大豆が歩んだ近代史 その18
アメリカにおける大豆搾油産業の台頭
ヨーロッパでは1908年になるとイギリス、ドイツが満州から大豆を輸入して大豆搾油を始めており、作られた大豆油からマーガリンや石鹸などが生産されていました。特にドイツでは大豆ミール、大豆油から多くの商品開発が展開できることなどから大豆搾油を自国の経済を強化する重要な産業ととらえていたようです。しかし、第1次世界大戦(1914-18)が始まると国内での油脂の生産が困難となってきます。そして国内での油脂の在庫が枯渇するようになると、急遽満州から大豆油の輸入を始めるようになります。こうしてドイツでは第1次世界大戦が始まると同時に大豆油の輸入量も急増し、戦争の最中となる1916年には41,500トンへと輸入量が増大していきます。そして敗戦によって国内の搾油設備が壊滅状態となった1922年には97,100トンへとさらに増大していきます。
アメリカはこのようなヨーロッパの動きを見ながら大豆油の利用に積極的になっていきます。
アメリカはこの頃から中国市場に強い関心を持つようになります。1921年(大正10年)から2年間、歴史学者の内藤湖南は外務省の委託を受けて中国視察に出掛けておりますが、その報告書の中で、中国国内にアメリカの資金で設立された数々の大学が充実している様子を書いています。そしてそれらを反映して中国には「対米信頼」、「対日恐怖」感情が広まっていることも報告されています。この頃からアメリカは中国市場に強い関心を示し始めています。
しかしアメリカ国内ではまだ大豆の生産も十分ではなく、しかも大豆搾油事業も十分な生産体制がなかったために、満州や日本から大豆原油を輸入しながら、それを国内で精製して大豆油を作り、マーガリンなどの油脂食品や塗料などの油脂を使った工業製品の生産に利用していたのです。そして国内での大豆栽培が盛んになり、大豆種子の収穫量が増えるようになった頃からアメリカでは大豆搾油事業を中心とした大豆産業が立ち上がっていきます。
このように、第1次世界大戦が始まる前には、アメリカは国内で必要な大豆油を主としてドイツから輸入していましたが、第1次世界大戦が始まり、ドイツと戦う立場になるとドイツからの大豆油の輸入は難しくなってきます。さらにドイツが敗戦したことによりドイツの搾油設備が壊滅状態になったことから、アメリカは日本と満州から大豆油を輸入せざるを得なくなるのです。こうして日本はドイツに代わってアメリカの大豆油需要に応える形で大豆油の輸出を始めます。こうして時代の流れの中で日本の大豆搾油産業は第1次世界大戦の特需ブームに乗って急速にその大豆事業を伸ばしていくことになります。まさに日本の大豆搾油産業が急速に発展拡大した時代だったと言えます。
アメリカでは1920年代後半から30年代にかけて大豆産業が力強く立ち上がっていきます。1930年までは日本や満州から大豆原油を輸入して国内で精製、加工するという事業形態をとっていましたが、アメリカ国内で大豆の生産量が徐々に増大し、それに伴って大豆油の消費量が高まってくると、今度はアメリカ国内の油脂需要に向かって満州から大豆油の輸出攻勢が始まります。満州から安価な大豆や大豆油、大豆粕が輸入されることは、始まったばかりのアメリカの大豆産業の成長を頭から抑えてしまうことになります。そこでアメリカは自国の大豆産業を保護するために大豆輸入に高い関税をかけるようになるのです。こうしてアメリカは1930年に大豆などに対する輸入関税を設けて国内産業の保護に取り掛かります。そして大豆にはポンド当たり2セント、大豆油も3.5セントの関税を、大豆粕についてはトン当たり6ドルの輸入関税を課することになります。これらに対して当時の満鉄の内部資料には「これらの関税により満州大豆のアメリカへの輸出は不可能になった」との記録が残されています。この対抗措置によりアメリカの大豆産業は安定した発展が始まることになりました。しかしこの「1930年関税法」により、この前年にニューヨークのウォール街での株式大暴落に端を発した大恐慌の深刻さをさらに拡大させると共に、各国からのアメリカへの輸出も伸び悩み、世界恐慌を深刻化させたとも言われています。しかしこうして国内産業を保護したことによりイリノイ州はアメリカの大豆生産の中心地へと成長していき、ステーレー社やA.D.M社のあるディケーター市はアメリカの大豆搾油の一大拠点へと成長していくことになります。
アメリカでの最初の大豆搾油企業は1911年にシアトルにあるアルバーズ・ブラザーズ・ミリング社が水力式圧搾機械で満州大豆を搾油したのが初めてだとされており、それに続いて1915年にはエリザベス・シティ油脂が大豆搾油事業に参入しています。1916年になるとルイジアナ棉実搾油協会は、それまでの棉実搾油から大豆搾油に切り替えることを決定しています。さらに1918年にはイリノイ州のシカゴハイオイル社が大豆搾油に取り組み、アメリカのコーンベルト地帯での大豆搾油のパイオニアになっています。このようにアメリカにおける大豆油生産は1910年代にスタートを切っていたのです。しかし、まだまだ自国の大豆を原料とするには大豆生産量が必要量には程遠く、満州からの大豆輸入に頼らざるを得ない状況が続いていました。
そして1922年にはステーレー社が大豆搾油の専門工場を建設し、アメリカでの大型搾油工場の操業が始まります。同社はエキスペラー方式と呼ばれる強力な圧搾機で大豆油の生産を始めたのです。なお、アメリカにおける近代的溶剤抽出工場の建設は1934年以降になります。そしてステーレー社に続いて1923年にはブリッシュミリング社、1924年にはハンクブラザーズ社、1926年にはウイリアムグッドリッチ社(1928年にA.D.M社が買収)、1927年にはアメリカンミリング社、1929年にはシェラバーガーグレインプロダクツ社が、そして1934年にはセントラルソーヤ社が登場してきてアメリカ大豆産業が立ち上がっていきます。こうして大豆製油工場は順調に拡大し、工場数も1934年には19、1935年には49、1942年には79、1944年には137、1945年には160と目覚ましい発展を遂げることになります。このようにイリノイ州では、相次いで世界の大豆産業を代表するような大企業が顔をそろえることになるのです。
なお、日本では大正7年(1918)にはすでに圧搾式抽出工場が15社,溶剤抽出工場が23社となり、原料大豆処理能力は2,495トン/日に及ぶまでになっていました。
こうしてアメリカ大豆産業が力強く伸び始めた1930年代後半は、丁度満州大豆の生産量がピークを打ち、漸減傾向にさしかかった頃でもあったのです。まだ数字の上では顕著には現れませんが世界の大豆生産は下り坂の満州大豆と昇り坂のアメリカ大豆という姿がこの時すでに見えていたのです。
フォード自動車と大豆
アメリカの新たな産業として立ち上がった大豆搾油に希望の光を当て、この世界に力と勇気を与えた企業がありました。1930年代に工業立国を目指すアメリカのトップメーカーであったフォード自動車が大豆を原料とした自動車部品作りに情熱を燃やしたのです。当時のアメリカは、大恐慌による不景気の中にありながらも、多くの労働者が従事していた農業分野ではちょうど大豆に対する機運が盛り上がり始めた頃でもあり、アメリカ農務省がその牽引車として走り出していた時代でした。その後の農業大国アメリカにとっては、この時期はまさに大豆にとっての黎明期にあったと言えるでしょう。そうした国を挙げての大豆への取り組み機運が高まる中にあって、フォードモーター社のヘンリー・フォード社長は大豆の利用開発に情熱を燃やしたのです。こうした大豆素材を自動車の部品として利用する取り組みは、まさに大豆の新たな可能性を世間に向かって力強く訴えていくことにもなったのです。大豆が時代の先端を走る自動車産業の材料として利用できることを知った農民たちにとっては、フォードの取り組みが大豆栽培に大きな自信と期待を与えたことは言うまでもありません。そしてそれはアメリカに大豆を定着させる大きなエネルギーになったとも言えるでしょう。
自動車が発明されたのは1885年、ドイツのカール・ベンツとゴットリーブ・ダイムラーによるものとされています。しかし、このガソリンで走る自動車のほかに、すでに蒸気自動車や電気自動車なども並存していて、必ずしもガソリン自動車が支持されていたわけでもなかったようです。現に、1895年にアメリカで登録されていた自動車3700台の内、蒸気自動車が2900台を占め、ガソリン自動車はたったの300台に過ぎなかったといわれています。ヨーロッパで生まれた初期の自動車は、一部の上流階級の人たちの娯楽としての自動車レースや、高級車としての用途に向けられており、一般庶民には手の届かない乗り物でした。この自動車を庶民が利用できる乗り物に拡げたのがアメリカのヘンリー・フォードです。
彼はデトロイト近郊の農村に生まれており、最初はエジソンが創業したエジソン電気会社に就職していました。彼はここで電気の技師長にまでなっていたのですが、ガソリンエンジンに興味を持ち、自動車会社に転職してしまうのです。そして、1903年に自分で自動車会社を設立していろいろな自動車モデルを開発するうちに、1908年に記念すべきT型フォードを完成させました。この自動車の特徴は大衆が買える安価さでしたが、それを支えたのは生産コストの削減と大量生産でした。
フォード社長が自動車を作りながら、自動車を買ってくれる顧客として頭に描いていたのは、デトロイト周辺に住む農家の人たちであったと言われています。この時代のアメリカの農業は、ロシアやヨーロッパから大量の農業入植者を募り、農産物の柱である小麦やトーモロコシの生産に取り組むとともに新しく大豆を導入して、大豆油の生産と大豆蛋白の用途開発に力を入れ始めていた時代でした。そしてアメリカ政府も大豆の生産を奨励しており、トーモロコシ、小麦などの輪作に大豆を組み入れてその栽培面積が急速に拡大していく途上にありました。現在のアメリカ国内での大豆の輸送は、ミシシッピー川を下る穀物船(バージ)と貨物列車、そして最寄りのカントリーエレベーターまで運ぶトラックなどで行われていますが、1920年ころの農産物の輸送は農家にとって大きな負担でした。農村に生まれたヘンリー・フォードにとって自動車が当時のアメリカ農業にとっていかに大きな役割を占めるかは容易に想像でき、そのことを頭に描きながら自動車作りに精を出していたことでしょう。
フォード社が大豆研究に積極的に取り組み始めたのは1930年ころからとされています。そのためにミシガン州に2万4000ヘクタールの農地を購入して大豆栽培にも手を広げると共に、周辺の農家には大豆を収穫すればフォード社が買い取ることを発表していました。そのことによって周辺の農家では大豆の栽培熱が盛り上がっていきます。
フォード社にとっては大衆自動車を開発のためには価格の低減と自動車の重量を減らすことが重要課題だととらえていました。そのためには周辺の農家が栽培した大豆を利用することが大切だと考えたのです。こうして1931年には大豆油から自動車用のエナメルを作り、抽出残滓を原料としたハンドルやギアなど10箇所ほどの部品などに大豆素材を採用することが出来ました。フォード社も小規模の大豆油抽出工場を3工場建設しており、自ら大豆油を生産するとともに研究所では大豆を化学的・物理的に徹底分析しながら大豆の可能性を追求する取り組みをしています。そしてミシガン州のリバー・ルージュにそのための専門工場を建設していきます。さらには自動車用プラスチックやペイントを製造する工場も建設し、これらを自動車部品として利用していきます。こうして約200種類の新製品が大豆から作り出されたとされています。それらは自動車部品だけでなく大豆の持つ可能性を広く求めたものであり、それはプラスチック、大豆タンパク繊維、豆乳、消泡剤、合板接着剤、そして今で言うバイオディーゼル燃料など広い分野にわたっていたようです。フォード社が開発した大豆タンパク繊維は羊毛と混ぜて自動車内部の側面を飾る室内装飾用としても利用されていました。
1934年のシカゴの進歩博覧会においてフォード社は高らかに宣言します。『工業と農業とは自然の共働者である。アメリカの農業はその生産物の需要の未成熟に悩んでおり、一方、工業は過剰労働者による失業に悩んでいる。農民は工業に対して原料を供給するだけでなく、農作物は工業の最初の工程でもある。将来農民は、一方の足で農業生産者として農地に足を置き、他方の足は現金を得るために工業の最初の工程を担っていくようになる。このような姿を実現するためにフォード社は取り組んでいる。』として、『農民が我々の得意先になることを望むならば、我々も農民の得意先になる方法を考えなければならない』と大々的にその取り組みを謳いあげました。当時のフォード社の工場労働者の4分の3は、ロシアやスペインなどから来た農業移民たちであり、その多くは大恐慌のなかで農業の苦境に苦しんでいた労働者たちだったと言われています。
このように農業生産物から工業用素材を作り出そうという動きは1930年代に入ってからアメリカで広く始まっています。このような取り組みを”Chemurgy”運動と呼んで広く展開されるようになっていきます。それは「伝統的農産物から工業材料を創り出す」ことを意味しており、ヘンリー・フォードの大豆への取り組みは正にこの流れに基づいたものだったと言うことが出来ます。このような動きはフォード社だけでなく当時の産業界は現代のようにその工業資材が自由に国際間を流通している状態でなかったので、手元にある限られた資源からいろいろな必要資材を調達しなければならなかったことを考えると、アメリカ以外の国々でも同じようなことが起こっていたことでしょう。しかし、このフォード社の取り組みがアメリカからカナダ、メキシコの一部にかけての大豆栽培熱に力を与え、農民の栽培意欲に希望の火を付けたのは確かです。こうして1936年頃にはアメリカでの大豆栽培も力強く立ち上がり、その大豆生産量も50万トンとすでに日本をしのぐほどになっていったのです。
1936年には「タイム」誌はフォードのこのような大豆に対する取り組みに対して「大豆の親友」と称しています。しかし、第2次世界大戦に入るとフォード社の工場はすべて軍需用品の製造に転向されてしまい、大豆を利用する仕事から手を引いてしまいます。そして大豆加工用の設備も他社に売却してしまいました。その後時代が移り、現代のフォード社は石油素材からの脱却し、環境保護の観点から再び大豆などの天然素材に目を向けてきていきます。フォード社の2008年モデルには大豆製発泡フォームを素材としたシート用クッションを採用することに決定しており、このことは石油を原料とする気泡クッションよりも地球環境にやさしいと消費者に広く認識されています。
このようにフォードが周辺の大豆農家に希望を与え、大豆の生産に弾みをつけたのは、時あたかも1929年10月24日の「暗黒の木曜日」に引き続く大恐慌の時代の最中であり、それに追い打ちをかけて1933年から36年にかけてアメリカ中西部を襲った大干ばつでアメリカ農業は極度の疲弊に陥っていた時代でした。このような時代背景の中で新しい時代に挑戦したヘンリー・フォードの提案は大豆の歴史を変えただけでなくアメリカの活力を再生させたと思っています。
今では、アメリカは世界で最大の大豆生産国であり、日本で消費している大豆の70%はアメリカからの輸入に頼っているのが現状です。このように強力な大豆生産力を見るにつけ、アメリカ大豆幕開け時代のこのような水面下の努力は今では遥かかなたにかすんでしまっていますが、当時の貧困にあえいでいた農民や失業者に対するフォード自動車の呼びかけがどれだけ希望を与えたことか、計り知れないものがあったことでしょう。このようなフォード社の取り組みが注目され、大豆が食品だけでなく工業材料としても利用できることを皆が知ったことにより、農民たちの目に大豆がそれまでの小麦などと違う新たな可能性を秘めている新時代の作物と映ったことでしょう。このフォードの取り組みによりアメリカでの大豆栽培が急速に拡大していくきっかけになったとも言えます。このようにして電気や水道もない当時のアメリカの農村に自動車が登場し、農村生活が近代化の道を歩み始めると同時に大豆栽培が立ち上がってくるのです。
2022.2
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