大豆が歩んだ近代史 その20
1945年7月にはアメリカ、イギリス、ソ連の首脳が日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言を発表するが日本はこれを無視します。アメリカは8月に広島、長崎に原爆を投下し、ソ連が日本に宣戦布告することになります。こうして日本は8月15日に降伏を受諾します。同盟国だったイタリアは1943年に、ドイツも1945年5月に降伏しています。第2次世界大戦はこうして犠牲者5千万人を越える悲惨な戦争となり、その数は第1次世界大戦の5倍となったとされています。日本もこの戦争で310万人もの死者が出ており、最後の3か月だけでも死者が60万人をこえていると言われています。
そして終戦となると世界の食糧環境も徐々に変化し、アメリカ大豆に対する各国の期待も変わってきます。戦争という非常事態が終りを告げ、世界に安定感が膨らんでくると、大戦前までは大豆食に慣れていなくて戦争中の食糧不足で無理に大豆食を食べていた人たちの間で大豆離れが起こってくるのです。そうして大豆は戦後の新たな時代を迎えることになります。
アメリカにおける大豆製品の開発
アメリカにおける大豆食品開発は大豆の栽培熱が盛り上がってくると共にすでに始まっていました。宗教団体のセブンスディー・アドベンチスト協会(SDA)では大豆を利用した食品の開発に力を注いでいました。キリスト教プロテスタントのこの教団は健康的なライフスタイルを目指しており、その活動の一環として植物性食品を取り上げていました。そしてこの活動に参加して大豆食品の開発に取り組んでいたのがジョン・ハーヴェイ・ケロッグと弟のウィル・キース・ケロッグでした。ジョン・ケロッグはニューヨーク大学で医学博士の学位を取得するとミシガン州にあるSDAの健康増進保健施設バトルクリーク・サナトリウムで主任内科医を務めましたが、この時に彼が行った菜食主義者向けの食品開発には周辺の多くの人たちが強い影響を受けることになります。彼は1910年にはすでに朝食用食品を商品化していますが、さらに1922年になると独立してケロッグカンパニーを設立しています。ケロッグ社が開発した大豆食品のなかには肉のような食感を持った製品も含まれていたようで、このような大豆をベースとした肉の食感を持った食品はその後の大豆食品に強い影響を与えることになります。
アメリカにおいても古い歴史を持つ豆乳の開発は、1910年にジョン・ルーレー博士によって下痢に苦しむ子供に大豆の懸濁液を与える研究として発表されて始まっています。ここで用いられた大豆ベースの調整粉乳には全脂大豆粉と濃縮牛乳、さらには大麦粉とミネラルが混合され、少量の塩も入れられていました。このような調整によって牛乳に含まれている乳糖は大豆タンパクと結びついて乳児の腸内バランスを和らげる効果として発揮されたのです。
SDAのワシントン・サナトリウム病院では、病院で提供していた菜食主義者のための食事が、第1次世界大戦が始まると提供できなくなってしまいます。それは戦地への食糧補給のために地元の乳製品が政府によって徴用されるようになり、食材業者はそれまでの乳製品を病院へ卸せなくなったからです。こうして病院としては牛乳に代わる食材を見つける必要に迫られることになります。そこで勤務していたハリー・ミラー博士は、乳製品の代替品を豆乳で作ってこの苦境を切り抜けることを考え、無事に開発に成功します。彼は豆乳での成功に力を得て、その後中国へ渡って中国の乳幼児のための豆乳開発にとりかかります。しかし、当初の豆乳には大豆に含まれる不味なフレーバーによって必ずしも子供たちに歓迎される製品ではなかったようです。彼はその改良に取り掛かり無事に成功することが出来ました。それは豆乳に高圧の生蒸気を吹き付けることによって生の豆乳が持つ不味さを弱めることが出来たのです。それによって豆乳の食味が改善され、大豆を使った優れた幼児用食品を作り出すことに成功したのです。そして彼はこの技術を使って、上海で豆乳工場を作り、従業員を雇って豆乳の販売を始めましたが、時あたかも1937年の盧溝橋事件に端を発した日中戦争に遭遇し、日本軍による上海爆撃による被害を受けることになります。そして工場は開業8ヶ月で日本軍によって破壊されてしまいます。その後ミラーはアメリカに帰国して大豆製品の開発と販売を続けますが、アメリカでもっとも消費者に受け入れられたのは乳幼児用調製粉乳である“ソイヤラック”だったとされています。
しかし、ここでアメリカの乳業界からクレームが起きます。それは大豆製品に「ミルク」の名称を付けないこと、と言うものでした。彼はアジアで広く使われているように豆乳の名称に「ソイミルク」としたのですが、これがアメリカの酪農業者からのクレームとなったのです。この名称についてのトラブルは現代でも聞くことが出来ます。上海などアジアでは豆乳に「ソイミルク」などの名称をつけていますが、アメリカの乳製品業者にとっては、「ミルク」とは動物の乳房から出たものだけの名称だとの締め付けがあります。アメリカの酪農業者たちはミルクという名称が消費者の健康イメージを盛り立てていると反駁しているのですが、これは日本の「豆乳」にも当てはまります。確かに豆乳に対してミルク、乳という呼び方は国によってその対応はまちまちです。EUでは、その製品が乳房から出ていないと「ミルク」という表示は禁止となっています。だからそれらの商品には「ソイドリンク」と呼んでいるのです。フランスでは「トウニュウ」と日本名で表示しているのもあります。豆乳を永く飲んでいる中国では「大豆スープ」と呼んでいるのもあります。しかし日本を始めタイ、北朝鮮、韓国、ベトナムなど大豆飲料を古くから飲んでいる地域では大豆ミルクとか豆乳として広く普及しています。このように豆乳の呼び方が世界の各地で争点になるのも、豆乳が牛乳の地位を脅かす存在になってきた証であろうと思われます。ハリー・ミラーが開発した乳幼児用調製粉乳“ソイヤラック”は、その後いくつかの企業によって継承されながらも現代に生き続けています。
さらに、彼が開発した肉様食感を持つ大豆食品は、第2次世界大戦で肉類が不足する中で、多くの菜食主義者たちによって広く受け入れられるようになります。そしてこの流れは現代にも受け継がれており、アメリカを中心に大豆タンパクを原料とした植物肉食品が健康を意識した消費者たちに広く受け入れられています。2019年7月に植物由来食品協会(PBFA)とザグッドフードインスティチュート(GFI)が共同で発表したアメリカの植物タンパク食品の市場規模は全体として45億ドルにまで成長しており年11%で拡大しているとしています。その中でも豆乳が19億ドルで年率6%の伸び、植物肉食品が8億ドル、10%の伸びとなっており、多くの国民がその必要性を確認しているとの調査結果を発表しています。
20世紀の半ばになると、パーシー・ジュリアン(1899-1975)がドイツの大学で有機化学の博士号を取得した後、アメリカ企業のグリデンに入社してここに大豆搾油事業を導入し、それによって得られる大豆タンパク質、油脂からいくつかの機能性製品を開発しています。ドイツでは早くから大豆の利用研究に対する取り組みが進んでおり、彼はそれらの情報をもとに大豆の持つ機能性に注目してその用途開発を目指したのです。そして大豆から得た分離蛋白を発泡剤の原料として消火器を開発しており、これは第2次世界大戦中には広く利用されています。また、大豆油からの誘導成分としてテストステロンとプロゲステロンを合成し、避妊薬ピルの原料として、さらには性ホルモンのアンバランスによって引き起こされる各種ホルモン性疾患に対する治療薬としても応用されています。
1920年代のアメリカ国内での大豆生産が本格化するに伴って民間企業でも農務省の動きに合わせて大豆を使った商品開発に関心が高まります。大豆油はサラダ油、マーガリン、ショートニングなどの食品として使われるほかに、大豆粉を使ったパン、マカロニーや菓子類の開発、大豆ミルク、豆乳、缶詰豆腐、大豆コーヒー、大豆胚芽乳などの食品や大豆タンパクを使った接着剤、大豆油を原料にした塗装用ニス、ニトログリセリン、自動車の塗料、インク、さらにはペイント、毛髪用油、石鹸などの工業製品が開発されていきます。こうして、世界の大豆はアメリカの時代へと流れが大きく動いてきます。
戦後の食糧難とアメリカ大豆
第2次世界大戦も1945年8月15日、日本のポツダム宣言受諾によって終了することになりますが、ここで日本をはじめヨーロッパ諸国は深刻な食糧不足に陥りました。ヨーロッパなど戦場になった多くの国々の農場は戦車で踏みにじられ、敵軍の侵入を阻止するために地雷が農場にまで埋められていて容易に農作業が再開出来ない状態となっていたのです。日本も多くの若い農業従事者が戦場に駆り出されてしまっており、働き手が少なくなっているうえに国土全体が激しい爆撃にさらされて肥料も農機具も足りない状態であり極度の食糧不足に陥っていました。さらにインドやアフリカなどの植民地や開発途上国も含めて世界中で食糧危機が深刻化しており、戦後も継続的に食糧生産が安定していたのはアメリカだけという構図になっていたのでした。このようにひとりアメリカ農業だけが無傷の状態で終戦後も戦時バブルが続いていたのです。そのために終戦直後から戦勝国も含めた多くの国がアメリカからの食糧支援を求めていたのです。
日本の戦後の食糧難
戦争が近かくなると我が国の食糧事情はひっ迫し、国民のほとんどがすでに食糧難に陥っていました。コメ不足を補うために昭和14年12月には「白米禁止令」が出されコメは七分搗き以下とするように制限されますが、翌年になると米の中に野菜・豆・芋などを混食するように奨励されます。昭和16年から東京、大阪で配給制度が始まり、翌年になると全国が配給制度になってしまいます。この時のコメの配給基準は、1〜5歳は1日120g、6〜10歳が200g、11〜60歳は330g、61歳以上は300gとされていました。主食はコメだけに頼っていた当時の食生活にあってはこの基準は厳しいものであったはずです。これら配給制度は米だけではなく、その後食用油や魚類にも配給制は広がっていきます。この米穀通帳が廃止されるのは1982年(昭和57年)になってからでした。終戦になるとさらに食糧はひっ迫してきます。サツマイモやかぼちゃの蔓、大麦やキビ等の乏しい穀物類やイナゴやバッタ、サナギなどの昆虫類の他、タニシや蛙なども食べながら命をつないでいた状況でした。新聞には道端に生えている雑草を調理する方法やお茶の代用として使える雑草が紹介されていたりしました。終戦後しばらくの間は食料や生活必需品などを戦時中から続く配給制度に頼るしかなく、しかも国全体に物資が不足していたためにそれらも遅配や欠配が相続き、都市部では餓死者が出たほどでした。戦後は多くの国で食糧難が発生していますが、日本が極度の食糧難になったのは、戦争に国民を徴兵した時に、まず農民を優先的に戦場に連れて行ったことだったことによるのです。工場労働者も戦争半ばからは徴兵されて行きますが、兵器の製造などのために始めのうちは徴兵から外して農民を先行したことが直ちに食糧難として現れてくることになったのです。そこで都市部の人たちは自分たちの衣類を農家へ持って行って食糧と交換したり、闇市などで法外な値段で食糧を手に入れるほかなかったのです。
一方農村では警察も、コメが配給制度のための集荷ルート以外に横流しされないようにコメの収穫作業が終わった後になると各農家を廻って納屋や物置、屋敷の床下などに余分のコメを隠していないか見回っていました。当時は農家が自家用として残せるコメの量は家族の人数分だけであり、それ以上は農協を通じて国に供出しなければいけなかったのです。そんな農家を政府への供出米よりも高い値段でコメを買い取るという商人が警察の眼を盗み、夜の8時過ぎになると暗闇にまぎれて農家を訪問しては米俵1、2俵ほどを買ってリヤカーなどに積んで闇の中を懐中電灯もつけずに消えていったのです。このような商人を闇商人と言い、彼らが扱っていたコメを闇コメと呼んでいたのです。だから農家の中には自分たちの食糧分のコメの一部を闇商人に売って、自分たちはご飯の中にはサツマイモや大豆を入れて増量しながら炊いていた農家もいた時代でした。このように農村も都市部も食料の絶対量が不足していた時代だったのです。
日本は敗戦によってそれまで我が国の食糧基地として多くの大豆を供給していた満州国は消滅してしまい、国内には農家の働き手である若者もいなくなり極度の食糧難に陥っていたところに手を差し伸べたのが戦勝国のアメリカだったのです。そのことについては別の項でお話ししたいと思います。
戦争で翻弄された豆腐の苦汁
私たちが近所のスーパーなどで豆腐を選ぶときには、その多くには「にがり使用」の文字が目に付きます。「にがり」とは海水から塩を作るときに残る“塩化マグネシウムが主成分の液体”のことを指しています。にがりは舐めると苦い味が口に残るので“にがり”と呼ばれるようになったのです。
はるか昔に豆腐を我が国に伝えた中国では、広い国土の多くは海岸線から遠く離れており、海水から得られる「ニガリ」を容易に手にすることは出来なかったはずです。だから中国で豆腐が生まれた頃の凝固剤は「岩塩から取り出したにがり」か「石膏」であったようです。しかし、周りを海に囲まれている我が国では、海水からのニガリが比較的安易に入手できることからニガリによる木綿豆腐が当初より作られていたと考えられます。江戸時代の豆腐の料理本である「豆腐百珍」に紹介されている豆腐料理100種にうち87種類の料理は木綿豆腐を使ったものであり、それらはニガリで作られていたと考えられます。
ところが昭和15年(1940)になってニガリが急に豆腐屋の手に入らなくなってきます。それは太平洋戦争の切迫感とともにその深刻度を増してきています。昭和16年12月には「苦汁及ブロム配給統制規則」の制定を境に、ニガリの生産と配給は法律で政府の統制下におかれることになります。そして、昭和17年(1942)以降、ニガリが豆腐屋の手元に入ってこなくなったのです。その状況はこの表に現れています。
苦汁需給状況 単位 石 (日本専売公社塩脳部塩業課保存資料、引用論文より)
|
苦り生産量 |
供出量 |
製薬用途 |
豆腐用途 |
その他用途 |
1938年 |
1,245,989 |
1,137,292 |
1,096,256 |
26,744 |
14,292 |
1939年 |
1,540,222 |
1,346,417 |
1,286,192 |
15,166 |
45,059 |
1940年 |
1,445,478 |
1,318,661 |
1,244,906 |
23,806 |
49,949 |
1941年 |
903,994 |
810,072 |
795,300 |
8,883 |
5,889 |
1942年 |
928,239 |
841,450 |
841,450 |
― |
― |
1943年 |
891,367 |
781,002 |
781,002 |
― |
― |
戦争が始まってしまうと多くの若者は戦地に出ていってニガリの生産量が減るのはわかりますが、製薬用途以外のニガリはどこへ行ってしまったのでしょうか、それを示す1944年4月13日付の『朝日新聞』の記事があります。そこには「苦汁は大切な航空原料」と題された記事がイラストと共に掲載されています。ここでは、塩田から苦汁、臭素、加里塩、塩化加里、金属マグネシウムを矢印でつなぎ、それらと飛行機、爆弾、肥料のイラストを関連付けることで、視覚的にもニガリが戦争の資材につながることが示唆されています。つまりニガリから生み出されるこれらの物質が緊迫する戦況下において戦争の必要資材であるとしているのです。
こうして豆腐の凝固剤としての苦汁が手に入らなくなったことにより、新たに凝固剤として登場するのが「すまし粉」でした。この頃になると戦火も身近に迫り、豆腐用の大豆も入手困難になり、豆腐の風味にこだわる状態ではなくなっており、凝固剤がすまし粉に変わったことを指摘する声もなかったことでしょう。そしてこの状態は終戦後しばらくの間続いていくことになります。すまし粉による豆腐製造のほうが失敗することが少なかったこともあり、製造業者もすまし粉からニガリに戻る動きが出てきませんし、消費者の舌もすまし粉の味に慣れていたことなどの理由から戦後もすまし粉が主力の凝固剤になり、にがり豆腐は過去のものになってしまいました。
しかし、近年になってにわかに「にがり」の健康ブームが起こりました。テレビでにがりによるダイエット効果が取り上げられたことがきっかけとなったのです。それは我々地球に住む生命体は海の中で生まれてきた歴史があり、我々の血液の成分も海水の成分に似ているほどだ、だからにがりは体に良くて万病に効くはずだ、というものでした。そして次々とにがりによる健康商品が登場してきました。2004年になって独立行政法人国立健康・栄養研究所がそのような科学的データーはないと否定してひとまずブームは収まりましたが、にがり豆腐へのこだわりは根強く残りました。現在は固体の塩化マグネシウムを使った豆腐にも「にがり使用」と表記できることから、ほとんどの「にがり使用豆腐」には本来の製塩にがりを使っていない豆腐になっているのが現状です。もちろんこれによってもマグネシウム摂取の健康効果は充分に期待できます。マグネシウムにはカルシウムが骨に沈着するのを助ける働きが知られており、さらに便秘解消の効果も認められているのです。
こうして豆腐の凝固剤にまで戦争の陰が色濃く反映されていたのです。
このように戦後の食糧難の影響はあらゆる国で直面しており、それらに手を差し伸べられたのは一人アメリカだけだったのです。
2022.2
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