大豆が歩んだ近代史 その6

「満州を取り巻く日本と清国、ロシアの関係」

 

大豆の歴史に大きな影響を与えた満州国がどのように生まれたかを知るにはもう少し歴史をさかのぼって、この地域の変遷について見ておく必要があります。

明治新政府は江戸時代末期から欧米諸国と取り交わした不平等条約を改正すべく予備交渉を念頭に明治4年(187111月に岩倉具視を全権とする欧米視察団が、使節員46名、随員18名、留学生43名という総勢107名の大部隊でアメリカとヨーロッパ12か国を廻る1年10ヶ月の視察の旅に出ることになります。最初に到着したアメリカにおいて不平等条約改正の予備交渉が行われますが、ここでの交渉で日本の法体系の未整備など、日本の近代国家としての諸制度が確立されていないことが明るみとなり、それ以降の使節団は欧米の政治、経済、産業、軍事、社会、文化、思想、宗教などあらゆる制度や文物を視察する勉強の旅となります。

帰国した岩倉具視をはじめとする木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などは、欧米列強に伍していくためには、「富国強兵」「殖産興業」を国の重要な施策と認識し、欧米列強国を目標とした近代化へと政策を変更して突き進めることになります。そしてそれに向かって動き出した時に朝鮮半島をはさんでの清国(中国)と軍事衝突することになります。

 

日清戦争へと進む日本

朝鮮国内では清国との関係を維持しようとする勢力と、日本の明治維新に倣って近代化を図ろうとする勢力が競い合い、紛争が相次ぎます。そしてこのような時期に差し掛かった明治8年(1875)に日本の軍艦が朝鮮半島沖で朝鮮軍から攻撃を受けるという江華島事件が起きます。これに対して日本軍も反撃してこれを制圧しますが、この事件をきっかけに翌年には朝鮮との間で「日朝修好条約」を締結することになります。この話し合いの中で日本は朝鮮を中国から独立させるよう影響力を強めていくことになります。しかし、これら日本の介入に対して、明治15年に朝鮮の開国反対派による反乱がおこり、朝鮮の開国を薦めていた日本の公使館が襲撃を受けるという「壬午事変」が起きます。これに対して日本は自国の公使館を守るという名目で朝鮮に出兵しますが、この日本の出兵に対して朝鮮国王妃の閔妃(みんぴ)は清国に援軍を要請します。朝鮮ではさらに、中国からの独立を目指すグループが日本の外交官などの応援を得ながら「甲申事変」を起こします。これに対しても閔妃は清国に援軍を要請してこのクーデターを鎮圧します。これら一連の動きの中で日本と清国が朝鮮を巡り対立することになります。

 

この日清両国の対立を打開するために話し合いが行われ、ここで日清両国は「天津条約」を結ぶことになります。この条約の中で「日清両国は朝鮮半島から完全に撤兵し、以降は朝鮮半島に出兵するときは事前に通告する」ことを義務付けたのです。このことによって清国は朝鮮が属国であることを理由にした出兵が出来なくなりました。

朝鮮ではこのように1882年の壬午事変に続き、1884年には甲申事変が起こりました。そして清国との対立が顕著になってきた日本はこの後、清国を仮想敵国としての軍備の強化に入ると共に、明治23年(1890)の第1回帝国議会で総理の山縣有朋は、我が国を守るためには朝鮮半島がいかに重要かを説き、「主権線」と「利益線」の考えを明らかにします。ここで言う主権線とは我が国の国土であり、我が国の安全を守る利益線とは清国・ロシアと日本との間にある朝鮮半島を指していました。この利益線の考え方がその後の我が国の朝鮮半島政策に強く影響していきます。

 

明治27年(1894329日になって重税に苦しむ朝鮮の農民による反乱が勃発します。朝鮮では、重税や官僚による賄賂、米価の高騰などに不満を持つ農民が立ち上がり、暴動として「甲午農民戦争」が勃発します。農民軍は各地で政府軍を打ち破り、5月末には全州を占領します。農民軍の入京を恐れて朝鮮政府は清国に援軍を要請します。自力での鎮圧が不可能なことが分かったので、朝鮮政府はそれまでの宗主国である清国に応援を求めたのです。これに対して清国は6月4日に巡洋艦2隻を仁川に派遣すると共に陸軍約2千人を牙山に派遣します。それは当時、朝鮮は清国の属国とされていたためでしたが、清国側の派兵の動きを見た日本政府も、先の天津条約に基づいて日本人居留民保護を名目にした兵力派遣を決定します。こうして1894年8月日本は清に対して宣戦布告し、日清両国は朝鮮政府の内政改革を巡って交戦状態になり「日清戦争」(1894-95)が起こりました。

 

わが国には古代から中国や朝鮮を通じて多くのものを学んできていた歴史があります。また特に中国にたいしては多くの学者や僧侶が留学していた時代もありました。ですから我が国の知識人たちにとってその中国と、しかも世界の大国とされる清国(中国)と戦うということは想像もできなかったことでした。しかし19世紀末になって我が国は明治維新によって近代化に成功するようになると、国内では眠れる獅子そのままの清国に対する見方も変わってきたようです。そしてこの中国と争った「日清戦争」が起こりましたが、国内の世論は、当時清国の属国とみられていた朝鮮を清国から独立させ守ろうという機運が高まっていきます。福沢諭吉も「日清の戦争は文明と野蛮の戦い」として、日本・清国・朝鮮が欧米列強に対抗するためには朝鮮の独立と近代化が必要との考えを新聞などで強く訴えています。またキリスト教思想家でもある内村鑑三も「日清戦争は吾人にとりては実に義戦なり」としており、日本の多くの知識人たちはこの戦争に肯定的でした。

 

18948月から始まった日清戦争では、黄海の海洋沖での戦いで日本軍の決死の覚悟に勢いを得て、「豊島沖海戦」、「黄海海戦」のいずれも日本軍が大勝し、日本陸軍は清国陸軍を撃破しつつ朝鮮半島と遼東半島を制圧し、日本海軍はさらに旅順港と威海衛を攻略して日本陸軍が中国本土へ自由に上陸出来るようになった事で、清国の首都北京と天津は丸裸同然の状態となり、ここで清国側は戦意を失ってしまい降伏することになります。清国は日本に講和を持ち掛けてきて、翌年4月に下関の春帆楼で「日清講和条約」が結ばれ、中国の領土割譲や賠償金の獲得に国内は沸き返ります。大国清が我が国に敗れた原因はいろいろと分析されていますが、一説には当時の清国の権力者である西太后が、自らの還暦祝いに清国海軍の予算の10年分を費やしてしまうなど、国内体制が盤石でなかったとの見方もあります。これに対して日本は広島に大本営を設置して天皇陛下もここに移り、決死の体制で臨んでいました。こうした両国の結束の差によって日本は大国清に勝利することが出来たのです。こうして清国の北洋艦隊は降伏し、戦争は日本軍の勝利で終結し講和(下関条約)が結ばれることになりました。そしてこの講和条約の中で、清国(中国)は日本の国家予算の4年分にあたる多額の賠償金のほかに遼東半島、台湾、澎湖諸島の領土割譲と朝鮮の独立などを約束します。

 

そして、この敗戦によって中国は日本に対して大きく窓口を緩めることになり、日本とのビジネスに活気づかせたのです。しかし日本が清国に勝利したことは欧米諸国に強い衝撃を与えることになります。植民地政策を推し進めていた欧州各国は一気に中国の分割に乗り出すことになります。その流れのなかでロシアは欧州で対立しているドイツやフランスに声をかけて日本が日清戦争で獲得した遼東半島の返還を一緒に迫ってきます。まだ明治新政府になったばかりの日本はこの三国干渉を跳ね返すことが出来ず、これを受け容れます。これに国内の不満がたかまり、ロシアへの対抗心が頂点に達し、大規模な軍備拡張が進められていきます。

 

欧州列強のアジア侵攻

この頃になると、日本は憲法と国会を備えた立憲国家となり、不平等条約も改正されて国際的にも認められる国となっていました。一方イギリスでは、産業革命がおこり、近代化が進んでいました。この流れを受けて欧米諸国では資本主義が急速に発達し、その投資先を求めてアジア・アフリカへ勢力を伸ばして植民地化を拡げていきました。この頃のイギリスはカナダ、インド、オーストラリア、ニュージーランド、中國、アフリカや南方アジアへと勢力を広げていったところでした。

清国ではイギリス・フランス連合軍との間で繰り広げられたアロー号戦争(1856-1860)に破れ、その後に締結された不平等条約とされる「天津条約」により、 1861 年には牛荘 (営口)が開港され大豆取引が徐々に活発になっていきます。 しかし、イギリスをはじめとする欧米商社は、大豆を海外に輸出する権利が与えられず、主に華南地域への運輸・販売を主な事業としていた程度でした。しかし1869 年、清朝が大豆の外国への輸出を解禁したことにより満洲大豆は香港、東南アジア、そして日本に輸出されるようになります。 そして、1895 年の日清戦争後、日本への輸出量は次第に増加していきます。

 

これら大国の覇権争いの中でロシアは独自の南下政策を展開してシベリア鉄道を建設して旅順、大連を手に入れると共に日本海に面するウラジオストックまで鉄道を伸ばしてきて日本の目の前に迫ってきます。日本では将来的に日本の独立を脅かされるのではないかとの不安がたかまり、軍備力を増強するとともに朝鮮を独立させることによって日本国を守ろうと考えます。

一方、清国には日本に支払う賠償金を自国では調達できずイギリス、ドイツ、フランス、ロシアから多額の借金することになります。そしてその見返りとしてこれら列強による租借地要求を受け入れざるを得なかったのです。ドイツは青島を租借し、フランスは広州湾を、イギリスは香港を割譲していきます。そしてこれら一連の動きの裏でロシアは1896年には清国に対して日本に譲歩させた見返りとして満洲での旅順と大連を租借する権益を密約させるとともに、シベリア鉄道を、満州を通してウラジオストックまで延ばし、さらに旅順、大連までも延長して不凍港の旅順港を手に入れる約束をとりつけるのです。このことに日本は激しく反発します。こうしてロシアの南下政策に対して強い危機感を抱き、朝鮮半島をはさんで日本はロシアと激しく対立していきます。

 

日清戦争後の動き

日清戦争で日本に敗れた清国はそれまでは属国としていた朝鮮の独立を認め、これにより朝鮮は「大韓帝国」に改称しますが、ここで朝鮮政府はそれまでの清国に頼っていた方針からロシアに乗り換えて親露政権を樹立することになり、日本が警戒するロシアの影響が朝鮮半島に忍び寄ってくることになります。

一方、戦争に勝利した日本は、欧米各国からアジアでの近代国家と認められて国際的地位が向上します。このことにより、イギリスとの間で交わされていたそれまでの不平等条約から抜け出し、新たに「日英通商条約」を締結して対等の協調関係を築けるようになるのです。そして日本が大国清に勝利して台湾と澎湖諸島を割譲したことをみて欧米列強が一斉に中国割譲の動きに傾いていきます。これら列強による植民地化の動きに対抗して清国の宗教団体である「義和団」が反乱を起こします。清国内では外国による分割統治に対する反駁機運がたかまり、1900年には宗教団体の義和団による外国人排斥運動が起こってきます。義和団は外国人、キリスト教徒、教会を襲い、その勢力も20万人にまで拡大し、北京の公使館区域を包囲して各国の公使館員など約4千人が籠城することになります。この勢いに乗って清国の権力者西太后は義和団を支持して欧米列強に宣戦布告します。これに対して中国を分割統治している8か国が連合軍を結成して清国に34万人の兵を派遣する「北清事変」が起こります。

 

この連合軍に最も多く軍を派遣したのが日本軍の13千人とロシア軍の8千人で、この2国で半分を占めていました。連合軍は天津を占領し、更に北京に向かって総攻撃をかけます。これによって北京にいた西太后は西安に逃げてしまいます。こうして連合国は義和団を鎮圧して清国との間で「北京議定書」を締結することになります。清国はこの敗戦によって当時の国家予算で4年半分の賠償金を支払うことになります。この騒ぎも収まったところで各国はそれぞれの軍を引き上げるのですが、ロシア軍は引き上げずに鉄道の防衛を口実に満州を事実上占領してしまいます。

 

日本はアメリカ、イギリスと共同してロシアに圧力をかけ、3回に分けて満州からの撤退を約束させますが、ロシアは1回目の撤退はしますが2回目以降は約束を守らず、ロシアはハルビンと旅順をつなぐ鉄道の建設を始めます。ロシア軍は旅順、大連にある不凍港を手放したくなかったので、撤退せずに鉄道の防衛を口実に満州を軍事占領してしまいます。さらに朝鮮での鉱山の発掘や森林伐採権までも獲得してしまいます。一方、朝鮮王宮は日清戦争で清国が日本に敗れたことからロシアに接近するようになっています。そのためにロシアの南下政策は朝鮮半島にも直接影響しており、これら日本の目の前で起こるロシアの南下政策に対して日本国内では強い危機感を持つようになります。

 

これらロシアの一連の動きに対して日本の国中ではロシアに対する警戒機運が高まると共に対露戦争の声も高まっていきます。それは新聞などによる報道によって盛り上がってきた民衆の気持ちの高まりだけでなく戦争に備えるいろいろな商品も売り出されるようになります。現在にも残っている胃腸薬である「正露丸」は、この頃に大阪の商店が発売した「征露丸」という商品だったのです。征露丸とはロシアとの戦争が始まって兵隊たちが満州に出兵したときに、その地で体調を崩さないようにと作られた商品だったのです。一方ヨーロッパではロシアの進出に気をとがらせていたイギリスがロシアの封じ込めに極東の日本の力が必要と感じて、日本との間で日英同盟(1902)を結ぶのでした。日本と英国は共にロシアに対する警戒から手を結ぶことになるのです。

 

 こうして時代は「日露戦争」へと突き進んでいきます。

 

 

                        2022.2

 

目次に戻る