時営口にあった太古元油坊が鉄製ローラーを用いて蒸気により大豆を圧砕し、それを手推の螺旋式圧搾機に入れて搾油したものです。螺旋式は楔の代わりに螺旋を用いたものですが、その螺旋は人力によって回して搾油するというものでした。この方法は楔式に比べて人力、場所、時間を節約できたために当時としては新しい、比較的大量生産に適するものでした。

 この後も部分的に改良された方法が現れていますが、基本的な方法は同じようなものでした。しかしこれら一連の圧搾搾油法では大豆から完全に油を搾り取ることは難しく、今から見ると残油分の多い大豆粕になっていました。当時から大豆粕の大きな用途として期待されていたのが農業用肥料であり、そのためには残油分が多いことはその分窒素比率が低下しており肥料効率が劣ってしまうことがわかっていました。

 満鉄の中央研究所はこの点を改善すべく残油分の少ない脱脂大豆を作ること、そのために油分を効率的に取り出すことを目指して新たな搾油技術の開発に取り組んだのでした。こうして大正2年に日本で最初のベンジン抽出による大豆油試験工場を建設し、新しい搾油方法の開発に取り組むとともに見事成功してその後の日本の近代的製油産業の発展に大きな貢献をすることになりました。


 満鉄の大豆に注いだ情熱は並大抵ではなく、30年間で設立した農事試験所関係施設は90ヶ所にのぼり、中央試験所は総勢千名を超える体制で臨み、発表された研究報告は約1,000件、取得した特許は349件、実用新案47件と華々しい成果をあげています。ちなみに、この頃の試験所の様子については、その当時朝日新聞に連載小説を書いていた夏目漱石が試験工場を訪問して、その様子を小説の中で紹介しています。ここで完成された新しい製油技術は、神戸にある商社の鈴木商店に譲渡されることになり、国内企業によってこの近代的搾油事業がスタートすることになるのです。当時の世界の製油技術は圧搾法以外になかったのですが、満鉄はヨーロッパで開発されつつあったベンジン抽出法をいち早く取り入れて完成させたのです。その技術レベルは高く、到底当時の民間企業では達成できない成果として高く評価されています。

 

このほかに満鉄中央試験所が成功させた成果として、大豆の茎からはパルプの製造法、大豆タンパク質の高度利用を目的とした研究では飼料用タンパク、大豆蛋白質人造繊維、水性塗料、大豆タンパク可塑剤、速醸醤油製造法の技術開発などが挙げられます。大豆油の利用研究では、大豆硬化油、脂肪酸とグリセリン製造法、レシチンの製造法、ビタミンB、スタキオースの製造法などに成功しています。また、当時は「石油の一滴は血の一滴」といわれた第二次世界大戦前の日本であり、アメリカからの輸入に頼っていた燃料油の開発は国家的緊急課題でした。そのために、現在では世界で広く利用されている大豆油を原料とするバイオ燃料の研究にも取り組んでいます。 満鉄が開発したこれらの技術を受け継いだ日本の企業は数多くあり、満鉄の研究成果はその後の日本産業の近代化に大きく貢献したといえます。満鉄は、太平洋戦争による日本の敗戦によって満州国と同時に消滅してしまいますが、その30年間に満鉄の大豆研究がわが国の産業近代化に果した功績は大きく、その恩恵の中に生きる現代の我々は、このことを忘れてはならないでしょう。

 満州を中心に展開された大豆事業は日本の敗戦と共に終焉し、大豆は新たな時代を迎えるのです。

 

                   2022.2

 

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