大豆が歩んだ近代史 その19

「第2次世界大戦でアメリカ大豆が飛躍」

 

2次世界大戦

1次世界大戦で主戦場となった欧州諸国では戦勝国も敗戦国も甚大な被害をこうむり、その影響はその後各国の市民生活に重くのしかかってくることになります。このようなことが二度と繰り返されないために、そして第1次世界大戦を最後の戦争にしようと恒久的平和を願って19201月には国際連盟が設立されます。そして日本は常任理事国となり、事務局次長に新渡戸稲造が就任します。翌1921年にはワシントン会議が開かれアメリカ、日本など9か国での国際秩序作りが始まります。その後相次いで4か国条約、9か国条約、海軍軍縮会議などが開かれ、19288月には「パリ不戦条約」がアメリカ・フランス・イギリス・ドイツ・日本など15か国間で結ばれ、国際間の紛争解決は平和的に処置することが採択されました。しかし第1次大戦で敗戦したドイツは国家予算の20年分に相当する巨額な賠償金にあえぎ、市民は急速なインフレの中で苦しみ、そしてその反動からドイツではナチスの台頭など徐々に戦争の機運が高まってくることになります。これら戦争への気配の高まりから急遽結ばれた「パリ不戦条約」でしたが、条約締結後10年余で第2次世界大戦へと突入することになります。

 

その背景となっていたのはヨーロッパを中心に展開していた経済摩擦でした。世界的な経済恐慌のなかでしだいに世界の中にブロック経済が広がっていきます。まず、イギリスを中心となってオーストリア、南ア、インド、ノオルウエイ、スウェーデン、ポルトガル、タイ、エジプト、アルゼンチンなどが手を結んだ「スターリング・ブロック」が出来、続いて1933年にはフランスを中心にオランダ、ベルギー、イタリア、ポーランド、スイスで「フラン・ブロック」が作られます。同じ年に今度はアメリカを中心とした経済ブロック「ドル・ブロック」がアメリカ、カナダ、メキシコ、パナマ、エクアドル、コロンビア、ベネズエラなどで結び、いずれもそれらの国の間では関税を引き下げるなどの便宜を図っていくようになります。こうしてこれら経済ブロックからは日本とドイツが外されることになります。このことも第2次世界大戦への要因となっていくことになるのです。

 

2次世界大戦は1939年9月にヒットラーのドイツ軍がポーランドに侵攻し、これに対してイギリス、フランス軍がドイツに宣戦したことによって始まります。1940年にはドイツがデンマーク、ノールウェー、オランダを占領し、フランスにも勝利します。日本は日中戦争のただ中にあり、当初はヨーロッパの戦争に対して中立の立場をとっていましたが、フランスがドイツ軍に降伏したのを見て、日本は「南進」を決定し、19409月にフランス領インドシナ北部(現在のベトナム)へ軍隊を進駐します。

それは、このころになるとアメリカとイギリスは日中戦争で中国深くに進攻していく日本に対して経済制裁を始めており、前年度にアメリカからの「日本の中国侵略に抗議する」との通告に続いて1940年1月には「日米通商航海条約」の破棄を通告されます。さらに第2次世界大戦の直前になるとアメリカは日本への石油輸出は全面禁止を通告してきます。当時(1938)の日本の輸入に占めるアメリカの比率は、石油類75.2%、鉄類49.1%、機械及び部品53.6%と、戦争を継続するのに必要な資材の多くをアメリカに依存していたのです。

 

日本軍のフランス領インドシナへの南進は石油やゴムなどの資源確保のチャンスと見てのことだったのです。アメリカはこれら日本軍の動きに神経をとがらせます。日本軍がインドネシアを占領してしまうと車輛や航空機製造に必要な天然ゴムがアメリカに入ってこなくなるからです。そこでアメリカは急遽、国内でゴム製品の回収運動を始めています。そうした中で、日独伊三国は軍事同盟に調印(19409月)してアメリカを仮想敵国とする戦時体制が出来上がってきます。

一方、1937年に始まった日中戦争はまだ決着がつかず長引いていますが、それはアメリカ、イギリス、ソ連が中国・蒋介石軍に対して援助しているからだと日本は判断して、その道を遮断することも日本の「南進」作戦には込められていたようです。これら日本の動きに強い警戒を示したアメリカは、アメリカにある日本人の資産凍結をし、石油の輸出禁止をして、日本への経済圧力を強めていきます。これにイギリス、オランダもこれに続き、いわゆるA(アメリカ)、B(イギリス)、C(中国)、D(オランダ)包囲網を形成していきます。日本はアメリカと交渉を有利に進めるためにソ連と「日ソ中立条約」を締結します。しかしアメリカに石油の多くを頼っていた日本にはこの状況を跳ね返すには戦争しかないと考えて1941128日に真珠湾攻撃に踏み切って太平洋戦争に突入することになります。

 

こうしてドイツ、イタリアがイギリス、フランス、ソ連、アメリカと戦った欧州戦線(1939-1945)と、日本がイギリス、アメリカ、中華民国、オーストラリアなどと戦った太平洋戦線(1941-1945)の2面で第2次世界大戦は展開されました。日本が戦った太平洋戦線を連合国軍は「太平洋戦争」と称し、日本は「大東亜戦争」と言っていました。当初優勢だった東南アジアを中心に展開していた戦争も、1943年になると戦局は反転し、学徒出陣など日本軍と住民に犠牲者が増え始めます。これに対してアメリカのルーズベルト政権は、この戦争への勝利の目標は生産量で敵を上回ることとしていました。

 

日米戦争が始まった頃の日米の戦力比較は次の通りです。

 

日本

アメリカ

人口

7,160万人

13,167万人

国内総生産

449億円

5312億円

粗鋼生産

684万トン

8,284万トン

商船造船

15万トン

75万トン

飛行機生産

5,000

2万6,000

軍事費

125億円

267億円

 

さらに1943年になると、アメリカが前半の5か月間で作った戦艦の数は日本が戦争中に作った数を上回っており、この年に作った航空機の数は、戦争中に日本とドイツが作った爆撃機などの2倍を上回っていました。こうしてアメリカは物量作戦で圧倒し、第2次世界大戦で軍事大国として世界に君臨するようになり、日本軍を追い詰めて本土決戦へと迫り、そこで連合軍は日本に無条件降伏を迫ります。それは「ポツダム宣言の受諾」への通告です(1945726日)。しかし日本政府はこれを黙殺することを発表します。この後、8月6日に広島に原子爆弾が投下され、8月8日にはソ連が日本に参戦布告を、8月9日には長崎に原子爆弾を投下されて、15日になって降伏宣言をして日本の敗戦で第2次世界大戦は終わります。

 

アメリカが原子爆弾を作ることになったのはアメリカに亡命していたアインシュタインの書簡に始まったとされています。祖国ドイツでのナチスによるユダヤ人迫害から逃れるためにアメリカに渡ってきていたアインシュタインは理論物理学の最新情報から原爆開発を求める書簡をルーズベルト大統領に送ります。この情報をきっかけにアメリカ軍は直ちにその取り組みに入り、「マンハッタン計画」がオッペンハイマーの指導の下に始まります。オッペンハイマーもアインシュタインの仲間の理論物理学者の一人でした。アインシュタインはナチス軍が原爆を開発するのではないかと恐れての大統領への進言でしたが、彼は後にこのことを悔いています。後になってわかることですが、ナチス軍は原爆開発には取り組んでいなかったのでした。

米英で同時に原子爆弾の開発を行いますが、途中からイギリスは技術情報をすべてアメリカに譲り、共同で進めることにしたのです。そして1945年7月にアメリカでの原爆実験に成功し、8月上旬にはウラン型原子爆弾を広島へ、そしてプルトニウム型原子爆弾を長崎に投下することになります。

 

戦争中の大豆の働き

欧州戦線が始まるとイギリスは自国の食料供給路がドイツによって侵害されるようになります。イギリスは国内での食糧自給が難しく、その多くを輸入に頼っていました。しかし、欧州戦線が始まると、ドイツ軍の潜水艦(Uボート)が大西洋の民間船舶を攻撃するようになり、イギリスへの食糧輸入船の入港が難しくなってしまいました。イギリスもドイツと同じように戦時中の食糧の多くを大豆に頼っていたのです。そのためにイギリスは戦争が始まる前には、大豆を自国の植民地で生産できるようにするため、アフリカ西海岸のガンビア、シェラレオネ、ナイゼリアなどの英国領で試験栽培を続けていましたが、国内の消費量を賄うことが出来るまでには到達せず、友好国からの輸入に頼らざるを得なくなりました。そこでチャーチル首相は急遽アメリカと親密な関係を築き、まだ大豆新興国だったアメリカから大豆を輸入することを考えたのです。こうしてイギリスはアメリカからの大豆の供給体制を頼りにするようになるのです。

アメリカは第1次世界大戦では同盟国に対して食糧で支援したことにより、安定した農業基盤を確立する機会となりましたが、第2次世界大戦(1939-45)でもアメリカ農業、特に大豆の生産とその活用においては絶好の追い風となり、アメリカ大豆は大きく飛躍することになります。

 

一方、ドイツは自国の国力を増強するためにも、また戦争への準備のためにも、満州大豆の安定確保が避けられないことを痛感していました。ナチスドイツ軍は大豆を、満州からシベリア鉄道を経由して輸送することへのリスクを認識するようになり、ルーマニアをはじめとするバルカン諸国での大豆栽培を積極的に進めていきました。しかし、これらの地域での大豆の栽培は必ずしも順調には拡大せず、栽培面積も1940年の136900haをピークにその後下降線をたどり、結果的に大豆を近隣諸国で栽培することは出来ませんでした。このようにドイツは戦争の気配が濃厚となる緊迫した中で大豆の確保に苦心していたのです。満州大豆はすでに、満州国の建国とともに日本の管理下に置かれている状況にあり、必要量を安定的に購入することが難しくなっていました。そこでヒットラーは必要とする満州大豆を確保できるようにするためには日本と同盟関係を結ぶ必要があると認識したのです。結局、ドイツは第2次世界大戦の直前になって日本、イタリアとの間で三国同盟を結びます。そのことにより第2次世界大戦の中にあっても満州大豆を充分に確保することが出来る体制を作ることが出来ました。日本が日・独・伊三国同盟が締結された1940年に輸出した満州大豆の輸出先を見ると、日本国内向けには全体の41.4%を、ドイツへの輸出は39.7%、デンマーク11.5%と、ドイツに対する大豆輸出量を自国とほぼ同等にしていたことがわかっています。そして第二次世界大戦が始まると、日本からアメリカへの大豆油などの輸出は停止することになります。

 

イギリスでは戦争が始まると、今まで食べ慣れていない大豆粉末が使われたソーセージなどが支給されるようになり、急遽大豆粉は市民の重要な食べ物の一つになっていったのです。そして戦争が始まるとアメリカはイギリスに大豆を輸送し始めますが、さらにソ連がこの大戦の連合国側に加わると、ソ連もアメリカに大豆の供給を依頼するようになります。ソ連もイギリスと同様に大豆を戦時体制下の食糧として重要に考えていました。両国は1942年には454千トンの大豆油をアメリカに求めていたのです。そのためにアメリカは大豆の増産が急務となり1942年、アメリカ農務省は国内の農家に対して『大豆と戦争: 勝利のために大豆を増産せよ』というビラを配布し、その中で「合衆国連邦政府は、戦争に勝利するため大豆油を必要としている。極東の戦争によって輸入が途絶えた10億ポンドの油脂を賄わなければならない。同時に我が同盟国は10億ポンド以上の油脂を今年中に配送してくれと要請してきた。364万haの大豆作付面積が必要になる」と農家に対して呼びかけをしています。この政府からの要請に対しアメリカの農民は敏感に反応して政府の期待を超える420万haに大豆を作付し、一気に520万トンの大豆を生産したのでした。これらの大豆は主にイギリスとソ連に向けて輸送されましたが、その大豆は大豆油、大豆粉、大豆粗びき粉として、また乾燥スープ(エンドウマメと大豆、チーズと大豆)、シリアルなどに加工して輸送されています。勿論両国ともにこれだけでは国内の食糧は十分とは言えませんが、アメリカからの大豆の供給は大きな支えになったことは言うまでもありません。

 

アメリカ国内でも戦時中になると、大豆食は肉に代わる食べ物として市民の前に提供されるようになります。政府はラジオや新聞、雑誌などを通じて繰り返しメッセージを伝え、さらに多くの大豆食品を食べるように訴え続けます。そして政府は国民に大豆の消費目標を達成するようにと訴えたのです。国内で生産される肉類は、そのほとんどを兵士の食糧として戦地に送っていたので、市民はそれに代わる蛋白源として大豆食品を摂るように要請されていたのです。そして大豆を使った料理本が盛んに出版されるようになります。一般民衆を大豆食に引き付けるために政府と学者は共同して市民に働きかけて、その風味と栄養的な価値を強調していきます。アメリカ政府は1940年には、牛肉のたんぱく質が大豆粉のたんぱく質の16.6倍、牛乳のたんぱく質は14.3倍のコストが掛かっていると発表して大豆の優秀さをPRしていきます。こうして戦争の終結までに緊急食糧委員会は大豆料理のレシピを載せた93万枚のリーフレットと会報を配布しています。

 これら政府の動きに呼応して食品加工会社も独自に小冊子を出版して大豆粉を使った食品の生産量を伸ばし、1943年には国中のどのスーパーマーケットの店頭にも大豆食品が並ぶようになっていました。学校の給食や刑務所の食堂、街中のレストランなどでは、大豆粉は健康的でコストを抑えられる優れた食材として優先的にメニューに取り入れるように指導されていました。さらにソーセージの代用品として「ソイセージ」という名称の商品が発売されたり、豆乳と大豆油を使ったマーガリンも広く店頭に並んでいました。アメリカ軍でも大豆を戦時食糧として有効的に利用しています。大豆粉を兵士の粉末スープに入れて栄養の強化に利用していたり、豚のソーセージのなかにも栄養効果の高い増量剤として大豆粉を使っていました。さらに軍の戦闘時食糧として開発された「Kレーション」にも大豆を原料とした食品が利用されていました。このようにアメリカでは第二次世界大戦中には共に戦っている連合国への食糧支援として大豆を増産するとともに、自国の軍や各家庭にまで大豆食品を深く浸透させていったのです。

 

アメリカの大豆農家は政府による大豆価格の保証と軍隊による大豆の需要増加によって大豆の増産に安心して立ち向かっていくことが出来たのです。こうしてアメリカはこれら一連の取り組みによって、この大戦が終了した時には、満州の生産量を越えて一気に世界最大の大豆生産国になったのです。そしてその後もその勢いは衰えず、アメリカ大豆が増産されていった様子は皆さんもすでにご存知の通りです。

 

 このように第2次世界大戦はアメリカ大豆にとって大きな飛躍の場となったのです。そして終戦と同時に日本が供給源としていた満州大豆も満州国と共に崩壊してしまい、世界の大豆生産はアメリカ一強の様相へと変わっていったのです。いつの戦争においても食料の確保は大きな課題とされますが、とりわけ第1次世界大戦以降においては戦争の場面で大豆が重要視されるようになっていきます。それは大豆には肉に匹敵するほどの高いタンパク量と豊富な油脂を含んでいるために健康を維持する成分に恵まれているだけでなく、利用の仕方によっては穀物としての役割と、水を含ませると豆もやしとして野菜の働きにも変化するという柔軟さを持っているために非常時の食糧としてこれ以上のものがなかったのです。そして大豆はこの2つの世界大戦でその役割を充分に発揮して一躍世界の主要穀物へと駆け上っていったのです。

 

                  2022.2

 

 

 

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