大豆が歩んだ近代史 その23
今までに書いてきたように世界は第2次世界大戦後は深刻な食糧不足に陥っていました。それは戦勝国、敗戦国の区別なしにどこの国民も食糧難で苦しんでいたのです。しかし、世界で唯一つ、アメリカだけが農産物を潤沢に生産できていたのです。それは、アメリカは国土が戦争によって踏みにじられていなかったことと、戦争中に連合国に向かって食糧支援をするために、国内の農家に対して食糧の増産を要請し、農家はそれに応えてきた経緯があるからです。それは大豆だけでなく、小麦、トウモロコシなどで連合国側を支えてきた土台があったのです。 そしてその土台に立ってアメリカの農家は戦後の世界の食糧不足を支えてきたことは既に書いた通りです。
日本の戦後の食糧難については皆さんもある程度の想像は出来ると思いますが、実態はどのような状況だったのか、具体的な姿はなかなか浮かんできません。そこで今回はわが国の第2次世界大戦の陰で国民の食糧事情はどのような姿だったのかを資料から描いてみることにしました。
日本が第2次世界大戦に突入したのが昭和16年(1941)12月の真珠湾攻撃からですが、その流れへの導入口となる満州事変(1934)あたりからのわが国の食糧事情を眺めてみたいと思います。
戦前の食糧事情
わが国が第2次世界大戦に参入する10年前の、満州事変に始まる日中戦争へと動き出した昭和6年頃の我が国の食糧事情から見ることにします。そこには、すでに単発的には東北・北海道での冷害による米不足などによって農家の娘の身売りが増加するという状況が起こっていました。しかしこの食糧不足は戦争による影響からではなく、冷害などの天候不順による稲作の不作などに起因したもので、なにも東北地方だけの問題ではなく、東京でも多くの欠食児童がいたことが記録に残されており、わが国には慢性的にすでに食糧問題を抱えていたことがわかります。当時の日本は何年か毎に起こる豊作による食糧の充足はありましたが、基本的にはまだ稲作を中心に国内の食糧生産は慢性的な不足状態にあったと想像できます。しかしこの年の月収50円未満の市民のエンゲル係数が44.1%とされており、全体で見るとまだ平穏に食生活が過ごせていた時代でした。
そしてこの翌年の上海事変(昭和7年)の頃から世相は戦争の気配が濃厚となります。満州国建国宣言へと突き進む軍部を抑え、この流れを阻止しようとした犬養首相をはじめとする政財界の大物が殺害される事件が続き、そのことから軍部独走の様相を呈してきます。そして国内での食糧事情はさらに悪化し、農山漁村での欠食児童が200万人を超えたと記録されています。東京でも米よこせ運動が激化し、政府は米の裏作としての小麦の生産を奨励するようになります。晩秋になると米の収穫が終わった田圃で麦踏の光景が見られるようになるのも普通の田舎景色となってきます。
満州国建国に対して国連に対する中国の異議申し立てにより、満州国成立に対して反対を決議された日本は国際連盟を脱退しますが、このことにより日本は国際的孤立へと突き進むことになり、同じく国連を脱退したナチスドイツへ接近していくことになります。この昭和8年は国内の農業生産は順調な収穫が得られており、それまで米の売買を制限していた米穀法を廃止して自由な米の流通が出来るまでに回復しています。ところが翌年(昭和9年)には再び東北地方の冷害、西日本の旱魃などによって農作物は大凶作を迎えますが、これに加えて大型の室戸台風による風水害で関西地方などでは死者が3700人という大被害が起こり、東北6県での身売りの子女が5万8千人に上ったとされています。全国で米よこせ運動が激化し、政府は直ちに保有米穀を放出しますが国内の食糧事情は悲惨な状況を呈していました。この時の東北地方の惨状がその後の2.26事件の伏線になったとされています。
この昭和11年の国民・男子平均寿命が46.92歳であり、まだ「人生50年」には届かなかったのです。
そして昭和11年には2.26事件が発生します。この事件は天皇の強い意志で鎮圧されますが、この事件をきっかけに軍部の圧力がさらに強まります。この事件は東北地方から来ていた陸軍青年将校たちが郷里の食糧難を救いたいとの思いから発生したとも言われています。そしてその流れの中で東北地方を中心とする貧困農家の救済対策として満州農業移民策が打ち出され多くの農民家族が満州へと渡っていくことになります。さらにその他にも満蒙開拓青少年義勇軍として12,13歳の少年8万6千人が満州へ入植したとされています。 まさに国内の食糧不足に国民全体が苦しんでいた時代だったと考えられます。
そして翌年には勢いに乗った満州にいる関東軍は盧溝橋事件を起こし、政府の反対を押し切って日中戦争へと突き進んでいくことになります。当然のこととしてその後の国の予算の大部分は軍事費に振り向けられ、国民の不満に対しては「国民精神総動員」令を発して我慢を強いることになります。ここから国民の飢餓が始まり、日中戦争の長期化で市民生活が疲弊し、多くの男子が徴兵され(総計129万人、中国本土へ90万人以上)て国内の食糧生産は大きく崩れていくことになります。ここに昭和13年からの第2次世界大戦が始まる昭和17年までの国内状況をまとめてみました。
年号 |
政治・社会状況 |
食糧関連状況 |
昭和13年(1938) |
「日中戦争」泥沼化 国家総動員法を公布(4) 中等学校以上男女に勤労奉仕を課す(6)。 東亜新秩序建設声明(11)
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米の消費を減らすために白米食廃止運動を全国的に展開。 米の消費量一人年間140.2kg (平成30年では53.5kg/人・日に) 稲作面積 319万ha (平成27年では140万ha) |
昭和14年(1939) |
ノモンハン事変起る(5)関東軍が独断で越境攻撃、大敗、停戦協定。 アメリカ、日米通商条約破棄を通告(7)。 国民徴用令(7) 戦時体制。 |
料理店の営業時間短縮、バーの酒不売、米の配給制度実施。 米の七分搗きを強制。 政府は、米、味噌、醤油、塩、マッチ、生鮮食料の価格統制策を決定。 |
昭和15年(1940) |
日本労働組合会議解散。 社会大衆党、政友会、民生党解散(7,8)。 大日本農民組合解散(8)。 日独伊三国同盟締結(9)。 大政翼賛会発会(10)。 |
砂糖の購入制限開始。 東京府では食堂・料理屋で米の使用禁止。菓子、青果物、食肉、鮮魚に公定価格を。牛乳・乳製品配給規則交付。 家庭用米に1〜5割麦混入配給実施。 米穀の町村別割当制実施。 育児用乳製品の切符制実施。 |
昭和16年(1941) |
日ソ中立条約締結(4) 日本の在外資産凍結される 国内の寺鐘など鉄製品を集める 東条内閣成立(10)。 米英に宣戦布告(真珠湾攻撃 (12) |
米穀配給通帳制・外食券制・家庭用油脂と木炭、香辛料の配給制実施。 米屋の自由営業廃止。 野菜も少なくなる。 砂糖の統制公布。麦類配給制公布。 食肉配給制公布。昆虫食の奨励。 家庭用ガス使用量制限。 各種食料品の闇売り増加。 |
昭和17年(1942) |
日本軍シンガポール占領。 食糧管理法公布し政府の管轄下に。 翼賛政治会結成し軍を支援 ミッドウェー海戦で戦局が変わる(6)。 |
食塩の使用量制限 (200g/人・月)。 ガス使用量割当制。 味噌・醤油・野菜の配給制。 妊婦・幼児にパンの配給制。 東京、家庭用蔬菜が登録販売。 食糧不足が明らかに「欲しがりません、勝つまでは」の標語浸透。 |
それでも昭和15年前半までは都会での生活は比較的楽だったようでしたが、この年の後半になると市民の配給米の7割に外米の麦入りとなり、米の遅配も始まって配給制度にも不自由さが現れてきます。農村に対してはコメの供出が強要され、市民の贅沢も禁止されるようになります。
この時代の流れを見ると、昭和6年の満州事変の発端は現地にいた関東軍の政府の方針を無視した暴挙としか言いようがないが、このことがその後の日中戦争へ、さらには太平洋戦争へとつながっていったことを見ると誤った一歩だったと言わざるを得ない事件でした。でも何故政府の方針と違ったこの行動が止められなかったのか、国内の新聞はこれら満州での関東軍の暴走をはやし立てることにより、新聞の発行部数を高め、国民も関東軍の躍進を好感を持って見ていたと言われています。現代の我々にも問われている課題でしょう。
ここまで見てきたように戦争の機運が高まると共に食糧不足が顕著になっていきます。国内で起こる冷害や風水害による飢饉はそれまでの時代でも起こっていたことですが、これ以降は農民が徴兵制度で戦地に送られ、国内の食糧の生産力が低下する中での農作物に対する被害はそれまで以上に国民生活に被害をもたらしたことと考えられます。そして海外からの食糧の輸入もだんだんと狭まってきます。
こうして昭和16年12月に日本はハワイ真珠湾攻撃をし、第2次世界大戦に突入していくことになります。つまり、一方では日中戦争を中国国内で戦ながら、もう一方ではアメリカなどの連合軍と太平洋戦争を戦うという、まさに両面戦争の危うい局面に立つことになるのです。
この時になって我が国に対して食糧を補給できる唯一のルートが、10年前に満州事変から満州国建国宣言へと動いた満州の地であり、そこで収穫された大豆でした。そのために満州国は日本への食糧供給基地としての役割が大きくなっていくことになります。国内の農家の次男三男の多くが満州国移民政策によって満州へと移住させられており、国内の農業労働者数は減って農業生産力に陰りが見えていましたが、これ以降も、戦争への徴兵も、工場労働者をなるべく国内に残して兵器の増産にかかったために、さらに農業従事者が戦地に駆り出されることになり、国内の食糧生産力が急速に低下していきます。
国内での食糧不足を補うために国内では各種の規制が強まってきます。特に戦時色が濃厚になった昭和15,16年になると、長引く日中戦争にいろいろな物資を戦地へ送らなければならず、国内の食糧はさらに窮屈となり、生活物資の多くが政府の統制下に置かれます。生活に必要な物資が市民の手に届かなくなり、生活物資の多くが政府の統制のもとに置かれていたので、市中に「闇商人」が横行するようになります。
年号 |
政治・社会状況 |
食糧関連状況 |
昭和18年(1943) |
日本軍ガダルカナル島撤退 アッツ島玉砕。 東京府が東京都に変更。 学童の縁故疎開促進。 第1回学徒出陣。
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リンゴ園の転作令。イモ大増産運動。 闇米麦買い入れ罰則規定策定。 自作農創設促進。家庭菜園の奨励。 米の代用食にジャガイモを配給。 ガス節約のために共同炊事奨励。 都市近郊の買い出し一斉取り締まり。 |
昭和19年(1944) |
本土決戦非常事態要綱。 学徒軍事教育強化策決定。 日本軍インパール撤退開始 サイパン島玉砕。 グアム島玉砕。 東条内閣総辞職。 神風特攻隊編成。 B29,東京を初空襲 |
不急作物の作付け禁止。 食糧増産に学童500万人の動員。 食糧増産に空き地利用。 東京に雑炊食堂開設、全国に広がる 高級料理店・バー・酒店閉鎖。 国民学校学童給食1食7勺。 国民酒場開設1人ビール1本か酒 1合。砂糖の配給停止。 この頃のカロリー摂取量1,400kcal |
昭和20年(1945) |
東京大空襲で焼け野原に 沖縄戦開始。 ドイツ無条件降伏(5)。 広島、長崎に原子爆弾投下 天皇「終戦の詔書」を放送。 日本、無条件降伏文書に調印(9)。治安維持法廃止。 政治犯釈放。労働組合法公布 |
主食の配給、1人1日2合1勺に。 東京の盛り場に露店闇市が続出。 食糧事情が悪化して配給の遅配が続出。露店の雑炊食堂増加。 餓死者、上野駅で1日平均6名。 政府、GHQに輸入食糧435万トンの放出を要請する。 今年の米の収穫量は、冷夏で587万トン(例年の6割、昭和期最悪)。供出実績は23%と低調。日比谷公園で「飢餓対策国民大会」が行われる。 漁獲量182万トン(昭和期最低) |
昭和16年12月に日本の太平洋戦争が始まってからの我が国の食糧体制は非常事態が続いていきます。国内で生産された食糧はまず、海外の戦地で戦っている兵士に優先的に送られており、その無理なつじつま合わせを内地にいる国民に課していたと見ることができます。しかも多くの農民や漁労民が工場労働者よりも優先的に戦地に送られていたので国内の食糧生産力は低下する一方でした。
更に国内から唯一の頼りにされていた食糧供給基地とみられていた満州からの穀物輸送船は、戦争の終盤になると日本海の制海権を握られた連合国の潜水艦によって片っ端から沈没させられており、終戦直前になると満州国の食糧のほとんどは日本国内には届いていなかったのです。終戦後に明らかになるのですが、満州の岸壁には日本向けの大豆などの穀物が山と積まれたままになっていたのです。
こうして昭和20年に日本軍は降伏し第2次世界大戦は終わることになりますが、しかし国民の苦境はこれで終わることなく、終戦後の国内の食糧事情はさらに厳しい状況が続くことになります。 終戦の年は冷夏となり、米の収量も昭和期最悪の凶作となり、例年の6割の収穫しか出来ませんでした。
この年の6月に行われている厚生省調査によると、1人1日平均の栄養摂取量1,200-1,400キロカロリー程度であったいう。日本人の所要栄養摂取量は平均2,000-2,500キロカロリーとされているから、当時の食生活がいかにひどかったが想像できる。
国内では、戦争で親を失った「戦災孤児」は約12万人と言われており、その内親戚宅などで暮らせない子供たちは上野駅や、その他の主要駅などで生活をしていたのです。そしてその子供たちに「狩り込み」と呼ばれる浮浪児連行が行われるようになります。さらに餓死、凍死、病死などで亡くなる孤児も多かったのです。戦災で焼失した家屋は全国で210万戸(総家屋の15%)と言われ、東京では50%以上が焼け野原になり、バラックなど仮説住居で冬を迎えることになります。
当然のこととして国内では国内の多くの製油工場は爆撃によって破壊されており稼働できない状態になっていた。農林省油脂課の調査によれば終戦時の原料処理能力は関東甲信越地方では25%が破壊されていましたが、東海北陸地域では7割が破壊されており、近畿地方でも55%の油脂工場が操業不能のじょうたいでした。その結果、終戦の翌年の21年の油脂生産量は戦前の3.7%という悲惨な状態でした。
昭和21年(1946) |
天皇「人間宣言」。 農林省、主食・生鮮食料の管理強化。 第1次農地改革実施。 新選挙法による初総選挙。 極東国際軍事裁判開始。 第1次吉田内閣成立。 労働組合の結成が続出。 食糧危機突破対策要領。 日本国憲法公布。 三井、三菱、安田の三財閥解体決定。
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東京で1人2個のコッペパンの配給。 都内の主食遅配に「食糧よこせ」運動始まる。世田谷区の「米よこせ区民大会」デモ隊が皇居へ。国民は雑草を食べて命をつなぐ。 東京の主食遅配平均が19日に。 司法当局闇市の粛正を通達。 米の配給基準を2合5勺に増加。 ガリオア資金による学校給食開始。 上野のアメヤ横丁活況を呈す。 GHQ、小麦粉900トン放出。 GHQ、輸入食糧大量放出。 大蔵省、エンゲル係数を70と、1人1日あたりカロリー摂取量1,380kcalと(戦前の50%)に。 |
昭和22年(1947) |
アメリカ食糧使節団来日。 閣議、主食の強権供出実施。食糧緊急対策決定。 六・三・三制学制実施。 東京地裁判事、配給食糧だけの生活で栄養失調になり死亡、社会問題に。 平均寿命が男50.06歳、女53.96歳。初めて人生50年を実現する。 |
物価引き下げ運動拡大。 主食の配給遅配全国平均20日、東京は28.8日。 パンの切符配給制実施。 生活費の75%が闇買い(警視庁)。 果物など132品目の公定価格廃止。 酒類自由販売になる。 |
昭和23年(1948) |
食糧・飼料・油脂の三配給公団発足。 新制高等学校発足。 GHQ、食糧安定声明・経済安定九原則を発表。 主食配給、1日2合7勺に増配。調味料類の増配。 |
サッカリン、ズルチンの配給制撤廃。 主婦による物価値下げ運動始まる。 マッチの自由販売始まる。 輸入砂糖の大量放出、菓子業界活況。 東京葛飾区の主婦5千人の「米よこせ大会」開催。食糧事情好転の兆し。 |
昭和24年(1949) |
野菜類の統制撤廃。 第1回米価審議会開催。 農林省、イモ類供出完了後の自由販売を認める。 |
料飲店営業再開。せり売り復活。 ビヤホール復活。 台湾バナナ8年ぶりに入荷。 飲食店の営業再開。 アメリカのオレンジジュース初輸入。 |
昭和25年(1950) |
朝鮮戦争勃発。 警察予備隊設立。
平均寿命 男58.0歳、女61.4歳。 急速に伸びる。 |
木炭の統制撤廃。イモ類の統制撤廃。 牛乳の自由販売。 油脂公団・食料品配給公団の解散。 米以外の主食の自由販売。 水産物の統制撤廃。 タバコ、綿製品の統制撤廃。 味噌、醤油の統制撤廃。 |
昭和26年(1951) |
民営米屋の登録制開始。 東京都常設露店の全面撤廃決定。 マッカーサー罷免、後任にリッジウエイ着任。 |
大豆・雑穀の統制撤廃。 食糧配給の民営復活。 学校給食、全国市制地域の小学校に拡大実施。 |
都市部の市民は「買出し列車」で農村に買い出しに行っていました。東京から近郊農家へ1日18万人が自分たちの着物などを持ってコメや野菜などと「物々交換」するために出掛けます。買出しに行くと言ってもお金もなかったので、結局は自分の持ち物との交換という、いわゆる自分の着物を剝いでいく「タケノコ生活」をしていたのです。
敗戦の翌年には国内の食糧不足に加えて、戦地からの復員、引揚げが始まり、国内人口の増加などによって1千万人の餓死者が出ると言われるほどの惨状でしたが、当初占領軍GHQは、これら食糧難は日本が招いた結果であるとして食糧援助には消極的でした。しかし、昭和21年5月19日の食糧メーデーで25万人が食糧をもとめて皇居に押し寄せた民衆の怒りを見て、GHQは食糧援助へと道をとることになります。無政府状態の中で民衆の不満が爆発して暴動になれば、それはGHQ司令長官マッカーサーの責任になるからです。こうしてアメリカからの食糧援助の流れが始まります。
昭和20年12月から外地の日本兵の復員が始まります。終戦の年には外地の日本兵は350万人、民間人310万人と言われており、民間人よりも軍人の復員が優先されることになりますが、多くの日本人は収容所に足止めされ、昭和21年の春まで帰国は許されなかったのです。そして越冬中の零下を越える極寒の中、栄養失調や病気で命を落とす者が続出して、約20万人が亡くなったと言われています。また、避難の途中でで「現地の中国人に子供を託す」とか「人身売買」などにより多くの残留孤児が生まれることになります。さらに、満州にいた将兵約70万人がシベリアに抑留され、過酷な強制労働によって悲劇が生まれていたことも知られています。
こうして日本の占領政策をするGHQは日本の食糧救済に力を注ぐようになります。彼らが昭和21年11月から翌年10月までに日本に放出した食糧は、小麦・トーモロコシなど主食や主食代替品が161万トン、缶詰め類約4万3千トンと言われています。そして昭和21年11月にはアメリカの宗教団体、慈善団体などからなるLALA物資(公認アジア救済連盟)によって学校給食用脱脂粉乳が出され、6年間で食糧や衣類なども含めて1万トン以上の物資が日本に供給されることになります。
ちなみに昭和23年の国内の大豆生産量は21万4千トンでしたが、これらのほとんどは味噌・醤油用などの食品用に消費されており、大豆油の原料に使われることは限られていたようですが、アメリカの援助物資(ガリオア)としてアメリカから大豆が届けられるようになり、翌24年から徐々に大豆油の生産が回復してくるようになります。
こうした中にあって政府による油脂類の統制規則などによって厳しく管理され、さらに雑穀や動物油脂の配給規則など限られた物資の取り扱いが細かく規制されていました。しかし、25年になると局面が一変します。この年の6月に朝鮮戦争が勃発し、連合軍による戦争特需が発生するようになります。この流れを受けて政府は8月には、それまでの大豆などの「輸入貿易管理令」を廃止して輸入自動承認制度に変え、大豆もその大正に含まれることになります。そして26年3月には全油糧の輸入自由化が認められて大豆搾油事業が元の姿に戻ることが出来たのです。
しかし、一気に国内需要の規模が大きくなり過ぎたために28年には外貨不足の状態となり、緊急施策として輸入抑制策が敷かれて大豆の輸入にも再び輸入割当制度が摂られるようになります。しかし、昭和30年にアメリカから大豆など10品目の自由化を強く迫られてます。
しかし国内での話し合いもまとまらず、結局は36年(1961)7月に大豆の輸入自由化が認められることになり、こうして製油業界の戦後が終わることになります。
一方国内では、この年から市民をハイパーインフレが襲うことになります。戦時中の臨時軍事費の増大や進駐軍経費の負担、復員軍人の手当、さらには戦後の市民の預金引き出しなどによって市中への紙幣の大量流通が起こり、白米1升(約1.5kg)の基準価格の53銭が140倍の70円の闇価格となるほどのインフレが起ったのです。これを抑えるために政府は預金の封鎖と新円への切り替えを発動しますがインフレは収まらず、結局は昭和25年からの朝鮮戦争特需でやっとその勢いは終息することが出来たのです。
朝鮮戦争が始まるとアメリカは直ちに国連軍を組織し、その司令部を東京に設置して隣国、朝鮮半島での戦いに臨みました。そして日本はこの戦争に必要な物資を後方支援する「補給基地」となり、朝鮮半島で必要とされる生活物資から軍需関連物資まで幅広い産業が活性化されることになります。これらによって日本はにわかに好景気へと転じます。金属関連産業の好景気に対して「金へん景気」と言われ、繊維関連産業の好景気には「糸へん景気」と称していました。また製造機械さえ動かせば儲かる世相を指して「ガチャ万景気」と称し、ガチャガチャと機械を動かしさえすれば儲かるという状況に変わりました。そしてこの好景気がその後の日本を経済大国に立ち上がらせる「高度経済成長」の基盤となっていくことになります。
昭和31年には「神武景気」と呼ばれる空前の活況が始まり、「戦後は終わった」という流行語が巷で言われるようになるのです。さらに神武景気から「岩戸景気」へとつながっていき、日本の経済発展へと展開していくことになります。
ここまで終戦後の食糧事情を見てきましたが、終戦直後は当然ながら逼迫した需給状態でしたが、次第にその状況も治まってきます。勿論その背景としてアメリカをはじめとする国際社会からの支援が大きな力となっています。こうして終戦後5年にして、それまでの物価統制が徐々に取り除かれ、自由な経済活動が復活してきた様子が見て取れます。そして昭和30年には米の収穫量1,200万トンを上回るという豊作となり、闇米の平均価格が配給米の値段を下回るという需給の潤沢さが生まれます。こうして戦後の食糧不足時代は終焉したのです。
以上、見てきたように昭和7年に始まる上海事変から昭和20年に終焉した第2次世界大戦までの14年間の国内での食糧供給に対する非常事態は、終戦後の10年かけて回復することが出来たことになりますが、この合わせて24年間はまさに地獄絵の時代だったことを忘れることが出来ません。そしてこの復興エネルギーはそのまま継続していき、翌昭和31年には「神武景気」と呼ばれる空前の活況が始まり、「戦後は終わった」という流行語が巷で言われ、日本の経済発展へと展開していくことになります。
そして38年には国産米の生産量が1,286万トンという史上最高を記録することになります。これらのことにより、この年には食糧農産物の総合自給率が90%を記録しますが、徐々に経済の中心は農業から工業製品に移り、その後は我が国の食糧自給率が低下の一途をたどることになり、現在は37%という食糧自給率になっているのです。
2022.4
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