大豆が歩んだ近代史 その4
醤油の発祥
縄文時代の土器からは魚を発酵させた「魚醤」や穀物を原料とした「穀醤」の痕跡が見られており、発酵食品がこれらの時代から我が国にあったことは想像できます。また飛鳥時代の「大宝律令」には「醤」、「鼓」などの文字が見られており、大豆だけでなくいろいろな発酵調味料が作られていた可能性が考えられます。大豆の発酵食品についても早い時期に中国から我が国に持ち込まれていたことが想像されています。万葉集(759-780編集?)にも「醤」について詠まれている和歌がり、また「延喜式」(927年)には醤の製造方法が記されているなど、すでにこの時代になると大豆を使った発酵調味料が普及していたようです。しかしこれらはすべて発酵した大豆そのままであり、液体の醤油とは少し姿が違っていて、そのままおかずとして食べる“なめもの”の一種であったようです。
現在のような液状の醤油になったのは鎌倉時代に和歌山県の湯浅で味噌の上澄みである溜まりをくみ取って調味料として使ったのが最初とされています。鎌倉時代の禅僧 覚心(かくしん)が中国浙江省にある径山寺(金山寺)で学んだ醸造法で作った醤に茄子やキウリなどの野菜を混ぜて樽に入れて“くさ醤”を作っていたら、野菜から出てきた多量の水分が浮き上がり、その“たまり”をくみ取って調理に使ってみたら非常に美味しかったことを見出し、これを調味料としたのが醤油の始まりになったと言われています。このように醤油は日本で生まれた調味料であり、「しょうゆ」という言葉が生まれるのは室町時代の中期から末期にかけてのようです。京都相国寺鹿苑寺の日記「鹿苑日録」(1536年)に醤油の文字が、また大納言山科言継の日記「言継卿記」(1559年)には「しょうゆを桶に入れて贈り物とした」との記述が残されています。これらが醤油の名前が使われた最初とされています(「醤油の豆知識」より)。また奈良興福寺多門院の僧侶である英俊が残した日記にも、16世紀には醤油が作られていることを書き残していることから、どうやら我が国で醤油の名前が使われ始めたのはこの頃からと考えられます。
醤油の輸出
わが国の醤油は早くから外国に輸出されていた歴史を持っています。1647年にはオランダの東インド会社によって堺で作られた醤油が東南アジアに輸出されていた記録が残されています。さらに、1670年代になるとイギリスやオランダに醤油が輸出されており、1699年に出版された本にも醤油のことを”Soy”と書かれています。このように我が国の醤油は17世紀の半ばにはすでにヨーロッパに向けて輸出されていたのです。当時は主として現在の大阪堺市から出荷されていたようで、途中での腐敗を防ぐために醤油を加熱殺菌して陶器に密閉して送られています。このころの日本の様子についてはドイツの植物学者ケンペルやスウェーデンの植物学者ツェンベリーやシーボルトなどが詳しく紹介しています。そのツェンベリーは「日本の醤油は大変良質で、多量の醤油樽がバタビア、インド及びヨーロッパに運ばれている」と書いています。当時のオランダでは日本から輸入した醤油はソースの味付けに珍重され、主にヨーロッパの宮廷料理に使われていたようです。これらの醤油は輸送中の変性を防ぐため火入れした醤油を陶器の瓶に詰めて運んでいたようです。しかし当時はこの醤油が何によってつくられているのか、その原料について彼らは全く知りませんでした。それは当時の我が国は外国人に対して情報を一切知らせてはいけないことになっていたからでした。
16世紀のヨーロッパでは
ここで16世紀頃のヨーロッパの状況について少し触れておきたいと思います。当時ヨーロッパではスペインが圧倒的な勢力を持ち、ポルトガルと先を争ってアジア、アフリカやアメリカ大陸に対する植民地支配を活発に展開していた時代でもあったのです。スペインは無敵艦隊を柱とした武力を背景に、ヨーロッパで圧倒的な勢力を持つと同時に南米やアジアに広大な植民地を広げており、他の国はそれに対抗することが出来ませんでした。まさにスペインが世界に植民地を広げていきながらそこから富を吸い上げていた時代でした。当時、オランダはスペイン領ネーデルランドとしてスペインの支配下に置かれていました。スペインの圧政に喘いでいたオランダはついに独立を宣言し、スペインとの間でオランダ独立戦争(1568-1604)を展開することになります。しかしオランダにはスペインの無敵艦隊のような強力な戦力がありませんでした。そこでオランダは自国の武力を強化するためには国の経済力の強化が必要と考えて海外貿易に活路を見出すことにしたのです。こうして16世紀後半になると新興国オランダとイギリスが交易を求めて乗り出してくることになります。
オランダは1602年に後の株式会社のルーツとも言える組織、「東インド会社」を設立します。この会社は市民たちから出資を募ると共に、国からは外国の領主と独自に契約を結ぶ権利を与えられるなど大きな権限を与えられている組織でした。こうして東インド会社は世界各地に貿易船を送り出し、当時世界通貨として通用し始めた銀貨を使った商取引の世界展開を始めるのです。日本は当時、世界でも有数の銀の産出国であり、その埋蔵量は世界の3分の1を占めていたとされており、この日本の銀貨を得るためにオランダは日本との貿易に力を入れるようになります。そして東インド会社は徳川幕府が欲しがっていた鉄砲などの武器などを大量に持ち込み、その代金として銀貨を得ていたのです。こうした交易の中で日本からの輸出品の中に醤油などの大豆製品が含まれていたのです。
すでに日本にはポルトガルやスペインなどの旧教国が貿易とキリスト教布教のために多くの宣教師が入国していました。キリスト教布教を伴わない新教国であるオランダとイギリスも1609年と1613年に相次いで長崎平戸に商館を開いて貿易を始めています。貿易による経済活動の高揚を期待していた家康は、宣教師による国内での布教について、初めのうちは黙認していましたが1605年頃になると国内のキリスト教信者が70万人に達したことから1612年と翌年にも「禁教令」を出しました。幕府2代目の秀忠もヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎に限定しますが、島原の乱をきっかけとして幕府はキリスト教撲滅へと転換していきます。こうして1641年には外国船の入港はオランダと中国の船の船だけとなるのです。
こうして我が国は鎖国の時代に入り、外国人の入国が許されなくなり、布教活動を伴わないオランダの東インド会社の社員だけが長崎出島のオランダ商館に入ることが許されていました。しかし幕府はこれらの外国人に日本語を教えることも日本の書籍を与えることも認めていなかったのです。しかしドイツ人のエンゲルト・ケンペルは自分につけられた下僕にオランダの薬などを分け与えながら少しずつ彼らの気持ちを和らげ、日本語を独学で学びながら日本の書籍やいろいろな日本の資料を集めていったのです。1712年、彼の死後に出版された書籍の中では大豆とその加工方法について詳しく説明してあります。ケンペルは日本滞在中に自分で得た情報を材料にして、自国に戻ってから900ページにわたる日本を紹介した記事を書いたことにより一気に醤油についての知識が広まることになります。しかしそこには醤油の原料が大豆であることはまだ知りませんでした。
こうして17世紀の半ばにはオランダの東インド会社によって堺の醤油がイギリス、フランス、オランダなどに輸出されるようになります。これらの醤油はヨーロッパに持ち込まれて、きらびやかな宮廷料理を楽しんでいた貴族たちの調味料の原料として使われていたようです。フランス王ルイ14世もこの東洋から来た神秘的な調味料を愛好していたことが分かっています。1699年に出版された本には醤油のことを”Soy”と書かれているものがあります。ちなみに大豆のことを英語で“Soybean”と呼ぶようになるのは、この日本からヨーロッパへ輸出されていた醤油の呼称が語源だとと見られています。ヨーロッパの人たちは日本から醤油を輸入しながら、その商品名を日本人から聞いた「ショウユ」という言葉を繰り返していたことでしょうが、彼らには日本語の「ショウユ」がうまく発音できなかったようです。彼らには日本人が発音した「ショウユ」という早口の言葉が「ソイ」と聞こえていたのではなかったかと思われます。彼らは、当初はこの醤油が何によって作られているのかについて全く知りませんでしたが、だんだんと大豆で作られていることが分かるにしたがって彼らは、醤油(soy)を作る原料豆としての大豆を(soybean)と呼ぶようになったと想像されます。
現在も日本の醤油は海外で多く愛用されており、その輸出量は毎年増加していますが、その歴史は古く350年以上にわたっていることになります。このように日本や中国から大豆の情報が持ち込まれたのはアメリカよりもむしろ欧州が早かったのです。
しかし大豆がヨーロッパで栽培された記録は遅く、1737年にオランダ人リナエスが自分の庭に大豆を植えていたことを書いたのが最初です。それに続いて1739年には中国にいた伝教師によって大豆がパリの植物園に持ち込まれ、1790年にはイギリスの王立植物園に、1804年にユーゴスラビアの植物園にいずれも植物分類学上の目的や観賞用として植えられていたようです。ヨーロッパでも1900年頃になると大豆製品の商業生産が試みられていますが、大豆は登熟までには150日を要し、緯度の高いヨーロッパでは日照時間が不足して大豆の栽培が難しかったようで、現地栽培には成功していません。
このようにわが国の醤油の輸出の歴史は古く、フランス、オランダの宮廷料理やソースの味付けに使われてきた歴史があったのです。当時のヨーロッパには東アジアにある味噌や醤油などのような発酵調味料がなく、これらを日本や東アジアからの輸入に頼っていただけでなく、南北アメリカやアジアからの香辛料を使って味付けをしていたのです。現在も、キッコーマンなどではアメリカをはじめとする海外への醤油の輸出が多く、国内の消費減退の波を完全に吸収してしまっている状況になっています。キッコーマンの2018年の醤油の売り上げを見ると、海外の売り上げの方が国内を上回っている状況になっています。このように日本の醤油は昔から外国の食の味付けを陰で支えてきた歴史があり、今も欧米を中心とした海外の多くの愛好者によって支えられているのです。
現在、我が国の醤油は世界に向けて勢いをつけて走り出しているところです。ここにはキッコーマンなど大手醤油メーカーの長年の努力が下地となって実ってきていると見ることが出来るでしょう。現在、我が国の醤油はどこに輸出されているのか、輸出量の多い順に並べると次のようになります。最も多いのがアメリカで、次いで中国、オーストラリア、イギリス、韓国、香港、フランスなどとなっています。
ソイビーンは醤油から
上記にも触れておきましたが、そもそも英語圏の国々にはかつて大豆は生育しておらず、彼らにとって大豆は18世紀になって持ち込まれた外来作物なのです。そのためダイズを指す言葉も当然存在していませんでした。では現在使われている英語のsoybeanはいつ、どのようにして生まれてきたのだろうか。
過去の記録を辿ってみると大豆そのものが最初に英語圏に紹介されたのはアメリカよりもむしろヨーロッパのほうでした。1603年に出版された日本イエズス会が編集した「日葡(ポルトガル)辞典」には大豆・味噌・醤油について記載されており、これがヨーロッパに大豆製品が紹介された最初ではないかと考えられます。1679年にジョーンロックが東インド諸島からイギリス、オランダへ運んだ物資としてマンゴと大豆を挙げています。このときの大豆の名称はどうであったのか、確認することは出来ません。しかし、オックスフォード辞典によると、1699年に出版された本には醤油のことを”Soy"と紹介されていることから、その頃には醤油を「ソイ」“soy"と表現していたと思われます。おそらく西洋の人たちにとって、日本人が言った「醤油」という発音が「ソイ」と聞こえたのではなかったかと思われます。
一説には明治新政府の大久保利通がパリ万博へ行って、日本から出品してあった醤油を指して彼の田舎言葉である薩摩弁で説明したときに「しょうゆ」と言ったつもりが「ソ-イ」と聞こえたから、との話が残っていますが、”Soy“の言葉の出現はパリ万博よりも古く、この説はあまり評価をされていません。
"Soybean"が最初に文献に表われるのは1795年であり、その後1802年にも「The soybean are cultivated in Japan」と明記されています。しかし、それから後しばらの間はsoyという表現が消えてしまいます。因みに1854年にペリー提督が日本から持ち帰った2種類の大豆が、農業委員会(Commissioner of Patents)に提出されており、これには"Soja bean"との表現が使われています。SoyaあるいはSojaはオランダ語の表現であり、日本語のshouyuがオランダ語のsoya,sojaを経た後、beanとの複合語である英語のsoybeanへとつながったと考えられます。1882年にsoybeanの言葉が出て以来、soybeanの言葉は文献に続いており、soybeanの呼び方が定着したことが想像されます。このように英語のsoybeanは日本語の「醤油」がそのルーツであることには間違いありません。
こうして17世紀の日本は、一方では鎖国政策をとりながらも他方ではオランダ貿易を窓口にした海外への交易の道を開いていたのでした。そしてそこでその役割を果たしていたのが醤油だったのです。このように醤油は日本の大豆製品がヨーロッパに伝えられた最初のアイテムだったといえます。そして醤油の味がヨーロッパの人たちの味覚に合致していたからこその展開ではなかったかと想像しています。また欧州だけでなく、アメリカに対しても日本の醤油メーカーが早くから輸出を始めており、現在の勢いは今後も更に拡大していくのではないかと想像しています。今のところ同じ大豆調味料でも味噌は醤油ほどには西洋人たちの味覚には会っていないように感じますが、これから先にはどうなるのでしょうか。
(2022.2)
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