大豆が歩んだ近代史 その24
ここまで見てきたように我が国の大豆搾油の歴史は満州の時代を無視しては語れない深いつながりを持っています。冒頭で述べたように大豆が生まれた時代は満州でも日本でもほぼ同時代の,今から5千年前に先祖種のツルマメから変化したものとされています。そしてそれ以来,我々の先祖の人たちは大豆を重要な食材としていろいろと加工し,調理しながら大豆メニューを拡げてきて来ています。そして満州では千年前には大豆油を作って自家用としながらも油料理に使い始めています。しかし日本では大豆油は大正時代になるまで現れませんでした。その差はどこにあったのか詳しくは分かりませんが,多分それぞれの地域環境による影響が大きかったのではないでしょうか。日本は温暖な気候に恵まれ,且つ四面を海に囲まれていて,油分を含んだ各種の食物が身の回りに沢山あり,大切な大豆をつぶしてまでして油を摂る必要がなかったのではないでしょうか。それに対して比較的北の冷涼な土地に位置している満州にあっては,我が国に較べて育つ植物の種類も限られており,植物油を入手することが出来る植物が少なかったのではなかったかと考えられます。それだけに身の回りにあった限られた材料での大豆の利用に対する知恵は我々には想像できないものがあったのです。彼ら満州など寒い土地で生活している人たちは我々日本人の常識を超えた大豆の利用を知っていたのです。ここでそれらを少し紹介してみたいと思います。
朝鮮戦争と大豆
まず初めに,東西冷戦のさなかに当たる昭和25年(1950)に起こった朝鮮戦争で、アメリカ軍を中心とした連合国軍と戦った北朝鮮軍の大豆を使った食糧戦略について紹介したいと思います。
1948年8月にソウルで李承晩が大韓民国(韓国)の成立を宣言し、金日成がこれに反発して9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を成立させます。その結果として北緯38度線がこの時の両者の国境となったのです。この南北両政府では、李承晩大統領が「北進統一」を唱えて北朝鮮を併合する考えを発表すると、金日成首相は「国土完整」を主張して韓国併合を主張し、互いに相手を屈服させて朝鮮半島の統一を図ることを宣言していました。
そして1950年6月25日に金日成労働党委員長率いる北朝鮮軍が38度線を越えて韓国側に攻め込んできたのが朝鮮戦争の発端だったのです。この戦争は同じ朝鮮民族同志の韓国と北朝鮮との間で戦われた南北朝鮮の戦いだったのでしたが、北朝鮮側には中国軍が加わり、韓国側にはアメリカを中心とした国連軍22か国が参戦したことから、東西冷戦下での自由主義陣営と社会主義陣営という戦いへと発展したのです。ただ毛沢東は中国が政府軍を派遣したとなると軍事大国アメリカと正面衝突することになるので中国軍は、名目上は義勇軍という格好で「人民志願兵」の名前で参戦していました。こうすることによってアメリカとの直接的軍事衝突は避けていましたが、戦局展開では連合国軍を大いに悩ますことになます。
戦闘が始まった初期の段階は戦力に勝った北朝鮮軍が38度線を越えて南朝鮮に攻め込み、一時は南端の釜山近辺まで攻め込みますが、ここでアメリカは直ちに国連総会を開き、国連軍を創設して体制を整えて反撃に転じます。そして国連軍の司令部を東京に設置します。この国連軍にはアメリカ軍が中心となる17か国が参加します。当時日本には軍隊は存在していませんでしたが、マッカーサーの指示で警察予備隊が設置されることになります。そしてこの戦争に日本人は色々な形で協力することになります。まず、アメリカ軍は朝鮮半島の地形については全くの無知であり、直前まで朝鮮を支配していた日本兵のアドバイス無しでは戦えない状態であり、日本の協力が必要となったのです。また、海上輸送への協力も必要になっており、連合国軍からの要請によって海上保安官や海上輸送を担当する民間人たち約8千人が参加していたとされていますが、そのうちの56名がこの戦争で亡くなっています。
こうして国連軍は北朝鮮軍を反撃して北の国境線(鴨緑江)近くまで押し返しますが、そこで毛沢東率いる中国軍が参戦してきたことにより戦況は泥沼化することになります。
1953年7月27日に両者が休戦協定に署名して終結をするのですが,この戦いでは1951年の冬から両軍が越冬状態の下で展開された1211高地戦闘など戦略上重要な局面がありました。これは現在の南北朝鮮の軍事境界線付近にある,海抜1211メートルの山岳地帯で終戦間際に繰り広げられた激しい戦いでしたが、朝鮮人民軍は厳冬の中にあってここを守り抜き,戦いを有利に終わらせることが出来たのです。この長期戦は坑道戦とも呼ばれ,人民軍はトンネルの中で生活をしながらの戦いでしたが,人民軍はこのトンネルの中に大豆を持ち込み,大豆もやしを作り冬場に不足しがちなビタミンCの欠乏を防ぎながら戦ったのでした。この戦闘でアメリカ軍は苦戦の末に朝鮮戦争から撤退を余儀なくされ,現在の南北朝鮮に落ち着いたのでした。このように大豆もやしで冬の野菜不足を補うという利用方法は,大豆栽培圏の中でも北部の北朝鮮のような,冬場に野菜が少ない地域の人たちが編み出した健康法だったのです。アメリカ軍の人たちは勿論、我が国でもこのような大豆の利用法はあまり知られていませんでした。冬場も野菜が育つ比較的温暖な日本においては考えられない大豆の利用法だったと言えるでしょう。
日露戦争で大豆在庫
しかし同じ寒い地域にいても当時、大豆が身の回りになかったロシアでもこのような考えが浮かばなかったようです。1905年に終わった日露戦争の終結後に行われたロシア軍の敗戦の原因分析が,後になって明らかになってくるのですが,それによるとロシア軍の敗因の大きな項目の一つが,長期の籠城による壊血病患者,夜盲症患者の続出による戦意消失であることが分かりました。つまり,冬季の野菜不足が引き起こした病気がロシア軍の戦意を喪失させていたことだったのです。ところが,終戦直後に日本軍が調べた結果によると,ロシア軍の倉庫には大量の大豆が積み上げられていたそうです。日露戦争が繰り広げられていたこの満州地域の周囲の住民たちは,冬の間に大豆もやしを作って野菜不足を補う方法を知っていたのです。しかし,当時まだ大豆に馴染みのなかったロシアの人たちは,同じ寒さの中で生活をしていながら大豆の利用の仕方を知らず,大量の病人を発生させてしまい,結果的に戦いに敗れてしまったのです。記録によれば,将兵から8千人の壊血病患者と1千人の夜盲症患者が発生していたとされています。これらはビタミンCやビタミンAの欠乏によって引き起こされたものであり,明らかな野菜不足によるものです。この満州の地で展開された日露戦争でロシア軍が大豆を食料にしていたのは,恐らくヨーロッパ人が大豆を食料とした最初だったと思われます。だから大豆を煮たり炒めたりして食べることは出来たでしょうが、大豆もやしを作って野菜として利用することについては意識になかったのです。その後,ロシアが大豆栽培に真剣に取り組むようになるのは1921年に始まる天災による飢饉への対応からです。その対策としてロシアはハンガリーの大豆研究者を呼んで大豆の加工技術に真剣に取り組み,モスクワに大豆研究所を設立すると共に,5カ年計画で広範な土地に大豆栽培を定着させたという成果を残しています。その功績によりハンガリーの研究者は1930年にスターリンから勲章を授けられています。
話は変わりますが,最初にアメリカに大豆を持ち込んだイギリス生まれの船乗りサムエル・ボーエンは,大豆が壊血病予防に効果があることを中国滞在中に聞いた噂により知り,中国から大豆を持ち出して無事にアメリカまで航海して,最初のアメリカでの大豆栽培者として成功しています。それは日露戦争が始まる140年前のことでした。当時の船乗りにとって航海中の壊血病は死に至る大変な病気でした。それだけに船上での大豆もやしの効果についての話には彼も敏感であったのでしょう。大豆もやしは水だけあれば船上でも短時間で簡単に作れるものです。大豆もやしの効果を知っていた彼と,知らなかったロシア軍は正反対の結果となってしまいました。
大豆油についても今では我々も常識のように知っていますが,満州地方で大豆油が作られ始めたころの,我が国の平安・鎌倉時代の人達にとってはそんな必要性を全く感じていなかったのではなかったでしょうか。
もうひとつの戦争と大豆
大豆が戦争に絡んでいた話をもう一つしておきましょう。大豆栽培をするときに緯度の高い地域では日照時間が少なくて結実をしないということが問題となりますが、このことに道を開いたのがアメリカの植物学者のアーサー・ガルストンでした。彼は1943年に三ヨード安息香酸が大豆の開花を促進するという研究を完成させました。これによって高緯度や高地での大豆栽培がこの薬品を使うことによって可能となったのですが、しかし過度にこの薬品を使うと植物は過剰反応をして破滅的な結果を招くことも分かったのです。これらの研究は大豆を増産することを目的としたものでしたが、これが後には除草剤としてモンサントによって量産され、さらには枯れ葉剤の兵器となってベトナム戦争で使われるようになってしまいます。この薬品は日本では使われませんが、果実の着色や熟成を促進するために茎葉を枯殺して落葉を促す薬剤としても知られており、枯れ葉剤とも言われています。ベトナム戦争の際、密林の中に隠れている北ベトナム解放民族戦線の兵士を発見する目的で、密林を枯らすためにアメリカ軍が航空機からこれと類似の枯葉剤として「2,4,5-T」とダウケミカル社が開発した「2,4-D」を混合した「エージェントオレンジ」と呼ばれる除草剤を散布していたのです。
1960年当時、アメリカは共産主義の拡大を恐れていました。そして共産国ソ連の支援を受けた北ベトナムとアメリカに支援を求めていた南ベトナムの間で紛争が勃発したのです。アメリカは北からの支援を受けた南ベトナム国内に潜伏する共産主義の反乱分子を抑え込みたかったのです。南ベトナム政府は除草剤の供給をアメリカ政府に要請して除草剤散布作戦が始まるのでした。こうしてアメリカ軍が1962年から1971年にかけて南ベトナムで展開したこれら除草剤作戦は「ランチハンド作戦」と呼ばれていまました。
しかしガルストンは直ちにベトナムでの枯葉剤の使用に反対する活動を始めます。枯葉剤はマングローブの林に破壊的な影響を与えるだけでなく、人間にも害を及ぼすと主張して、国防省に実験をするよう求めました。実験室でのテストによってラットの場合、枯葉剤と先天性欠損症の間に関連があることが分かったからです。ニクソン大統領は直ちに枯葉剤の使用を禁止しましたが、多くの禍根を残すことになったのです。当時戦時体制下にあってアメリカ政府はすべての化学薬品会社を管轄下に入れて軍需製品を優先的に作らせていました。これらの化学薬品会社は軍に納める除草剤を短時間で製造するために反応温度を高めていきました。そのことにより副産物として人体に害となるダイオキシンが多く含まれるようになります。ダイオキシンには強い発癌性と突然変異の誘発性があることは分かっていました。これらダイオキシンは分解されるための半減期は非常に長く、それはプルトニウムに匹敵するとされています。アメリカ軍はこれらの除草剤をベトナムに2,000万ガロン散布したとされています。これらは川に流れ込み、川の流域が汚染され、水田が汚染され、井戸水が汚染されたのです。その結果介護を必要とする被害者が数百万人いるとされています。さらにベトナム戦争後に残された除草剤「エージェントオレンジ」は200万ガロン以上と言われ、それらは世界中の土壌中に埋められているのです。
こうして「2,4-D」はベトナム戦争で使用禁止になりましたが、今も「2,4-D」は多くの除草剤に使われており、除草剤による健康被害は後を絶たない状態です。飛行機から撒かれるこれらの除草剤を体に浴びると、体がべたべたして咳が止まらなくなり呼吸困難になり下痢を起こすと言われています。現在も食糧生産にとっては雑草の除去は避けられない重労働です。これをどう克服するか、毎年のように化学薬品メーカーからは新たな除草剤が開発されて農民に提供されています。まだまだ現代農業に残されている大きな課題なのです。
2022.4
目次に戻る