大豆が歩んだ近代史 その22
ブラジル農業の主役に躍り出た大豆
太平洋戦争が終わり、満州国が消えてすでに75年が過ぎ、そして満鉄を設立して我が国が満州大豆に直接かかわったのが1世紀昔の話になりました。ここには満州に軍隊を送り込み、国際連盟から離脱してまでこだわった我が国の大豆の歴史がありました。しかしもう一つ満州大豆の影に隠れて皆の意識の中から消えかかっている大豆の歴史があるのです。それは満州大豆の陰で静かに繰り広げられていたブラジルへの移民と彼らが現地で行ったとされる大豆栽培です。コーヒー豆の国と思われていたブラジルが、今では世界最大の大豆生産国となっている。このブラジルの変化の歴史に日本も大きく関わっていたのです。
ブラジルは長かったポルトガル植民地時代から独立したのが19世紀に入ってからでした。そのポルトガル植民地時代には砂糖や綿花を、ポルトガルなどを通じてヨーロッパへ輸出して国の経済を賄っていましたが、1840年頃に南部リオデジャネイロでのコーヒー栽培に成功したことがきっかけとなりブラジルの農業は姿を大きく変えることになります。それまでブラジル北東部で行われていた砂糖きび栽培や綿花などが衰退していくことに伴って、ブラジルを支えていた農産物生産が徐々にコーヒー栽培へと切り替わっていくことになります。もちろん19世紀半ばのブラジルの経済を支えていた柱はこれらコーヒー栽培だけでなく、金や銅などの鉱物資源採掘なども重要な経済の柱でした。
こうしてコーヒーに国の経済の多くを依存していたブラジルは、そのモノカルチャー経済からの脱却が進められていきます。 ここにブラジル農産物の輸出状況の概要を見てみましょう。
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1965年 |
2013年 |
農産物輸出額 |
12.3億ドル |
839.5億ドル |
第1位 |
コーヒー豆57.2% |
大豆 27.2% |
第2位 |
綿花 7.8 |
砂糖 14.1 |
第3位 |
粗糖 4.6 |
鶏肉 8.3 |
第4位 |
その他 30.4 |
大豆粕8.1 |
第5位 |
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とうもろこし 7.5 |
第6位 |
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牛肉 6.4 |
第7位 |
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コーヒー豆 5.5 |
(FAOSTATより)
このようにブラジルのコーヒー豆の輸出額は1965年の7億ドルから2013年の46億ドルに大きく伸びていますが、1970年代後半から大豆の栽培地を求めて欧米企業がブラジルに大豆栽培を持ち込んできたことによって大きく変貌していきます。20世紀も後半になるとブラジルに欧米のアグリビジネス企業が大豆を持ち込んで来て大豆ビジネスに花を咲かせることになります。そこには日本のセラード開発に誘導された大豆栽培の環境整備によってブラジルに大豆栽培の基盤が出来上がり、そこにアメリカの大豆企業の進出、さらには港湾設備などのインフラ投資などが整うことになります。
そして1977年にはブラジルから世界に向けて最初の大豆輸出が始まり、そしてその規模は急速に拡大していくことになります。そして2013年の時点では、コーヒー豆の農産物輸出額への貢献度は7位にまで後退しており、大豆関連製品が約300億ドルと全体の輸出額の1/3を超えるところまでに大きく発展しているのです。ここではその舞台裏を見てみたいと思います。
2014年にサッカーのワールドカップがブラジルで開催されていた時にはブラジルの街角からさかんにテレビ中継されていました。そこに映し出された大勢の日系2世、3世のブラジル人の多さに驚かれた方も多かったのではないでしょうか。20世紀初めにはすでに日本からブラジルへ、新天地を求めて大勢の農民が移住していました。彼らはブラジルの大地を開墾し、苦しい作業をしながら農業で自らの生活の道を切り拓いていったのですが、当然のこととして彼らは日本から自分たちの食生活の基礎となる大豆を持ち込んでいたのです。こうしてブラジルでの大豆栽培は、1908年頃サンパウロに移民した日本人によってスタートをきっていたのですが、気候の違いで大豆の生育が悪く、順調には拡大していきませんでした。現在ブラジルに住む日系2世、3世は150万人以上と言われており、世界最大の日系社会がここに作られています。彼らはそれまでブラジルでは栽培されていなかった大豆を持ち込んでここで大豆の栽培を始めたのでした。満州への移民政策もブラジルへの政策も共に我が国の政策として推し進められたものだったのですが、その後の日本社会への影響の程度と地球の裏側という距離の隔たりによって、ブラジル移民の働きの様子は多くの日本人の意識の中からいつしか消えてしまっていたのです。彼らはブラジル南部で比較的気候が日本と似ている地域で大豆栽培を始めたのですが、彼らの努力にもかかわらずブラジルでの大豆は大きく発展することが出来なかったのです。
1950年頃になってブラジルの南端で小麦の裏作として大豆の栽培が始められましたが、ここはアルゼンチンにも近く気候も比較的涼しく、九州の南部程度の気候だったために大豆栽培が順調に定着していきました。そしてそこから徐々に栽培地域が北のほうに広がっていきました。そしてここにアメリカ企業が参入して大豆栽培を始めたのです。ブラジルはアメリカに比べて農地価格も易く、大豆栽培の事業化には適していたのです。世界の大豆市場は更なる大豆を求めており、未開のブラジルの地はまさに時代の要請に適合して板のです。そしてブラジルは今や世界最大の大豆国に成長しています。大豆の輸出量は世界で第1位であり、大豆の生産量もアメリカと肩を並べて世界のトップに君臨しています。この飛躍への裏にはどんなドラマがあったのでしょうか。
アメリカ大豆に強敵現れる
ここまで見てきたようにアメリカ大豆は動乱の20世紀にあって、世界に向かって大豆を供給する一大生産地となったのですが、20世紀後半になってブラジル、アルゼンチンと言う大豆競合国が登場してきて、アメリカ大豆の独断場が終了してしまうことになります。そのことについて触れておきます。
ここに示した2つのグラフは、アメリカ大豆の生産量と輸出量が世界に占める状態を表したものです。これに見るように終戦後も世界の大豆需要に支えられてアメリカ大豆は拡大を続け、1970年代のアメリカは世界の大豆生産の約80%を占めるところまで拡大していき、まさにアメリカ大豆の独断場が展開されるようになります。さらに大豆輸出でも1969から76年の8年間は世界の輸出量の95%以上を占めているという、まさに世界の大豆はアメリカが一手に担っていたと極言出来る状態が続くことになります。こうして世界の各国は大豆を輸入するためにはアメリカに頼らざるを得ないという状況に置かれていました。
この様な大豆のアメリカ一極集中の時によく聞いた言葉が「食糧戦略」でした。それはアメリカが持つこれら独占的食糧供給力を武器として世界に政治的圧力をかけていたことを意味しています。しかし振り返ってみても、2つの世界大戦においてもアメリカは食糧を同盟国に送りながら戦いを支えていくという、食糧戦略を採り続けていました。しかし、その頃はまだ満州という強力な競合国がありましたが、第2次世界大戦以降はアメリカだけという独断場の大豆供給体制になっており、食糧戦略の景色がすっかり変わってしまいました。そしてそのことによってもう一つの懸念が生まれてくることになります。それは、アメリカが何らかの都合によって大豆の輸出を止めた時の不安定さです。そしてそのことが起こったことによって、その後のアメリカ大豆の姿は少しずつ変わっていくことになります。
1972年から73年にかけて南米ペルー沖では、それまで捕れていたアンチョビー(カタクチイワシ)の不漁が続いたのです。このアンチョビーは南米の西海岸に沿っての深海から冷たい海流が上昇してくるのに乗って上がってくるのですが、そのためにはこの付近の海面上の風が東から西に向かって吹いていないとこの海流は発生してこないのです。そしてこの年になってその海流が起こらなかったことにより、アンチョビーは不漁になってしまったのです。このアンチョビーは家畜の飼料用として広く安定的に使われていたので、不漁によってアンチョビーが不足してくると、それに代わる飼料用原料として脱脂大豆に需要が集中し、大豆価格が高騰するようになってきます。世界に大豆を供給しているアメリカにとっては大豆価格が高騰してくれるのは大豆農家にとって有難いことですが、それらの飼料で育てた国内の畜産物の価格が高騰して国内消費者から不評を買うのも、時のニクソン政権にとって避けたいところでした。そこで国内の大豆価格を安定させるためにニクソン大統領は海外への大豆の輸出を一時停止するという措置をとったのです。
田中内閣のブラジル政策
この影響でアメリカ大豆に頼っていた日本ではアメリカからの輸入大豆の在庫が底をついてしまい、豆腐など国内の大豆製品の価格が高騰して、社会全体が騒然となりました。各町の豆腐屋の前には長い行列が出来たり、豆腐の値上につられて品不足を恐れた消費者の買い占めなどが発生していたのです。当時の田中角栄首相は、アメリカ1国に大豆を頼っている不安定さを強く認識し、今後の大豆の安定供給のためにはアメリカ以外の大豆供給国を育成すべきだとしてブラジルを目指したのでした。
ブラジルには今から110年ほど前の20世紀初頭に多くの日本人農民が移住しており、彼らによって大豆栽培も続けられており、そこには世界最大の日系社会が作られていたのです。田中首相を乗せたヘリコプターが荒れ果てたセラードと呼ばれるブラジルの荒地の上を飛んだのがこの地での大豆開発のスタートとなったのです。セラードはブラジル全土の24%を占める広大な面積であり、ポルトガル語で作物が育たない不毛の地を意味する「閉ざされた」という言葉で呼ばれているところです。この地を日本の協力で大豆畑に開発しようと言うものでした。ブラジル政府も直ちに「ブラジル農牧研究公社」を立ち上げ、大豆生産への取り組みを始めました。ここでの開発作業は、強い酸性である土壌に石灰を投入して中和することから始められました。この事業は2001年までの21年間に亘って、34万5千ヘクタールを造成し、灌漑を整備し、入植農家に対する技術、金融両面から支援をしていくという多面にわたる取り組みでした。このセラードでの大豆栽培については日本の国際協力事業団(JICA)を核にして、大量の資金と長期にわたる技術供与を行いながら不毛のセラードを大豆畑に変えていったのでした。アメリカの農業研究者も加わりましたが、ブラジルにおけるセラード開発に日本の果たした功績は非常に大きいものでした。今ではかつてセラードだった土地からの大豆生産量がブラジル大豆全体の6割を占めるに至っていると言われています。こうしてそれまで大豆生産に力を発揮していなかったブラジルが初めて世界の大豆市場に登場してきたのが1977年でした。
輸出規制とアメリカ大豆のつまづき
そうしてブラジルが徐々に大豆生産に力をつけて来ていた1980年に起こったのがアメリカの次の輸出規制でした。アメリカの大豆生産は1980年頃にはブラジルが伸びてきたとはいえ、まだ世界の大豆生産量の65%を占めていました。世界はまだまだアメリカの大豆に頼らなければならない状態であり、アメリカ大豆は世界に向かって強力な食糧戦略としての力を発揮していたのです。このような時に起こったのが、ソ連軍によるアフガニスタン侵攻でした。
1979年末に旧ソビエト軍のアフガニスタン侵攻が始まりました。ソビエトはイスラム教国のアフガニスタンを攻め、占領しようとしたのです。アメリカはこのソ連による侵攻を阻止する手段として食糧戦略を前面に出して、穀物の輸出禁止という対抗措置をとったのです。それまでのソ連は計画経済に基づいて毎年、アメリカと協議をしながら1年間の大豆などの購入量を決めて計画的に輸入していたのです。アメリカという大豆の供給先を失ったソ連は直ちに南米のブラジル、アルゼンチンに向かい、大量の資金を投入して、輸出港の整備など自国への大豆調達の道を開いたのでした。このことによってそれまで国際市場に登場していなかったブラジルが大豆の輸出に意欲を燃やすようになります。
ソ連のアフガニスタン侵攻とタリバン
ソ連軍のアフガニスタン侵攻について概略を書きましたが、この問題は現代にも引き継がれて今も世界を揺るがしている問題につながっているのです。
1979年12月24日にソ連軍がアフガニスタンに攻め込んできたのがそのきっかけになります。ソ連はイスラム教の信仰が厚いアフガニスタンを共産国に取り組むべく攻め込み、9年間にわたって軍事圧力をかけていたのです。この時代はまさに東西冷戦時代であり、サウジアラビアはアメリカとの絆を強めていたので、サウジアラビアからは同じイスラム教国を救おうと多くの義勇兵がアフガニスタンに向かったのです。アメリカは彼らに資金と武器を与え、サウジアラビアにももっと義勇軍を募るよう求めていたのです。
このソ連によるアフガニスタンへの侵攻はまさにイスラム教国に対する侵略ととらえられ、イスラム教を厳格に守るサウジアラビアにとってそれはアラーを否定する無神論者の侵攻と見えたのです。こうしてサウジアラビアからは同じイスラム教徒を守ろうと多くの義勇兵が現地に向かいます。その中にオサマ・ビンラディンも含まれていました。アメリカの敵ソ連は同時にイスラムの敵であり、サウジアラビアの敵でもあったのです。こうしてサウジアラビアとアメリカは義勇軍に対して資金と武器を与えていたのでした。その結果イスラム勢力による抵抗でソ連は9年間に及ぶアフガニスタン侵略から軍を撤退させますが、その後もアフガニスタンは内乱状態となり国内は不安定な状態が続きます。
このソ連軍のアフガニスタン侵攻をきっかけにサウジアラビアはアメリカとの関係を強めていきます。そしてアメリカ軍がサウジアラビアに駐留するようになりますが、これが一部のイスラム教徒にとって強い反発を招きます。義勇兵としてアフガニスタンに遠征していた者たちにとっては、アフガニスタンに入ってきた共産主義者を排除したら、こんどは自分の国サウジアラビアにアメリカが入り込んできたとしてアメリカに対して強い敵意をもつようになります。
アフガニスタンに侵攻してきた旧ソビエト軍に対する抵抗は、その後先鋭化していき、異なる複数の過激集団が生れてきます。この混乱と不安定な状態が続くことにより、ここにイスラム原理主義勢力タリバンが抬頭し、そこにウサマ・ビンラディンが加わります。ウサマ・ビンラディンはサウジアラビア出身のイスラム教徒でしたが、国際テロ組織「アルカイダ」を組織してそのリーダーとなり、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロを起こしたことは皆さんの記憶に深く刻まれている通りです。アルカイダはアメリカの旅客機4機をハイジャックし、米国中枢部を攻撃します。ニューヨークにある世界貿易センタービル2棟にはハイジャックされた2機が直撃して崩壊し、もう1機はワシントン近郊の国防総省(ペンタゴン)に激突します。そしてもう1機は乗客乗員がハイジャックに抵抗し目的地に向かわせずに郊外に墜落させてしまいます。これら一連の同時テロによる犠牲者は日本人24人を含む2977人に達しました。
そして、これをきっかけにアメリカ軍はアルカイダの拠点であるアフガニスタンへの空爆が始まります。そしてアルカイダの首謀者ウサマ・ビンラディンは2011年5月2日にアメリカ軍によって殺害されますが、その後もアフガニスタンがテロ組織の温床にならないようにアメリカ軍はアフガニスタンに留まって政府軍を支えていました。20年に及ぶアメリカ軍の駐留に対してアメリカ国内でも嫌戦機運が高まり、ついにトランプ大統領がアメリカ軍のアフガン撤退を決断します。そしてバイデン大統領が2021年8月末にアメリカ軍が大混乱の中で撤収すると、イスラム原理主義タリバンがそれを待っていたかのように突如政権を掌握してアフガニスタンはタリバン政権に戻ってしまったのです。アフガニスタンにいた日本政府関係者や現地の関係者が取り残されて混乱状態が続いていたことはご存知の通りです。
アメリカはこのようにソ連のアフガン侵攻に対して強く対抗したが、直接アメリカ軍を出動させずに、ソ連に対する穀物の輸出停止という対抗手段をとったのでした。このアメリカの食糧戦略に対してソ連はアメリカに代わる大豆の輸出国として南米のブラジルとアルゼンチンなどを目指して交渉を進め、その結果ソ連は1980年度のアメリカの穀物禁輸措置以来、輸入先をアルゼンチン、ブラジル、オーストラリア、カナダ、フランスなどの国に分散しており、再びアメリカを中心とした輸入体制に戻すことはなくなったのです。ソ連は大豆もその後は自国生産に力を入れるようになり、2021年度の大豆生産量も480万トンに達しており、自国の大豆消費量520万トンの92%は自国生産でまかなうことが出来るほどです。
ソ連の働きかけにより、アルゼンチンの輸出港であるバイアブランカ港の施設の拡張、近代化工事など巨額の費用を供与することによって南米の大豆の国際市場への道が切り開かれていき、ブラジルも国際的に注目を集めている大豆輸出に意欲を燃やしてその勢いを増していき、ついにアメリカ大豆を脅かす大豆生産国に成長していったのです。そしてアメリカにとってソ連市場は少し遠のいた存在になっていきます。
このように1979年のアメリカの穀物の輸出規制はアメリカ大豆が南米という競争相手を生み出したばかりでなく、それがニューヨークの世界貿易センタービルへの旅客機の突入による大勢の犠牲者を起こし、さらに20年に及ぶアフガン駐留による多くのアメリカ兵の犠牲者を生むという事態へとつながっているのです。こうしてアメリカの輸出規制に始まった40年間の歴史は多くの傷跡を残すことになりました。
そしてアメリカの独壇場であった大豆市場は南米という強力なライバルの出現を招くことになり、その後はブラジルもアマゾンなどの森林を伐採しながら生産地を広げ、アルゼンチンも大豆市場の魅力に強い関心を払い、現在では南米両国はアメリカを越える大豆大国に成長しているのです。
アメリカ大豆の後退
この二つのアメリカの輸出規制によって、1970年代に世界の大豆生産の8割を占めていたアメリカ大豆生産比率は、その後ブラジルやアルゼンチンなど南米の大豆の増産体制と、さらにはこの流れは周辺のウルグァイ、パラグァイ、ボリビアへと、そしてさらにカナダやロシアなど、大豆の経済性に注目した各国の大豆に対する取り組みの強化によって生産量を増やしていき、多くの競合国を生み出す結果となったのです。
アメリカ大豆の後退のきっかけはこれら二つの穀物輸出規制にあったことには間違いないが、それだけではなかった背景もあるのです。そこについて少し眺めてみたいと思います。
その1つはアメリカ農家自体の疲弊による競争力低下です。1985年のアメリカの農家人口は536万人となっており、全人口の2.2%でしたが、中小兼業農家が大部分を占めているのが実態であり、平均的農家収入の6割は農業外収入でその最大は政府からの補助金によるものでした。しかも多くの農家が多額の負債を抱えている状態でした。例えば専業農家で年間販売額が4万ドルを越えるのは63.5万戸ありますが、その内で負債額が全資産の40%を越える農家が31%を占めています。更に負債率が100%を越える農家が専業農家の4.8%を占めており、しかもそれらがコーンベルト地帯から五大湖周辺というアメリカの穀倉地帯で最も多く起きていることが問題の深刻さを表しています。
このように農家が多額の負債を抱えるようになった最も直接的な原因は、1980年、81年の、最もアメリカ農業が体外的にも隆盛で、ソ連を初めとした各国に対して継続的に輸出していた時に、多くの農家がさらなる農業基盤の強化をはかるために、農家は農業の機械化、農地の拡大など大規模化を進めていったのです。当時は世間全般にインフレ傾向にあり、多額の負債を背負っても経営を拡大するメリットが大きかったと見ていたのでした。しかし、見てきたようにカーター大統領の対ソ連穀物禁輸により、多量の穀物在庫を抱えたうえ、その後の輸出不振、農地価格の下落によってこれらの負債が大きな重荷として残ってしまったのです。当時の農地価格の変化を見ると、1982年の全米平均の農地価格は1エーカー当たり823ドルしたのが、86年には596ドルにまで下落しています。しかもその下落率はアメリカの穀倉地帯であるコーンベルト地帯で49-59%と半額以下にまで下落しているのです。さらにこれら不況を反映して国内のインフレ率も下降線に入るのもこの時期からでした。このような状況に耐えられない農家の多くは自分の農地を売りに出すことになるのです。筆者は1986年にアメリカの多くの農家を廻ってその状況をつぶさに見ることが出来ました。どの畑にも白い「売り出し中」のプレートが立てられており、余りの多さに自分の目を疑ったほどです。
もう一つ、アメリカの農産物輸出にのしかかってきたのが、当時起こっていた中南米の累積債務国の問題でした。1982年にメキシコが債務の支払いが不可能になったのをきっかけにして中南米債務危機問題はアメリカ金融界を根底から揺さぶりますが、同時にアメリカ農業にも直接的にも影響を与えることになります。そしてこの問題を解決するためにアメリカ政府は1983年に4つの戦略を打ち出します。その第一項目として挙げたのは「債務国は輸出を増やし、輸入を減らすことによって金利支払いのための外貨を獲得すること」というものでした。そしてこの合意に基づいて債務国は輸入額を81年度の6割に減らす一方、輸出をアルゼンチンでは47%増に、ブラジルは56%増に、メキシコは62%増に拡大していったのです。このことはアメリカの農業分野に深刻な影響を与えることになります。それは中南米への農産物の輸出の減少でした。それまではこれらの国へのアメリカからの農産物輸出が15%を占めていたからです。そしてさらにこれらの債務国から積極的に輸出された農産物の輸出増加がアメリカ農産物に足かせとなることになります。これによる農産物の輸出減少は対ソ輸出減少の5倍の打撃をアメリカに与えることになります。
このように1980年頃のアメリカ農家の拡大投資で腰が伸び切っていたところへタイミンの良いカウンターパンチとなり、農家の破綻を引き起こしていくことになります。
アメリカ大豆の輸出への打撃は、81/82年度に比べて84/85年度は36%の輸出量減少になっているのに対して、ブラジルは4倍、アルゼンチンは2倍と大幅に輸出を伸ばしています。このようにこの時期の中南米債務危機は一方で金融問題として、他方では農業問題としてアメリカに重くのしかかっています。そしてこのことによってアメリカ大豆はしばらくの間、国際的競争力が衰え停滞の時期に入ることになります。こうして世界の大豆地図はアメリカ単独の時代から南北アメリカへと移り変わることになります。
2018年現在の日本の輸入大豆324万トンのうちでブラジルから輸入しているのは56万トンと全体の17%に過ぎませんが、ブラジルが世界に向けての輸出量は7,500万トンとアメリカの輸出量4,760万トンを大きくしのぐほどになっています。また、大豆の生産量も2020年度ではアメリカの11,255万トンを超える13,300万トンとまさに世界の大豆大国になるところまでに発展しているのです。ブラジル大豆が日本の消費者に与える直接の影響は限られているかも知れませんが、ブラジルからの世界に向けた大豆輸出によって世界全体の大豆の需給バランスは安定しており、その中で我が国もアメリカを中心として安定的に大豆が輸入出来ていることを考えれば、日本が行ったセラード開発、さらにはブラジルに渡った移民たちの努力は、その成果を充分に発揮していると言えるでしょう。現在のこのような姿は100年前にブラジルに渡って初めて大豆を育てた日本からの移民の人たちにとっては夢のような話ではないでしょうか。
これらの結果として、直近の2019年にはアメリカの世界の中での大豆生産比率は、1970年代に80%あったものが29%にまで低下しているのです。またアメリカの大豆の輸出比率もかつては95%以上を占めていたのが今では36.4%へと低下しています。それは一つにはアメリカ国内で大豆関連産業が発達したことにより国内での大豆の搾油比率が高まり、大豆のままで輸出する割合が低下したことによるものとも見られています。それはブラジルと較べるとその様子がよく示されています。2019年のアメリカとブラジルの国内での大豆生産量に対する輸出割合はアメリカの47%に比べてブラジルは73%となっています。このことはアメリカでは多くの大豆が国内処理をされていますが、ブラジルでは収穫された多くの大豆がそのまま海外に輸出されていることになります。これらのことも加味されてアメリカの大豆の輸出比率が低下してきていると言えるでしょう。
ブラジルでの大豆栽培が軌道に乗り、ブラジルの経済を支えるようになったのを見て、隣国のアルゼンチンやパラグアイ、ウルグアイが一斉に大豆栽培に参入してきます。今や南米の大豆生産量はアメリカをはるかにしのぐところまで成長していることは皆さんもご存知の通りです。
ただブラジルの大豆生産には世界が懸念している問題があります。それはアマゾンの熱帯雨林の森林伐採です。1980年代以降は、ブラジルは世界に向けた大豆の輸出を積極的に展開するようになります。そのためにブラジルは大豆栽培の面積を増やし、アマゾンの熱帯雨林の森林伐採にまで手を広げてしまったのです。アメリカNASAのデーターによると2000年以降の森林伐採は1日当たり2,700ヘクタールに及んでいるとされています。それらは大豆畑に姿を変えただけでなく、畜産業を支える牧場としても活用されているのです。ブラジルは今や世界第1位の大豆生産国だけでなく世界第2位の肉の生産国になっています。そしてこれらの森林伐採のしわ寄せはブラジル都市部での干ばつとして現れており、ベロオリゾンデ、リオデジャネイロ、サンパウロでも雨が減っていると言われ、広く地球環境に大きいな影響を与えていると言われています。
2022.4
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