大豆が歩んだ近代史 その6

「満州を舞台に日露戦争が始まる」

 

日本の大豆産業に大きな影響を与えることになる満州と、その満州の地に我が国が参加するきっかけとなった日露戦争について、そこに至った経緯をもう少し見てみましょう。

当時の日本は、前回にも紹介したように、誕生まもない明治政府が富国強兵に向かってまい進する一方で、欧米諸国との間に取り交わされた不平等条約を是正するため、国の近代化に向かって走り出したところでした。そんなところに浮かび上がってきたのが朝鮮半島を巡る隣国清との軋轢でした。そしてこのシリーズ6で見てきたような経過を経て朝鮮半島を巡って日清戦争(1894-95)が起こり、日本は大国清に勝利して多額の賠償金や台湾の統治権などを手に入れます。しかしこの講和条約をめぐって欧州列国が清国の割譲に乗り出してきます。そしてこれら列強の植民地化に対抗して立ち上がったのが清の宗教団体「義和団」でした。義和団は、1900年に「扶清滅洋」(清国を助け西洋を滅ぼす)を旗印に外国人やキリスト教会を襲撃する排外運動を展開します。これに対して日本など8か国は連合軍を結成して対抗する、いわゆる「北清事変」が争われます。そしてこの紛争が「日露戦争」のきっかけになるのです。

 

日本軍が主力となって戦った今回の勝利に対して列強各国からは日本を「極東の憲兵」としてその実力を高く評価するようになります。そしてこのことによって連合軍の中でも日本を列強の一員とみなすようになります。そしてそのことによって日本に対する欧米の評価は高まり、イギリスとの間で「日英同盟」を結んだのをはじめとして欧米との不平等条約の改定へと進むきっかけとなります。清国はこの敗戦による賠償金として、当時の清国の国家予算の4年半分を出すと共に、北京など一部の都市に各国軍の駐留などを認めることになります。しかし認められた地域以外にも兵を駐留させる国も出てきます。ロシアは自国が敷設した鉄道の防衛を口実に満州を軍事占領するようになります。

 

清国との対立が顕著になっていた日本は清国を仮想敵国としての軍備の強化に入ると共に、明治23年(1890)の第1回帝国議会で総理の山縣有朋は我が国を守るためには朝鮮半島がいかに重要かを説き、「主権線」と「利益線」の考えを明らかにします。ここで言う主権線とは我が国の領土であり、利益線とは我が国を守る領域であり、それは清国・ロシアとの間にある朝鮮半島を指していました。今回のロシアの満州の軍事占領は山縣有朋が主張する日本の利益線を破るものであり、日本の国内ではロシアに対する警戒感が急激に高まっていきます。ロシアにとってはこの機会に念願の南下政策を推し不凍港を手に入れたいとの思いがあったと見られます。

 

1902年には満州にいたロシア軍が国境を越えて大韓帝国内にロシアの軍事施設を作る動を始めます。これに対して日本はイギリス、アメリカと共にロシアに対して3回に分けて満州から撤退するように要求しますが、ロシアは1回だけ撤退しますがそれ以降は約束を無視してしまいます。それに対して我が国ではロシアに対する警戒感がさらに高まっていきます。このようにロシアが日本の要求に従わないのは、日本との軍事衝突を全く恐れていないことによるものでした。当時のロシアの軍事参謀であったクロパトキンは日本との戦争を「軍隊を連れて散歩するようなものだ」として、日本はロシアの敵ではないと見ていたのです。当時の両国間の戦力差は圧倒的にロシアが優勢でした。総兵力ではロシアの207万人に対して日本は100万人。軍艦もロシアの51万トンに対して日本は24万6千トン。火砲もロシアの約1万2千門に対して日本は636門でした。しかしロシアの兵力の主力はヨーロッパに配備されているものでしたが、日本を脅威とは見ていなかったのです。

 

そんな中でロシアが秘密裏に清国と取り交わした遼東半島や満州の租借によってシベリア鉄道を大連、旅順にまで伸ばしてきて不凍港を手に入れたことによって日露両国の緊張関係は頂点に達し、国内でも戦争への機運が高まってきます。ロシアは大連、旅順を中心に近代的な港湾施設や各種施設を次々に建設していきますが、その技術者をロシアから連れてくるだけでは足りなくて、多くの日本人技術者も彼らに雇われて働くことになります。欧州に近いモスクワからロシアの技術者を連れてくるよりも目の前に住んでいる日本人を雇うほうが手っ取り早かったのでしょう。日本人技師たちは両国間の緊迫した中で働きながらもロシアの技術や軍備力などを注視しながらその情報は逐次日本の軍部に送られていたようです。その様子は菊池寛が書いた「満鉄外史」に見ることが出来ます。そしてそんな緊迫状態が頂点に達して起こったのが日露戦争でした。

 

国内ではロシアとの戦争不可避の機運が高まる中、1904年2月3日に中国の山東省駐在の日本領事武官から「旅順のロシア艦隊は修理中の一艘以外すべて出航、行方は不明」との電文が日本政府にもたらされます。緊迫感を持ってロシアの動きを注視していた日本では直ちに御前会議が開かれロシアとの開戦を決定しました。この時のロシアの艦隊は、本当はどこへ行ったのかはその後も明らかになっていません。しかし日本の軍部ではロシア艦隊は日本の呉港などへの攻撃に出たと判断しての行動だったようです。

こうして日本が朝鮮半島を舞台に「日露戦争」に踏み切ったのが190428日でした。

 

日本連合艦隊がまず展開したのが旅順港閉塞作戦でした。朝鮮半島と旅順にいるロシア艦隊に対して奇襲攻撃をかけた戦いによって、ロシア軍艦2艘を撃沈したのに対して日本軍は2千名の兵士を朝鮮半島に上陸させることに成功します。この時に戦死した広瀬少佐は「軍神」として小学唱歌にもなりました。

次に展開したのが朝鮮と満州との国境にある河を渡る「鴨緑江渡河作戦」でした。満州川の対岸にはロシア兵が控えている中で日本の工兵隊が1日で230mの橋を完成させて4万2千人の日本兵を数時間で全員渡河させたのです。対岸にいたロシア軍は自らの陣地を捨てて退却したのを欧米のメディアは大きく報道したのです。それまでは極東の小国日本が大国ロシアには勝てる訳はないと見られていたのが、この初戦での作戦成功で大きく評価が変わることになります。もともと我が国には戦国時代から敵陣近くで、一晩で城を築いたり、橋をかけていた歴史があったので、このような作戦は日本軍にとっては当然だったのかも知れませんね。

 

この作戦の成功は単に欧米メディアの評価が変っただけには止まらず、日本が必要としていた戦費調達にも有利に働くようになります。我が国では今回の戦いに必要な戦費は15億円と予想していましたが、それだけの資金は明治政府にはなく、その8割は海外からの調達に頼らざるを得なかったのです。そしてその任に当たったのは日銀副総裁の高橋是清でしたが、当初は欧米諸国からは相手にされませんでした。ロシアを相手にした戦いでは日本が負けると思われていたので話に乗ってくれる国がなく、資金調達が難航していました。しかしこの「鴨緑江渡河作戦」の成功以降欧米の見方が変わり、8億円の資金調達に成功するのです。

日本は日露戦争を有利に展開しながら、水面下でアメリカのルーズベルト大統領に停戦仲介を依頼します。日本側でその任に当たったのがルーズベルトとハーバード大学の同窓生である金子堅太郎でした。ルーズベルト大統領は金子からの申し出を受け入れて日露の講和仲介を引き受けることになります。当初から日本には戦いが長引けば日本にとっては不利になるとの思いがあったようです。ルーズベルト大統領からは日ロ交渉を少しでも有利に進めるためにはロシア領土へ少しでも踏み込んで占領しておく方がいい、とのアドバイスがあったとされており、日本軍は「樺太上陸作戦」への展開も組み入れて兵をすすめていきます。

 

一方、日本国内では長引く戦争と戦死者の増加、さらには戦費調達の為に各種の税金がかさみ国民の間で厭戦気分が蔓延してくることになります。戦費調達の為に新設された税金として「石油消費税」「織物消費税」「相続税」などがあり、また「塩の専売制」「煙草の専売制」なども新設されます。この頃に発表されたのが、与謝野晶子が出征した弟に詠んだ「君死に給うこと勿れ」である。

 

極東の小国日本が大国ロシアを相手に繰り広げた日露戦争では旅順総攻撃、203高地の攻防によって旅順艦隊は全滅し、ロシア軍は戦意を喪失し日本軍の司令官乃木希典とロシア軍司令官ステッセルの間で「水師営の会見」が行われます。その後の陸上戦最後となる奉天会戦でも日本軍が勝利して最後のバルチック艦隊との日本海海戦が行われることになります。

 

北欧バルト海のリバウ港にいた約40艘からなるバルチック艦隊は日本に向けて出港します。この艦隊は当時、世界最強と言われており日本国内に緊張が張り詰めます。当時の艦隊は長い航海では燃料の石炭などを逐次補給していかなければならず次々と寄港していかなければなりませんが、日英同盟の影響によってイギリス、スペイン、ポルトガルの支配下にある国の港には入れず、バルチック艦隊にとっては水や石炭の補給、さらには船の整備などもままならず日本までは約7ヶ月の長い航行となります。そして日本海に現れたバルチック艦隊と戦った日本海海戦は日本海戦史に残る圧勝でロシア艦隊を破ることができました。

 

ポーツマス条約の締結

アメリカのルーズベルト大統領による調停によってロシアとの戦いに幕を下ろし、講和会議が始まります。日本は全権大使として当初伊藤博文が指名されましたが伊藤はこれを頑強に拒絶しています。それはこの露国との交渉がうまくゆくとは考えられなかったからだと言われています。日本はロシアと戦っていますが、それらは満州という清の国の領土内でのことであり、ロシアの地には1歩も攻め込んでいなかったからです。結局、外相の小村寿太郎が全権を負って出席しますが、交渉は思うように進展せずに難航します。日本はこの戦争で多くの戦死者を出しているうえに使った戦費も国家予算の4.5年分にあたり、その多くを海外からの借り入れで賄ってきていたので、ある程度の賠償金を期待していましたが、これらは全く得ることは出来ませんでした。ルーズベルト大統領がこの講和会議の仲介の労を取ってくれたのも、アメリカにとってもこの仲介がアジアへの進出のきっかけになることを期待していたからだとも言われています。

そしてこの交渉の結果としてのポーツマス条約でロシアは、

 朝鮮に対する日本の支配権をロシアが承認する。

 満州からロシア軍の撤退。(日本軍も撤退する)

 遼東半島の租借権とロシアが建設した鉄道の譲渡

 北緯50度以南の樺太の譲渡、沿海州カムチャッカ沿岸の漁業権を認める

の条項で合意しますが賠償金はロシアから取ることが出来ませんでした。ルーズベルト大統領はこの日露戦争の講和を斡旋した功績により1906年のノーベル平和賞を受けています。

 

しかしこれら一連の小村外相の努力も日本国内では全く評価されませんでした。それは国民にとって日本が戦争で受けた犠牲に較べて獲得した領土や権益があまりにも期待から外れていたからでした。その不満が国内で高まって、ついには日比谷焼き討ち事件などの暴動となり、さらにはこの暴動は全国に広まっていきました。しかし、この戦いで日本は大国ロシアに勝ったことで世界の注目を浴びることになります。

 

ここでアメリカの鉄道王ハリマンから1億円の財政援助と満州での鉄道の共同経営を持ちかけられます。これには陰でルーズベルト大統領の指示があったとされています。桂内閣は当時の財政難からこれを受け入れて仮契約を結びます。ところがポーツマスから帰ってきた小村寿太郎がこれに激怒し猛反対します。日本が日露戦争によって勝ち得た戦果は唯一、満州にあるロシアの持っていたシベリア鉄道の長春から旅順までの鉄道施設だったので、小村は帰国後直ちに桂首相がアメリカのハリマンとの間で取り交わしていた鉄道の共同経営提案書を破棄させて満州鉄道の確保に固執します。こうして日本は長春から旅順口までのロシアが持っていた鉄道とその支線全ての権利を手に入れ、翌1906年(明治39年)、ここに半官半民の「南満州鉄道株式会社」(満鉄)を設立することになります。そして、この満鉄の事業を守るために現地に関東総督府がおかれますが、これがのちの「関東軍」となって大きな影響力を発揮するようになるのです。1910年になると関東軍は朝鮮を併合して朝鮮総督府を設置します。さらに満州に対しては武力を背景にした植民地政策を始めることになります。そしてこの日本の大陸進出が欧米列国を刺激して、その後の大きな戦争(日中戦争、第2次世界大戦)への導火線になっていきます。

 

アメリカは中国大陸への進出を狙っていたので、アメリカの実業家エドワード・ハリマンに満州鉄道の共同経営に期待をしていたのですが日本はこの申し出を断ってしまいます。アジア進出の足掛かりと期待していたルーズベルト大統領は期待を裏切られ、これをきっかけにして日米関係は冷めていくことになります。

次の内閣の西園寺首相は政府の要人たちをつれて直ちにロシアが持っていた満州鉄道の視察に行き、ここに19061126日南満州鉄道株式会社(満鉄)を、資本金2億円(内1億円は政府出資)で設立します。そしてこの満鉄の初代総督には児玉源太郎が推挙する、当時の台湾総督府長官であった後藤新平を当てることになります。後藤は台湾政策で多くの成果を挙げていたことと、台湾統治の経験から満州行政について多くの提言を児玉にしていたことによるものでした。

国内の大きな期待と厳しい視線の中で踏み出した満鉄は、直ちに鉄道事業を開始するとともに、沿線地域での鉱山の開発や製鉄所の経営にも乗り出します。さらに撫順炭鉱などで露天掘りを始めたので採炭量が大幅に増加し、日本への石炭供給も安定するようになります。また都市開発などにも着手するとともに内蒙古まで日本の勢力を延ばしていきました。さらにはホテル業、海運業、大連港経営にも拡大していきます。これらの日本の勢力拡大に対してロシア、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなどが危機感を持ったのですが、その中でも日本を最も警戒したのはアメリカでした。

こうして日露戦争で獲得した満鉄は日本の多くの国民の期待を背負って門出しますが、海外からの厳しい目と、内部に含んだ関東軍という熱い塊によって多難な前途ともなります。

 

                             2022.2

 

 

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