大豆が歩んだ近代史 その21

「アメリカ大豆が世界の食糧危機へ貢献」

 

戦後はアメリカ大豆に依存

2次世界大戦は日本の敗戦(1945)で終わったことによって、わが国はそれまで頼りにしていた満州という大豆の供給源を完全に失ってしまうことになります。しかし日本は第2次世界大戦が始まる前には既に戦時体制での食糧難が始まっていたのです。19377月の盧溝橋事件に端を発した日中戦争が長引くと米国をはじめとした欧米諸国による経済制裁が始まります。それでも1940年の前半はまだ都会の市民は豊かな食事を楽しんでいましたが、その年の後半になると食糧の配給などが始まりますが、米の配給の遅配があり、食糧難が始まります。さらに市民の贅沢が禁止されるようになります。日中戦争が長引き、中国本土に多くの兵士を送り込んでいるために、いろいろな物資を戦地に送らなければならず、国内では食糧の調達が窮屈になっていきます。農家の働き手が戦地へ行っていなくなると1941年には米だけでなく野菜も少なくなり、食糧難が深刻になると国民には昆虫食が奨励されるようになってきます。

 

終戦の年の1945年は冷夏となり、米の収量も昭和期最悪の凶作となり、例年の6割の収穫しか出来ませんでした。そのうえ戦争で親を失った「戦争孤児」は約12万人とも言われており、上野駅など主要な駅で生活をしている子供たちが多くいました。戦災で焼失した家屋は全国で210万戸(総家屋の15%)と言われており、東京は50%以上が焼け野原となり、バラックなどで冬を迎えるという状態でした。翌年の1946年になると国内には猛烈なインフレが進みます。それは戦時中の臨時軍事費支出の影響や、戦後の市民の預金引き出しの増加、進駐軍経費や復員軍人手当などにより、紙幣の大量に市中に流通したことなどが起因していたのです。そのために白米1升(約1.5kg)の価格は基準価格53銭に対して140倍のヤミ価格が横行することになります。ヤミの買い出しが出来ない人たちは雑草を食べて命をつないでいた状態でした。終戦当時には、日本兵は満州に60万人、朝鮮半島に33万人、中国には105万人ほどいたと言われています。政府もこれらインフレを抑えるために預金封鎖や新円への切り替えなどを行いますがインフレは一向に収まらず、結局は1950年の朝鮮戦争による戦争特需が起きるまでインフレは終息しませんでした。

 

そのため国民の食糧は危機的状態に陥り、この年の国民1人当たり摂取カロリーは戦前の半分となってしまい、大規模な食糧メーデー(飯米獲得人民大会)が各地でおこります。急遽国内の農家は稲作と並行して大豆の生産にも力を注ぎ、その努力の結果、終戦後5年目の1950年には45万トン、1955年には51万トンと大豆の生産量は回復することが出来たのですが、それでも国内における大豆の需要には追いつかず、アメリカからの大豆輸入に頼っていくことになります。

ここに戦中戦後の日本の輸入大豆の推移を示しました。

 

  日本の大豆輸入先 推移  (トン)

輸入合計

満州

中國

朝鮮

台湾

アメリカ

1937

750,124

600,396

35

146,845

775

0

1938

810,864

669,445

0

140,353

513

0

1939

776,862

675,824

0

100,704

254

0

1940

498,705

401,408

0

96,664

192

0

1941

504,033

462,451

0

41,671

11

0

1942

634,496

596,223

20

37,270

0

0

1943

991,677

679,500

0

312,177

0

0

1944

927,358

927,358

0

0

0

0

1945

800,000

800,000

0

0

0

0

1946

3,441

0

0

0

0

3,441

1947

15,306

0

4,790

0

0

10,396

1948

49,559

0

13,905

0

0

24,127

1949

190,186

0

30,617

0

0

158,865

1950

197,429

0

102,116

0

0

94,994

1951

373,984

0

5,950

0

0

293,012

  資料:食糧庁「油糧統計年報」、アメリカ大豆輸出協会

 

ここに見られるように、我が国の大豆の輸入は1945年の終戦の年を境にして満州大豆から急転してアメリカ大豆に切り替わっていったのです。そして終戦の年にはアメリカ大豆を3,441トン輸入しています。ただし、これは正常な経済活動の中で行われた大豆輸入とは少し様子が違っており、極度な食糧難の中での暴動を恐れてのアメリカによる緊急避難的な大豆輸入だったとみられています。その後アメリカ大豆の輸入は、アメリカ国内での生産拡大により、その輸入量は1953年からは増加の道をたどることになります。中国からの大豆輸入も復活しますが、それらは食品用途の一部を賄っていましたが、大豆搾油用原料についてはアメリカ大豆に頼っていたのが実態でした。

 

アメリカは第2次世界大戦が始まる前までは、1930年代から続いていた不況の中にあったのですが、戦争が始まるや食糧の増産だけでなく、各種兵器などの大量生産が始まります。そして軍事支出の急増により、国内を覆っていた不況は吹っ飛んでしまい、戦時経済に湧いたのです。その中で、農民に対しては大豆の増産を要請して連合国に対する大豆、大豆油の調達に貢献していきました。しかしこれも終戦によって国内に過剰の大豆在庫を抱えることになり、それが国内の大豆価格を押し下げ、農民の生活を不安定にさせてしまうことになります。
 一方アメリカ経済を支えていた戦時中の生産体制はそのまま戦後の世界の復興を支えるエネルギーとなり、アメリカを世界に君臨する経済大国に押し上げていくことになります。その中で、アメリカは1954年には余剰農産物処理法を制定し、国内で余剰になった農産物を海外の支援にまわす体制を整えますが、その最初の恩恵を得るのは日本でした。当時は伊勢湾台風によって農家の被害も大きく、国内では死者が5千人を超える大被害をこうむり国民は完全に疲弊した状態でしたがアメリカからの支援によってどうにか立ち直ることが可能となったのです。

1960年にはわが国のアメリカからの大豆輸入量は100万トンを突破し、1965年には200万トン突破し、1969年に300万トン突破と輸入拡大のテンポを速めていったのです。当然のことながら国内での大豆生産は低調になり、大豆はアメリカに完全に依存する形となっていったのです。大豆を国内で自給できない状況を目の当たりにして日本政府は徐々に輸入体制に切り替えていきます。1961年から大豆の輸入関税を引き下げていき、1972年には関税の撤廃へと一気に進むのです。こうして1977年の大豆輸入量は400万トンを超え、1996年にはついに輸入大豆は500万トンを突破していったのです。現在も大豆に対する輸入関税はゼロで、海外から低価格で持ち込めるようにしてある反面、コメの輸入関税は依然として高い税率(従価税換算で778%)を維持しており、国内のコメ農家を守っているのです。

 

現在は日本の輸入大豆はどこからきているのか、農水省の統計資料から見ると、2018年の大豆輸入総量323.6万トンの72%にあたる232万トンの大豆はアメリカから来ており、次に多いのがブラジルの56万トン、続いてカナダの33万トンとなっています。今や中国は国内での大豆生産に力を入れ、年間1600万トンの大豆を生産していますが、それでも世界最大の大豆不足国であり、年間9,000万トンの大豆を輸入しているのが実態です(2018年)。80年前には満州を拠点として大豆の輸出大国として世界に君臨していた中国は今や世界最大の大豆輸入国になっており時代変遷の激しさを感じさせられます。我が国は戦後の1954年には約43haあった大豆の栽培面積も2018年には14.7haへと3分の1に減少しているのです。

 

アメリカからの食糧援助

そして、そんな中で既に述べたように終戦の翌年にはアメリカから大豆やトーモロコシなどが緊急支援物資として届けられるのです。アメリカでは、第2次世界大戦が終結した時に、大豆生産者の間では戦時中の連合国への食糧支援による大豆需要が終戦後も続くかどうかについて大きな議論となり、このまま大豆を生産し続けていると生産過剰による価格の下落を招くのではないかという悲観論と、ヨーロッパや日本は基本的に食料不足になり、アメリカ大豆にとって今後も大きな市場になるのではないかという楽観論とが交錯していて、農民の間で大きく揺れていました。しかし実際に戦争が終わってみると世界は極度の食糧難時代に突入していき、大豆の需要は欧米ではその後一時的に低迷し、在庫の積み増しも起こりましたが、世界全体で見ると大きな停滞になることはありませんでした。

 

大豆を食生活の基盤にしている日本に目を向けると、終戦の直前までは我が国の大豆の供給は満州からの輸入に頼っていたので、終戦による満州の喪失は日本の大豆加工業者にとって大きな打撃でした。敗戦の前年度の我が国の大豆の供給は満州からの92万トンを越える輸入に頼り切っており、国内の農家はコメ作りにもっぱら専念していた状態でした。農家は翌年から急ぎ大豆栽培に取り掛かりますが、到底不足分を賄いきることが出来ず、終戦直後はアメリカからの緊急援助を受けなければ切り抜けられない状態だったのです。アメリカ大豆協会(2013年からアメリカ大豆輸出協会と改称)は終戦の翌年の1946年には3,441トンの大豆を日本に向けて緊急輸出しています。その詳細については知ることが出来ませんが、恐らく満州大豆に大きく依存していた日本が満州の喪失と同時に大豆が枯渇してしまっている窮状を救済するための輸出だったのではないかと思われます。我が国では大豆はそのまま毎日の食卓に直結している重要な食材であり、その供給が途絶えたまま放置すると大きな社会混乱へとつながっていくことを危惧しての対応だったと思われます。先に掲げた表に見る通りその後もアメリカから日本に向けた大豆の輸出は続き、1955年には57万トンと急拡大に輸出量に増加しています。その後も日本の大豆輸入のペースは拡大を続け、1965年には217万トンにまで増えていきます。このような日本へのアメリカ大豆の急増は、戦争中に大豆を輸出していたイギリスやソ連での大豆需要が戦後になって急速に減少していたことも影響していると見られています。

 

アメリカ大豆協会は195510月にはアジア市場の調査を行い、「日本は極めて有望な潜在市場」であるとの報告書をまとめ、 翌564月、同協会初めての海外事務所が東京に開設されました。そして1958年には日本はアメリカ産大豆の世界最大の輸入国になりました。

 わが国は大豆以外にも小麦やトーモロコシなどの食糧支援もアメリカに求めています。そしてアメリカから我が国に支援された小麦はパン食を中心とする洋食化への推進力に、トーモロコシや大豆粕は畜産飼料原料として肉食、乳製品の普及の力となって、それまでの米を中心とする和食の習慣を徐々に変えていくことになるのです。さらに戦勝国となったアメリカは映画などを通じて豊かなアメリカの食生活などの情報を発信し続け、その姿に憧れる貧しかった日本人を洋食や西洋的な生活習慣へと誘導していったのは歴史の知るところです。しかしこれらは我が国に限ったことではなく広く世界に向かって発信していったアメリカ風食習慣は、各国で肉食を中心とした洋食へと食文化を広げていき、さらにはそれらの流れは畜産飼料としての大豆ミールの消費拡大へとつながっていくことになるのです。

 

各国の戦争による農場の破壊も時間と共に徐々に回復していき、自国の食糧の生産力も向上していくようになります。そして各国の農業が回復するにつれて、アメリカでは第2次世界大戦による戦争特需も一段落し、その後に現れた穀物の過剰在庫の処理に苦慮するようになります。アメリカ市民も配給制度が終わってみると、それまで強要されていた大豆食に飽き飽きしてしまっていました。マリリン・モンローが演じた1955年の映画「七年目の浮気」では、まじめな主人公が行きつけのレストランで注文したのが戦争中に奨励されていた「7番の特別食」で、その中身は大豆ハンバーグと大豆フライ、大豆シャーベットとティでしたが、注文を受けたウエイトレスは野暮な男の注文と鼻であしらっているのが印象的な場面でした。このような風潮はヨーロッパでも同じであり、戦時中の食糧難の時代が遠のくと欧米の市民は大豆食を避けて元の肉食の食習慣に戻ってしまったのです。

 

アメリカの余剰農産物

アメリカ政府は小麦やトーモロコシなど在庫量の多い穀物の減反政策を進めましたが、これに対して農家は減反した畑に大豆を蒔いて収入減に対応しようとしたため、かえって大豆の在庫が増えていくことになります。政府はアメリカ国民が大豆たんぱく質を食べるようにキャンペーンに力を入れながら大豆の消費拡大へと仕向けて行ったのですが、大豆食品は今や安っぽい余り物としか見られなくなっており、その結果としてアメリカの農家には、生産された大豆が大量に在庫として滞留するようになったのです。政府はその解消のために1954年に「余剰農産物処理法」を制定し、アメリカ国内で処理しきれなくなった穀物の過剰在庫は戦争の傷跡の消えないヨーロッパやアジアの飢餓解消として払い下げていく道を開いたのです。この制度は、余剰農産物の輸出を受け入れ国の通貨で決済し、その売上代金を相手国に積み立てておいて、それで必要物資を買い付けたりその国への経済援助にあてたり、また食糧不足や飢餓に悩む国への贈与にも使うという内容のもので、いわば輸出拡大と復興支援を兼ねた余剰農産物処理方法といえるものでした。アメリカ政府はこの協定を世界90余か国と結び、日本も1955年、56年の2度にわたってこの協定を結んでいます。この時代にはアメリカは繁栄を極めており、アメリカ人は世界の自動車の3/4以上を所有して「栄光の時代」を謳歌していたのです。

 

戦後の洋風化と畜産業

一方、アメリカでは徐々に大豆タンパクに対する需要が低迷するという現象に悩まされることになります。大豆製品の内、大豆油はマーガリンや食品加工の用途、さらには油脂を使った工業製品などその使い道は多岐にわたっていて安定していましたが、脱脂大豆から作られた大豆タンパクの食品用途は市民からの強い拒絶によってその道が閉ざされてしまいました。このことに危機感を持ったアメリカの大豆生産農家で組織されたアメリカ大豆協会は、大豆の利用研究が進んでいる日本とドイツに職員を派遣して新たな大豆粕の用途を探る活動を始めています。そしてそこで浮かび上がってきたのがドイツですでに検討していた、大豆粕を家畜に飼料として与えて牛乳をはじめとして牛肉,豚肉、鶏肉などを生産するという畜産への利用でした。アメリカ大豆協会はこの大豆粕の利用技術を世界的に展開し、新たな大豆粕の道を開いていく取り組みを始めました。

アメリカ大豆協会は日本にも技術者を派遣して飼料会社や畜産業者にその技術を指導しながら、脱脂大豆の家畜飼料への道を開いていったのです。それらの動きは丁度、戦後の各国に起こった経済復興と相まって「食の洋風化と肉食への傾斜」という流れになって膨らんでいったのです。今では脱脂大豆が畜産用飼料の主要な原料として一般的に使われていますが、その動きはここから始まっていたのです。こうしてアメリカの大豆農家も世界の大豆搾油業者もそれぞれが再び安定した産業となって現代に引き継がれているのです。

 

1960年代に入ると先進国を中心に可処分所得の増進に伴う肉食と食用油脂の消費拡大が始まります。先進国全体で見ても一人あたりの食肉消費量は1976年までの15年間に54.4sから73.2sへと伸びており、我が国も10年前に比べて1人あたり年間肉食供給量が2sから7sへと著しい伸びを示しています。先進国の食肉消費量の勢いはその後も続いて1988年の81sへと拡大していきます。現在では経済力をつけてきた新興国の食肉消費量もこの動きを強めており、このことが畜産飼料原料である大豆粕の需要を今も強く押し上げ続け、ますます大豆に対する需要が高まり、世界の大豆生産はその後も一貫して伸び続けています。

 

アメリカの大躍進とは逆に満州の大豆生産は日本の敗戦によって崩壊し、世界の大豆はアメリカ独壇場の時代として始まりました。 アメリカの大豆生産量は1945年には中国を抜いて世界第1位となり、大豆の輸出も第2次世界大戦中の連合国向けの輸出にとどまらず、世界に向けた大豆輸出へと踏み出していきます。国際市場に中国大豆という先輩格がいたとはいえアメリカは急速にその輸出量を拡大して、徐々に世界の大豆市場での地位を高めていきました。その後のアメリカ大豆の増産ぶりは周知の通りです。そして1967-76年の10年間で見ると世界の大豆輸出量の95%をアメリカ大豆が占めているというまさにアメリカ大豆の独壇場が展開されていきます。

こうしてアメリカの大豆生産の流れを振り返ってみると、国内外で起こった戦争をきっかけに農業大国への道を進んでいきましたが、その流れをそのまま維持してアメリカは戦後の世界の大豆需要を一人で支えてきたと言えるのではないだろうか。

 

                        2022.3

 

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