大豆が歩んだ近代史 その5

「大豆油の起源、満州とは」

 

満洲について

古代から文字が発達していた中国には大豆にまつわる記述が多く残されています。その中国の中でも古代に大豆がもっとも多く栽培されていたとされるのが中国東北部のかつては満州と呼ばれていた地域でした。現在は満州という地名は存在していませんが、日本が第二次世界大戦に敗れるまでの歴史の一コマとして、世界に大豆を大きく羽ばたかせた満洲国がここに存在していたのです。そして日本の近代大豆搾油産業もこの満州の貢献がなければ現在のような健全な姿は期待できなかったことでしょう。日本が1904年に大国ロシアと戦って獲得した満州の鉄道事業を中心として設立したのが南満州鉄道株式会社(満鉄)であり、この満鉄によって我が国の大豆産業は大きく飛躍することになるのです。では、日本から離れた満州の地でどのように我が国を支えた大豆産業が芽生えたのか、そのいきさつについて少し丁寧に見てみましょう。

 

日本の平安・鎌倉時代にあたる中国、宋の時代にはすでに満州では大豆油の生産が行われていたとの記録があります。日本と中国では大豆が生まれたのは約5千年前のほぼ同時期と推定されながらも大豆の利用、特に大豆油の生産についてはおよそ900年の中国の先行があったことになります。これは両国の置かれていた気候条件とそこで得られる食材などの差によるものと想像されます。それは日本の方が周りには海があり、さらに気候温暖なモンスーン地帯であり食材に適した動植物に恵まれていたことによります。日本の江戸時代にあたる清朝の時代になると、大豆栽培が満洲をはじめとして、中国全土に広く普及しており、大豆油が食用油として使われており、その搾り粕は肥料として周辺の農家で使われるようになっていました。そして1770年代に入ると搾油した残渣の「豆粕」が上海周辺の農家で金肥として用いられるようになっており、中国国内で大豆粕が盛んに取引されるようになっていきます。中国には穀物が豊かに実る江南地方と北部を結ぶ「大運河」が古代隋の時代からあります。この運河を使って南部から長江の北にある大都市へと穀物などが運ばれてきますが、その帰り舟に南に向かって運ぶ荷物がありませんでした。中国北部で生産された大豆粕は肥料として江南の農地に運ぶ格好の荷物になったのです。こうして肥料としての大豆粕の利用は我が国で魚肥を使い始めた頃と比べても200年程に先行して使われ始めています。さらに上海近郊で木綿の生産がされるようになると、その原料となる綿の栽培が盛んになり、その肥料として大豆粕が重宝されるようになります。さらに華南地方や台湾でサトウキビの栽培が盛んになると、高価な砂糖を作る原料となるサトウキビの肥料としての大豆粕の価値はさらに大きくなっていきました。当時の砂糖は非常に高価な貴重品だったのでサトウキビの栽培は急速に拡大していき大豆粕の流通が活発に行われるようになっていきました。

 

満州における大豆栽培

1870 年になると清国政府は満州地方での大豆生産を盛んにすることを目的に「東北移民禁止令」を解除します。このことによって、山東省、天津など農作物の不作だった地域から大量の移民が満洲に流入してきて、満州地域での大豆生産が一変することになります。満洲の人口は急増し、大豆の生産量、消費量ともに急速に増大していったのです。大豆を栽培することが収入につながることを知った農民たちは、それまでは自給自足の生活の一環として作られていた大豆、コーリャン、粟などのうち、自分たちはコーリャンや粟などを食べながら大豆を換金作物として栽培するようになっていきます。そしてそれまでは個々の農家が大豆を生産し、買い手を探すという初歩段階の流通の姿でしたが、やがて農産物を売買する仲介業である「糧桟」(穀物問屋)が各地に出現して産業としての姿が見えてくるようになります。満洲で専業の糧桟が出現したのは1820 年代からでした。そして大豆の生産量が増えるにしたがって糧桟による取扱量も増加していきました。それまでの糧桟は別の商売をしながらの兼業仕事として行われていたのですが、取扱量の増加とともに専業化した糧桟が出現するようになります。さらに専業の糧桟は保管倉庫も大型化していくことになり、このことが大豆農家を支える力となり、満州の大豆産業は大きく膨らんでいきました。

 

このように、満州では大豆の取引が早くから始まっており、特に搾油することにより得られる油と大豆粕はそれぞれに重要な産業資源として流通していきました。満州大豆が海外への輸出を許可されるまでは、満洲で生産された大豆は、その地域の農家で使われる、いわゆる自家用の食用油原料が主な用途でした。しかし1895 年の日清戦争終了後、日本への大豆粕の輸出量が増大していくようになり、日本とのつながりがここから始まります。こうして満州地方で大豆のビジネス化がまさに始まろうとしていた1906年に日本は日露戦争の戦果としてロシアからすでに敷設されていた鉄道権益を手に入れて「満鉄」を設立し、これを基盤として日本は満州に進出することになるのです。こうして満州において大豆栽培が本格化し、糧桟の店舗数が増加していったのは日本が満鉄を設立し活動を始めた1910 年代以降のことでした。

 

満州とはどこを指すのか

かつて満洲と呼ばれていた地域は現在の中国東北部にあたり、北は黒龍江をはさんでロシアと接し、東は鴨緑江を境にして北朝鮮と接する地域一帯を指していました。この地がなぜ満州と呼ばれるようになったのか、それはかつてここに満洲族と呼ばれる民族が住んでいた土地だったからです。この地はその昔「樹海」と呼ぶにふさわしい鬱蒼とした大森林でおおわれていた地域であり、虎や豹、熊などが生息している土地であったようです。そしてこの地には古代から色々な土着民族が入り乱れて住んでおり、漢民族だけでなく朝鮮系、モンゴル系などいくつかの民族が国を作りながら変遷を繰り返してきました。

 満州族は、元々は女真族と呼ばれていました。この地方にいましたが、ツングース系民族である女真人の太祖ヌルハチによって統一されて力を増していきます。そしてヌルハチは自分たちの民族名を、1634年に満州族と改称してこの地に住んだと言われています。当時、この地方に文殊菩薩信仰が広まっており、その「文殊」から「満住」に転音されて「満州」になったとされています。

 

そして彼らは長い歴史の中で漢民族との攻防を繰り返すことになります。この地では魏の国から三国時代になると満洲南部の辺りは狛族が打ち立てた夫余が起こり、さらには高句麗などの国が起こるという変遷を繰り返しています。歴史的に見ると、この地には遼河文明が栄え、その後は狛族やツングース系民族、モンゴル民族、朝鮮系民族などが興亡を繰り返す変化の激しい地域でした。中国の北宋時代には漢王朝を追い出して中国の北半分に「金国」を建国(1126)して、南に逃げた南宋と中国の国土を二分していたこともありました。そして日本の江戸時代になると明王朝を滅ぼして自分たち満州族が支配する「清王朝」を打ち建て(1662-1912)、満州地域と中国内地全体が満州族の支配下に入ることになります。

こうして中国本土に自分たちの清朝を打ち立てると、満州の地に住んでいた満州族たちが大挙して中国本土へ移っていったので、この満州の地が空洞化したこともありました。しかし自分たちの育った地が過疎になることを危惧して、清王朝はここに漢人を移住させて空洞化を埋めようとしていたこともありましたが、その開墾策も1668年には中止し、逆にこの地を清王朝創業の地として崇めることにして、人々がこの地に住むことを禁じ、ここに入っていた移民たちは清国に移住させられたために、この地は再び空白の地となってしまいます。こうして清国は満州地域を特別扱いすることになります。当初は漢民族の満州植民を奨励していましたが、1740年以降は漢民族も移入することを禁じたのです。清王朝にとってはこの満州の地は自分たちの故郷であり、特別な土地と考えるようになります。そして、奉天、吉林、黒竜江の3省を「東三省」と呼び、そこに奉天府を置いて直接統治して、漢族の流入を禁止したのです。そのためにこの地は自然がそのままに保存され、土地の開発が禁止されるとともに、満州という名前を直接呼ぶことさえも許さなかったようですが、この地を訪れた外国人たち漠然と満洲族の出身地のあたりを指して「マンチュリア」とか「満洲」と呼んでいたのです。

 

しかし、このころからロシアの南下が始まりロシアと清朝の間で国境紛争が起きます。その国境を巡る紛争が頻発するようになり、1689年に国境を決める条約を結び、国際的にも満州全域が正式に清国の国土と定められます。しかしその後もロシアの進出を抑えきれずに、いわゆる外満州と呼ばれる地域はロシアに割譲されることになります。

清朝はここで漢族の満州への移住を認めることになります。そして農地開発を進めることによってしだいに荒野が農地に変わっていきます。当初は、この地で耕作することが出来たのは奉天を中心とした南満地域だけでした。しかし清朝も後半になると規制もだんだん緩んで移民の流入が増加するとともに、耕地の開発を進めることによって税収を増やす方向に傾いていきます。

この政策も19世紀前半には形骸化し、満州の地にいろいろな民族が流入してきたために、その人たちにも土地の所有が部分的に解放され、住民も膨れ上がってきます。清朝がこの地に漢民族を移住させるようになった裏には、北に隣接するロシアに対する警戒の表れだったと言われています。さらに満州西部のモンゴルと隣接している地域でも度々民族同士の対立が起きており、その対立は今も引き継がれている状態です。

 

清朝はアヘン戦争後には外国軍に対する治外法権を受け入れるようになり、ロシア帝国はアムール川左岸及び沿海州の領有権を得て、さらに日本が日清戦争の勝利で得た清国に対する治外法権などの権利を三国干渉で日本に対して譲歩させた見返りとして、ロシアは清国に対して満州北部にロシアの鉄道敷設権を認めさせます。さらに1898年には旅順、大連の租借を認めさせて、ここにハルピンからの支線を伸ばしてほぼ満州全土を実効支配する状態になります。

 

このロシアの南下政策に危機感を持った日本との間で緊張感が高まります。そして1900年にはロシア軍による清国人虐殺の「アムール川事件」が起こり、1904年には「日露戦争」が始まり、日本はロシア大国と戦うことになります。そしてこの戦争は日本の勝利に終わり、ここから日本人による満州開拓が始まり、ここで収穫された大豆や大豆油が欧州、日本に輸出される大豆飛躍の時代が始まります。この日露戦争については別項目で改めてお話ししますが、この時代になって日本はこの地に半官半民の南満州鉄道株式会社を設立し、鉄道事業、鉱山開発など多面的な事業開発が始まり、またこの満州の地には中国人、満州人、朝鮮人、ロシア人、モンゴル人、日本人などが入り満州大豆に大きな花を咲かせるのです。

 

 

                                 (2022.2

 

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