大豆が歩んだ近代史 その2
わが国の縄文人たちが大豆をどのように食べていたのかについては、その詳細は分かりませんが古代の土器などに付着している痕跡から煮豆にしたり潰して水にさらして簡単な調理をしていただろうことは想像できます。いずれにしても大豆を食べるときには加熱によって大豆に含まれる各種酵素を失活させないと消化不良を起こすので土器による加熱は必須の調理工程であったはずです。
古代の日本では民衆レベルで、日本人と中国人の交流が行われていたことは中国の古代の歴史書に残されています。我が国では弥生時代に相当する紀元前1世紀頃の中国の歴史書「漢書」には日本人を倭人として書かれており、西暦57年に書かれた「後漢書」東夷伝には九州奴国(なこく)の国王が中国に使者を送り、その返礼として印が送られたことがかかれており、その金印が江戸時代になって九州で見つかっています。ただこれについては色々な疑惑もあるようです。さらに3世紀になると「魏志」倭人伝には邪馬台国の卑弥呼が使者を送っていることが書かれています。これらの交流の中で中国からの返礼として大豆の利用方法などが伝えられた可能性は大いにあります。植物の種子から油を作る技術は時代的に見ても卑弥呼の時代に中国からもたらされた可能性があるのです。古代の満州地方ではこれらの技術を使って大豆から油を搾っていたことも考えられます。
食材としての大豆はその後中国を中心にいろいろな大豆食品として発明されるようになり、それらが我が国に伝えられることにより大豆の利用がさらに大きく広がっていくことになります。飛鳥時代になると「醤」や「豉]といった発酵によると思われる大豆の加工技術が始まっていたことはすでに述べた通りです。平安時代になると遣唐使が、鎌倉時代になると五山の僧侶や渡来人たちが中国から新しい大豆の文化を我が国に持ち込み、寺院を中心に大豆を使った料理が発展し、精進料理、普茶料理、懐石料理などに姿を整えて大豆文化に花を咲かせることになります。そしてその後も大豆は米とともに我が国の重要な食品素材として多くの調理に利用され発展していきました。その成果ともいえるものが現在の和食であり、世界の文化遺産とされた「和食文化」を支えていると言っても過言ではないでしょう。
現在、日本の国内で利用している大豆の7割はアメリカから輸入されており、我が国の大豆の自給率は1割にも達していないのが実情です。このように我が国で長い歴史をもつ大豆も今やその多くを海外からの輸入に頼っているのが実態です。なぜこのような姿になったのでしょうか、そこには大豆を巡る近代史が横たわっているのです。すでに述べたように現代の私たちの食卓を支えている大豆は今から5千年前の、日本で言えば縄文時代中期に日本・中国・韓国など東アジアの一角でほぼ同時にツルマメから変化して大豆に生まれ変わったことがわかっています。その後大豆はこの限られた地域の中で相互に交流を繰り返しながらその調理や加工の方法を発達させていきました。そしてこの大豆の発展に強く影響を与えたのが、この地域に共通した文化としての仏教があります。仏教は殺生を禁じていたので、多くの人たちはそれまでの狩猟による動物肉や魚を食べることを禁じられるようになります。日本で言えば古墳時代に相当する時代までは世界中のどの国も狩猟採取の時代であり、野山を駆け巡り野生の動物を狩猟し、また海や川から魚や貝を捕り、草木の実を採取して食糧に充てていた時代でした。しかし徐々に農業が定着していって多くの地域では従来の狩猟採取生活から穀物の栽培による農業へと移行していきますが、その中でも狩猟採取は食糧調達の大きな部分を占めていました。
しかし紀元前5世紀にインドで起こった仏教が中国に広がり、朝鮮半島を通って我が国にもたらされることにより、その食生活の様式が大きく変わることになります。それは仏教の教義である殺生の禁止が人々の生活を強く規制してきたからです。医療も防災対策も十分でない当時の為政者たちにとっては民を治める手段として仏教に頼らざるを得なかったのです。つまり国を治める為政者たちは病気の蔓延や飢饉による餓死者を救う有効な手立てが見つからない中で、その救いを仏教に求めていったのです。聖徳太子の時代に我が国に入ってきた仏教は文字もなかった時代にあっては近代文化への憧れそのものであり、民の心を一つにまとめる大きな柱になっていったのです。そして天武天皇以降何代にもわたって仏教の教義を守り殺生を止めるよう禁止令が幾度となく勅令として出されるようになります。もっとも、これらの教義に強く影響を受けていたのは仏教に従事している僧侶や貴族、それに準じた人たちであり、庶民の間ではこっそり野山の動物を狩りして肉などを食べていたこともあったようです。こうして肉や魚を避けていた人たちにとっては体に必要なたんぱく質を当時の食材の中から大豆に頼っていったことになります。
当時は大豆にタンパク質や油脂などの栄養素が含まれていることなどは当然のことながら知らなかったので、縄文時代から続いていた大豆を使った食習慣をただ続けていたことになりますが、その大豆食が自分たちの元気のもとになっているとの実感があったのではないかと想像します。こうして大豆は仏教の教義と共に我が国に定着していったのです。そして大豆食は仏教や貴族たちの食文化として発達しながら、国民に広くその影響を広げていったのです。
日本人が肉食を復活させて食べるようになるのは明治維新の後になってからです。富国強兵が国の近代化に重要であり、外国人に比べて体格の劣っているのを解消するためには外国人が食べている動物肉を食べようとの運動が起こってからでした。その象徴として明治5年(1872)に明治天皇が牛肉を食べて国民に食肉奨励をしたことがありました。
しかし、これら大豆を使った食文化はその後も長い間にわたって東アジアの一部の地域に留まり、他の地域に伝播することはなかったのです。仏教を信仰していない他の地域では殺生の禁止というような教義がなかったので狩猟生活をやめる必要もなく、そのまま肉食生活が続いていたのです。この時期に大豆を主要な作物として栽培していた地域といえば、仏教が普及していたタイから中国、日本、朝鮮半島までの、地球全体からみるとごく限られた土地であり、この限られた地域でしか大豆は食べられていませんでした。このように大豆が東アジアの限られた地域でのみ栽培されていた時代は長く、紀元前3千年ころから20世紀の初頭までの5千年間はこの限られた地域だけの作物だったのです。ところが現在の世界の大豆生産の中心はこれらの地域から遥か遠い南北アメリカに移っており、この地域で世界の大豆の83%(2019年)を生産しているのです。かつての大豆生産大国だった中国や日本、韓国は今や世界の大豆輸入大国となってしまっているのです。このような大きな大豆をめぐる地殻変動の蔭にはどんな物語があったのか、その姿も探ってみたいと思っています。
中国では大豆について書かれた古い書物がいくつかあり、最も古いものでは紀元前2838年に中国を支配した神農皇帝が医薬の書物「神農本草経」の中に大豆について記載したのが最初とされています。この中で、「生大豆をすり潰して、腫れものに貼ると膿が出て治る」「呉汁を飲むと解毒作用がある」などと書かれています。また、中国の周の時代になると大豆をあらわす「叔(しゅく)」の象形文字が存在していたことを考えれば、遅くとも紀元前11世紀には大豆栽培が行なわれていたと考えられていました。中国の戦国時代(BC400-200年)では、のちの満州と考えられる北方地域から大豆が持ち込まれ、異国の豆ということから戎菽(えびすまめ)と呼んで五穀に数えられるようになったと「史記」(BC91)に書かれており、大豆が満州地方から持ち込まれて古代中国の文明創生に貢献した五つの穀物の一つとして歴代の皇帝により毎年五穀豊穣の儀式が行われていたことが記されています。これらの記録からも中国における大豆の栽培は紀元前5000年にさかのぼると主張している学者もいるほどです。しかし現代の考古学的解析により先にも書いたように中国での大豆の発生は今から5千年前とされています。
中国ではこのように古代から大豆栽培が盛んに行われていた様子が見られます。さらに3世紀の中国の三国時代には我が国に搾油技術を伝えていたことから考えると、この頃には既に大豆から油脂を絞っていた可能性も考えられます。もしそうなら大豆から搾った油脂は何に使っていたのでしょうか。我が国で見られたのと同じように寺院を照らす燈明用の油として使われていたのか、あるいは調理用の油脂だったのか、これらを確認する資料は未だ見ることが出来ません。しかし今に伝わる中華料理の多くは油脂を使って食材を加熱する料理が多いことから考えても、我が国よりも早くから油を使った調理は広く行われていたことが想像できます。
古代中国の周王朝の時代には、すでに宴会に出される会席料理があったとされていますが、この時代の料理には8種類の料理からなる「周の八珍」と言われて、焼く、煮る、酒漬け生物、野菜の塩漬けなどでありましたが油料理はまだ姿を見せていません。その後の三国時代では焼く、蒸す、煮る、乾す、漬けるといった調理が行なわれ、現代に続く中国料理の基本が、この時代にほぼ出来上がっていたようですが油脂を使った調理はまだ見られません。油料理が出現するのは日本の奈良時代にあたる随や唐の時代からと言われています。そうなると卑弥呼の時代に我が国にもたらされた搾油道具は灯油を作るためだったと想像することが出来ます。こうしてその後の時代になると、調理に植物油が使われるようになっていったと思われます。当時の墳墓から出土した副葬品には乾燥した状態の餃子やビスケット風の菓子などが見られます。
現在の中国料理に多く見られる「炒める」「揚げる」といった油を使った調理法が広まったのは、日本の平安時代にあたる北宋の時代になってからとされています。それは磁器を作るための火力の強い石炭窯を、料理用の炉やかまどとして使うようになってから広まったと言われています。この時代は中国でいろいろな技術が発明された時代であり、印刷、羅針盤、火薬などが発明される傍らで、人々はグルメにも目覚めていったのではないだろうか。 この時代になると次々と新たな食材や調理法が確立され、街には多くの料理店が並び、食材特化の専門料理店もこの頃から現れたと考えられています。陣達叟(ちんたつそう)の「本心齋疏食譜」のような食に関する本も数多く出版されたようです。この時代に現れる油脂から考えても大豆油がこれらの調理に使われていたことが考えられます。
今では大豆食品として多くの人たちに好まれている豆腐はどのように生まれてきたのかを見てみましょう。豆腐は中国で生まれたものですが、いつ頃から食べられていたかについては確かな記録がないのです。豆腐業界では二千年前、漢の末裔、准南王劉安(B.C.179-122)が発明したとして、毎年9月15日に准南市で日中両国の豆腐業者が集まって豆腐祭りを行っているらしいが、中国の専門家達は“劉安説”を認めていないようです。諸説入り混じって、結局のところ起源がよく分からない、というところでしょう。また、わが国へ豆腐が伝えられた時代についても定説がないようです。
中國で最初に「豆腐」という文字が登場したのは965年に書かれた「清異録」だということが、江戸時代に発行された「豆腐百珍」の巻末に書かれています。文字が発達し、多くの記録が残されている中国でも豆腐の生い立ちについてははっきりしていないようです。
豆腐は中国から伝えられてきたものですが、その中国でも豆腐はさらに北方の遊牧民から持ち込まれた食品であったのです。南北朝から唐代にかけて、北方遊牧民族が中国へ侵入したとき、乳加工品、ことにその保存食品である乳腐が中原人の間に持ち込まれたのでした。乳利用の遅れていた中国では乳の代用品として大豆を原料とした豆腐が工夫されたといわれています。つまり「豆腐」の原型は乳製品の一種である「乳腐」だったのです。“豆腐”や“乳腐”の腐という字は腐敗などとは全く関係がなく、牛乳から脂肪分の分離が不完全な乳汁は主に蛋白質から成りますが、放置しておくと乳酸醗酵を起こします。この沈殿物が乳腐(カード)であり、それを乾燥したものが乾酪(チーズ)です。豆汁にニガリを入れて沈殿凝固させた豆腐は、その状態や製造の過程がこの乳腐に似ていたところから「豆腐」の呼び方が定着していったようです。
乳腐はチーズか、バター分の分離不充分なヨーグルト状と考えればよいでしょう。では、この乳腐の「腐」の字にはどんな意味があるのだろうか。明らかに伝統的な解釈の「くさる」ではないが、さりとて乳製品で「腐」に転訓しそうな品物は、現代蒙古語には見あたらない、と民俗学者の梅棹忠夫教授は言っています。いずれにせよ、この「腐」字は乳製品の胡語に対する宛字であり、胡語なればこそシナ人がこのように不快・不潔な字をあてたのだろうと教授は考えているようです。時代は南北朝、五胡十六の国々が江北を席捲していった頃の話です。かくして、乳腐と同様にやや軟かく、いささかプルンプルンとした感触の食物を腐とよぶことが一般に行われることになり、豆乳から作られた乳腐の代用品なるものとして「豆腐」が出来上がったのです。
(2022.1)
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