大豆が歩んだ近代史 その3

「日本における植物油の歩み」

 

日本における油の誕生

日本では大豆は味噌、醤油、豆腐、納豆、黄な粉や湯葉など大豆そのものを調理、加工して利用しており、昔は大豆から油脂を絞るということは行われていませんでした。でも現代では世界的にも、我が国においても大豆油は主要な食材として消費者の間に広く行き渡っています。いつ、どのようにして大豆油が生れたのでしょうか、そのことを見てみたいと思います。

 

我が国における植物油利用の歴史は、3世紀の初めころに中国から搾油技術が伝えられ、ハシバミの実から絞った油が神社に奉納されたのが始まりとされています。この3世紀という時代は中国ではちょうど魏呉蜀の三国が戦っていた三国時代に当たります。また我が国では弥生時代の後半に当たり、邪馬台国の卑弥呼が中国の魏の国に使者を送っていた時代でもあったのです。この時代は卑弥呼が魏の国に使者を送ったのが突出した行為だったというのではなく、日本海沿岸にはすでに海村民と呼ばれる日本海をはさんで大陸との間で民衆同士が物々交換の交流が見られていた時代でもあったのです。それら海村民がいた地域は九州北部沿岸から山陰沿岸に続き、さらに隠岐の島に続く広い地域に広がっていました。そしてそんな中で、北九州の沿岸部や島根県松江市にある田和山遺跡などでは海外との交流に使われていた「板石硯」が40個以上見つかっており、我が国と大陸との間で交流があったことが知られています。またその板石硯の裏側には交易の記録と見られる墨文字が見られ、それは我が国での最初の文字ではないかと言われています。この当時はまだ我が国には文字がなかったので、ここに書かれていたのは魏国や呉国から交易のために来た人たちの記録だったと思われます。

 

卑弥呼は魏の国に対して239年に水銀などの貢物と共に使者を送っており、その後も数回にわたって使者を送っていたことが陳寿によって書かれた中国の歴史書「正史三国志」の中の「魏志倭人伝」に残されています。卑弥呼はこのときに魏の皇帝に対して貢物の他に多くの男子を献上しているのは、三国時代にあった魏の国にとっては兵士となる男子はこの上ない献上物だったからです。これに対して魏の国王からは卑弥呼に対して鏡など最大級の返礼があったとされています。恐らくそれらの中に当時魏の国で使われていた油を絞る技術などが含まれていたのではないかと想像されます。しかしそのものはどんな搾油技術だったのかはなんら記録が残っていません。しかし、それらに端を発して我が国では灯明に使われる油の生産が始まり、その油もハシバミ油から椿油、ゴマ油、エゴマ油、カヤの油へとその利用は拡がっていったようです。これらの中でなるべく煤(すす)の出ない油が特に求められていったと考えられます。奈良時代になると煤の少ないゴマ油が税として徴収されていたとされています。それは神社や寺院などの室内で焚いたときに室内を煤で汚さないためにも必要なことだったのでしょう。こうしてその当時はゴマ油が最も貴重な油とされていたようで、天平年間(8世紀)のゴマ油の価格を米に換算すると、米4斗5升(67.5s)がゴマ油1升(1.65s)に匹敵したとされています。もちろんこのような油は一部の貴族や神社仏閣への奉納のために使われていたものであり、庶民には手の届かない貴重品だったはずです。そしてこれらの油を絞る職人たちも登場するようになります。このように油はもっぱら高貴な人や神社、仏閣の灯りをともすために搾られていたのであり、人の栄養としての油脂は動物や魚、植物などを直接食べることにより自然に摂取できていたので無理して油を使って調理しようとは思わなかったのでしょう。それよりも大切だったのが信仰する神仏をもてなす「灯火」を守ることだったのです。そのために灯火の原料探しは真剣に考えられ、燈明の油を絶やしてしまう「油断」は最も気を付けなければならなかったこととされ、決して油断してはならない重要な留意事項だったのです。

 

平安時代以降の油の利用

 京都大山崎町にある離宮八幡宮の初伝によると、貞観元年(859)、この地に宇佐八幡宮の神霊を奉遷した時に、神事・雑役に奉仕する神人が「長木」という絞り具を使ってエゴマの油を絞り朝廷などに献納したとされています。その功により神社の宮司は「油司」の役を賜り、それ以降、同神社の神人たちはエゴマ油の独占販売権を認められ、その影響力を強めていきました。鎌倉時代になると、この人たちの集団が油座(油商人の同業組合)を結成し、全国に活躍の場を広げていったのです。

 室町時代の終わり頃になると菜種油も使われるようになります。禅宗を信奉した武家文化は、食生活でも精進料理として油料理を少しずつ取り入れるようになっていきます。この頃の料理書とされている「大草家料理書」にも「ふやこんにゃくやとうふ、いずれも万(よろず)の精進物油にてあげても吉也」と書かれており、植物油で揚げる調理法が珍重されていたことが伺えます。こうしてこの頃になると寺院に伝えられた油料理の影響によって徐々にゴマ油や菜種油を使った料理が生まれてきます。大豆は主要な食材としてこれらの料理に使われますが大豆油はまだ登場しません。江戸時代になっても、まだ油はほとんどが行燈(あんどん)の燃料として使われていましたが、やがて「しめ木」という大規模に油を搾る器具が開発され、さらに菜種が大量に栽培されるようになって、しだいに調理用の植物油が庶民の手の届くものになっていきました。

 安土桃山時代になると、ポルトガルやオランダの人たちが長崎に持ち込んできた油料理も南蛮料理として庶民の間に広がっていき、天ぷらもこの頃に生れたと言われています。1655年には隠元和尚が京都万福寺に「普茶料理」として油で調理した料理を持ち込んだことなどによって我が国では油調理の幕開けを迎えることになります。それまでは身の回りに新鮮な野菜が豊富にあり,海や川にはきれいな水に泳ぐ魚に恵まれていた日本では油調理としては普及せず、油はもっぱら灯りをともす材料でしかなかったのです。

 

 江戸時代も後期になると油もゴマ油、えごま油、クルミ油、椿油などが大量につくられるようになり、天ぷらなどの調理に使えるようになります。18世紀末にはナタネ油が広く普及するようになると、油桶を担いで売り歩く「油売り」も町で見かけるようになります。当時、江戸で使われる油の大半は大阪からの定期船便である樽回船や菱垣回船で運ばれて来ていましたが、正徳4年(1714)の大阪からの積出量を見ると、積み荷全体の27%がなたね油で、綿実油が6.4%、ゴマ油が2.2%となっています。
 当時、ナタネ油は良質の灯用油として利用されていましたが、安価なナタネ油が出回ったため、ようやく食用として

年度

生産量、単位千d

明治31年(1898

    400

明治35年(1902

    404

明治39年(1906

    453

明治43年(1910

    438

大正3年(1914

    473

大正10年(1920

    534

大正14年(1924

    395

使用されるようになります。また、享保年間(1716-1735)には、今の西宮市付近で水車を利用した水力搾りが工夫され、それまで人力に頼っていた大阪の業者の搾油法を圧倒する勢いをみせ、一時は幕府が西宮付近の業者に対しては原料ナタネの供給を制限する措置をとったりした。しかし、明和7年(1770)にはこの統制策も緩和され、その後は関東地方でもナタネ油の生産が行われるようになり、価格も更に安価になっていきます。 そしてまだここには大豆油はまだ登場していませんでした。しかし大豆は当時国内で約50万トン生産されていました。しかしそれらの大豆は全て醸造用と食用に使われており、搾油して大豆油を生産することは考えられていなかったのです。農林省累計統計表によると当時の日本の大豆生産量はここに示したように約45万トン生産されており、現代(直近3年平均)の国産大豆の生産量23万トン/年に比べれば、当時は現在の倍の大豆を生産していたことになります。

 

大豆油に入る前に

油脂は動物であれ植物であれ、それぞれの体内で生命活動を維持するために必要な大切な物質です。大豆に含まれている油脂も人に食べられるために種子に蓄えているわけではなく、自分の子孫に生命をつなぐための種子の発芽に必要なエネルギー源として油脂を蓄えているのです。大豆だけでなく動物や魚の油脂も、野菜や果物もそれぞれの体内にある油脂は自分の命を支えるために蓄積しているのです。それを人間や動物が自分の体に足りない栄養素として油脂を補強するために搾取して(食べて)いるのです。

それらの油脂を蓄えている動物や植物はいろいろな環境の中で育っています。その育っている環境の中で自分の体が利用しやすい形で油脂を蓄積しているのです。摂氏5度以下の冷たい海水の中を泳いでいる魚類には、そのような低温でも自分の体で利用できる流動性を保つように低温対応の油脂として蓄積しています。熱帯地方に育つ植物では摂氏50度を越える過酷な環境でも油の酸化が進まないように構成された油脂を体内に持っているのです。それらは油脂を構成する脂肪酸の組み合わせを変えることによって油の酸化に対する抵抗性や流動性を保っているのです。

 

油脂をどう見るか

私たちは油脂を考えるときによく使うのが大豆油、菜種油、オリーブ油、魚油などのように、その油脂が含まれていた本体を見て油脂の区別をしていますが、油脂を分類するときにはこのような原料による区別は正確ではありません。どの油脂もいくつかの脂肪酸の組み合わせとして作られているのです。別の原料から作られた油脂でもその中身の脂肪酸の構成が似ていれば、私たちの体内に取り入れられた後の栄養や働きなどは全く同じとなります。さらに現在では油脂原料の品種改良によって本来の脂肪酸組成の構成を変えてあるものもあります。例えば大豆のリノール酸を減らしてオレイン酸を増やした「高オレイン酸大豆油」、同じようにトーモロコシのオレイン酸含量を増やした「高オレイン酸トーモロコシ油」などは大豆とかトーモロコシの名前がついていますが中に含まれている脂肪酸の構成は従来の菜種油や大豆油とは異なった性質を持った油脂に変わっています。つまり油脂の性質を決めているのは、原料となる名前ではなく構成している脂肪酸の比率によってその性質が決められているのです。

 

これらの性質を決めている脂肪酸は大きく分けて飽和脂肪酸、1価不飽和脂肪酸、多価不飽和脂肪酸と区分けされています。別の呼び方では飽和脂肪酸、オメガ9、オメガ6、オメガ3とも称されています。私たちが油の栄養を考えるときに大切なことは、これらの脂肪酸をバランスよく摂取することです。それぞれの油脂原料に含まれている油脂にはその生物に最適な脂肪酸バランスとなっていますが、それは必ずしも人間が必要とするバランスとは同じではないのです。近年はオリーブ油を好んで使用している人もいますが、オリーブに含まれている脂肪酸バランスと人間の体が必要としている脂肪酸のバランスとは全く違うものなのです。人には人の望ましい脂肪酸バランスがあり、魚には魚に必要な脂肪酸バランスがあるのです。


また、同じ動物でもその育っている環境によって体内の脂肪酸の組み合わせが違ってくることがわかっています。例えば、同じ魚でも暖流に住んでいる魚と寒流に住んでいる魚では厳密に言えば体内の脂肪酸組成が違ってきます。一般的に暖流を泳いでいる魚よりも寒流を泳いでいる魚の方が不飽和脂肪酸の比率が高いとされています。また、牛肉に含まれている油の脂肪酸組成も、その牛が自然環境の中で放牧されて牧草だけを食べて育っているのか、狭い牛舎の中に閉じ込められて穀物飼料を与えられているのかで牛肉の中に含まれる脂肪酸組成が違ってくることが明らかになっています。牧草で育てられている放牧されている牛はストレスが少なく、穀物牛に比べて多価不飽和脂肪酸のオメガ3脂肪酸が多く含まれていることがわかっています。そのためにニュージーランドのような牧草牛にはオメガ3脂肪酸が多く、我が国の牛舎で育つ穀物牛の霜降り肉には飽和脂肪酸が多くなる傾向にあるようです。

 

どの油脂にも人間の体にとって望ましいとされるバランス(飽和脂肪酸3:一価不飽和脂肪酸4:多価不飽和脂肪酸3)に合致している油はありません。つまり私たちは1種類の油脂に頼るのではなく、摂取油が偏らないように自分で組み合わせを考えてバランス良く摂取しなければならないのです。これらの脂肪酸はどれも私たちの体にとって大切な働きをしてくれているのです。
  オメガ3脂肪酸(EPA・魚油、亜麻仁油、荏胡麻油): 炎症の抑制、細胞膜の柔軟性
  オメガ6脂肪酸(リノール酸・大豆油、サラダ油): 炎症の促進、細胞の合成、悪玉コレステロールの低下
  オメガ9脂肪酸(オレイン酸・菜種油、オリーブ油): 悪玉コレステロールの低下
  飽和脂肪酸(動物油脂、熱帯油脂・牛脂、パーム油): エネルギー産生、ホルモンの原料


このようにオメガ3脂肪酸も飽和脂肪酸も私たちの体にとっては必要な油脂ですが、これが体内で片寄ってバランスが崩れると体に異変が起こります。だから私たちは肉も魚も大豆油もオリーブ油も偏らないように体に取り入れておくことが大切なのです。現代の食習慣は、多価不飽和脂肪酸が多く含まれる魚類の摂取が減少して、飽和脂肪酸が多く含まれる肉類の摂取が多くなっていることが分かっており、これらが高血圧や動脈硬化などの循環器疾患の増加につながっているのではないかとの見方もあります。
   

次に、油脂は温度によって液状のものと固体のものとがあります。これらを食べて体内に取り入れた時に人間の体温でドロドロ状態かサラサラ状態かも油脂を摂取するときに気を付けておかなければならない視点です。人間の体温よりも低い融点を持つ魚油や大豆油は体内ではサラサラ状態ですが、動物油などは飽和脂肪酸が多く、人の体温では流動性が発揮されないことがわかっています。さらに、油は酸素や光で酸化されやすい性質をもっているものもあります。油が酸化されると健康のために良くない反応を体内で起こします。それらを防ぐには酸化反応に抵抗性の強い油脂で加工する方法もありますが、しかし、熱に強い飽和脂肪酸は血管内に入ると流動性が悪くなり、動脈硬化や心疾患などの心配があり安心はできません。やはり、油脂加工品や油調理の総菜は長期の保存性に期待せずに早めに食べてしまうことが大切なことです。

 

油脂の組成は生育環境で変化する

油脂はそれぞれの体内でホルモンや細胞などいろいろな材料として利用されるために数種類の脂肪酸の混合物として組み合わされていますが、それは住んでいる環境に強く影響を受けているのです。アメリカで生産されている大豆油も暖かい南部の畑で生産される大豆から作られる大豆油よりも北部の涼しい地域で栽培される大豆油の方が低温対応の多価不飽和脂肪酸が多い油脂になる傾向もわかっています。

 

熱帯で育ったカカオのマメに含まれるカカオ脂は熱帯ではどろどろとした流動性がありますが、気温の低い温帯地方に持ってくるとそのカカオ脂は固化してチョコレートとなってしまうのです。この固まったチョコレートを熱帯地方へ持って帰ると再び溶けてしまいます。逆に冷たい海水に住む魚の油を36度の体温を持つ人間が食べるとその油脂は体内に入りサラサラとなり、血液の流れがスムーズになるのです。北極に住むエスキモー人は冷たい海に住むアザラシやオットセイの肉を食べていますが、肉と一緒に体内に入ったアザラシなどの油脂が温かい人間の体温でサラサラになり動脈硬化などの循環器疾患を起こさなくなることも知られています。逆に、サラサラになりすぎてけがをしたときには血が止まりにくくなるほどです。

同じ理屈で人間よりも体温の高い牛や豚の油を我々が肉と一緒に食べると人の体に取り込まれて、私たちの血液がドロドロになることは容易に想像されます。牛の油脂で出来ているバターを想像してみてください。バターは人の体温である36℃では固いまであり、とろーりと溶けた状態になるのは40℃を超えてからです。それもドロドロの状態であり、とても食べて血液をサラサラにしてくれそうには思いませんね。このように、冷たい海水の中で生活をしている魚に含まれる油脂は低温で流動性が保たれるような仕組み(脂肪酸組成)になっていますが、このことは何も油脂だけの話ではないのです。魚に含まれているあらゆる生理活性物質も同じように低温で活性化できるようになっているのです。魚を冷たい水中から釣り上げた後の漁船の中で、さらに漁港から市場へ、市場から小売店への流通過程において魚が全て氷詰めされているのは、陸上の気温によって魚の体内にある低温対応の酵素が異常反応を起こさせないためなのです。これらが異常反応することによって魚の鮮度が低下し、タンパク質の分解や油脂の酸化が進むことによる劣化が起こるからです。このように低温で生活している魚の全てが低温仕様になっているのです。このことは全ての生命体についても言えることです。

 

 

                                   (2022.1

 

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