大豆が歩んだ近代史 その17
最初に大豆をアメリカに持ち込んだボーエンは、大豆が中国でいろいろな食材として使われていたことを知っていたので、アメリカで大豆栽培を試みた当時の人たちにも、その有用性はわかっていたと思われます。しかし、アメリカで大豆の栽培が始まった19世紀後半から20世紀の初頭にかけての大豆の利用はもっぱら土壌の肥沃を目的としたものでした。こうして大豆は輪作の一環としてトーモロコシや小麦の栽培に先立って蒔かれており、その生育状況の良し悪しについて問題視されることはなかったようです。しかし大豆の種子を収穫するようになると土壌細菌に対する適応性やアメリカの気候に適正な大豆品種の選別など大豆栽培の効率化を求めてアメリカの研究機関は長い試行錯誤の時間を費やすようになります。そしてドイツをはじめとするヨーロッパでの大豆の利用情報や、満州・日本での大豆の栽培事情が明らかになるにつれて、徐々にアメリカ国内でも大豆種子に対する認識が高まり、1917年になると種子生産を目的とした大豆の作付面積は5万エーカーにまで広がっていくことになります。さらに1938年には680万エーカーへと拡大しており、大豆生産国へ力強く歩み始めることになります。そこにはいろいろな栽培技術や利用技術など、すでに述べてきた各種の開発が寄与していたことは言うまでもありませんが、アメリカが今日の世界の大豆生産大国に成長していった背後にはいくつかの戦争が影響していることも無視できないでしょう。
クリミア戦争
1846年にイギリスで「穀物法」の廃止という政策変更が行われました。それまでは、穀物の輸入を制限して国内の農民を保護するという法律が施行されていましたが、経済学者マルサスと国会議員リカードの論争があり、産業資本家たちが支持するリカードが勝利します。「イギリスが穀物法を撤廃して、ヨーロッパ大陸の農業国から穀物を輸入すれば、それと引き換えにイギリスの工業製品が、それら諸国に輸出されるようになる」との主張が勝ったのです。そしてこの穀物法を廃止したことによってヨーロッパ大陸から大量の穀物が輸入されるようになりましたが国内の穀物価格は一向に安くなりませんでした。それはこの後、ヨーロッパ大陸を襲ったジャガイモの腐れ病の広がりなどにより輸入穀物の価格は高止まりのままになり、ただイギリスの食糧自給率だけが低下していったのでした。そんな時にイギリス、フランス、オスマントルコ連合軍とロシア、ブルガリアが黒海のクリミア半島で戦った「クリミア戦争」(1853-56)が起こります。この戦争でイギリスはロシアと戦ったことによって、イギリスにはそれまでのロシアから輸入していた小麦が途絶えてしまい、国内の穀物が不足するという事態に陥ってしまいました。困ったイギリス政府が新たな穀物の輸入先として選んだのがアメリカでした。このことによってアメリカは初めて穀物貿易で国際舞台に登場してきたのです。
最初にアメリカに小麦が持ち込まれたのは1777年とされています。そして1830年代になると小麦の栽培地も広がり、国内の主要な作物として栽培されるようになります。その後ロシアからの移民たちによってロシア系の小麦が持ち込まれるなどしながら徐々に栽培地が広がっていきます。アメリカがイギリスに輸出した小麦は1854年には22万トンに過ぎなかったのですが、1862年には100万トン、1880年には400万トンと大幅に増え、アメリカは19世紀末にはロシアに次ぐ世界第2位の穀物輸出国に成長していったのです。当時、これら穀物の運送を請け負ったのがイギリスやオランダの穀物商人たちであり、カーギル、ブンゲ、ドレフェスなど今日の世界を股にかけた穀物メジャーが生まれたのもこの時代でした。日本では丁度ペリー提督が浦賀に来航して開国を迫り、徳川幕府が慌てふためいていたころのことです。
このころのアメリカは西部開拓地に鉄道網が広がる、映画でおなじみの西部劇の時代であり、新しい農地の開拓で耕作地がどんどん広がっていくというアメリカ農業の幕開けの時期でもあったのです。飢饉で苦しむアイルランドやドイツなどから新天地アメリカでの自作農を夢見た農業移民たちが大西洋を渡ってきたのもこの頃です。こうして開拓された農地と入植した農業移民たちによってアメリカはクリミア戦争を契機として農業国としての基盤を確立していったのです。戦争特需による穀物の増産は、戦争終結後に起こる過剰在庫というリスクにも苦しみましたが、アメリカはこうしてクリミア戦争をきっかけにして自国の農業が大きな産業となって育っていく道を開くことが出来ました。しかし、ここにはまだアメリカ大豆は姿を見せていませんでした。
このクリミア戦争の余波がその後の満州を取り巻く情勢を緊迫化させ、結果的に満州大豆を浮かび上がらせることにつながっていきます。クリミア戦争で敗北したロシアは不凍港として目を付けていたクリミアを断念して極東の不凍港開設に関心を示すようになったのです。こうしてロシアはシベリア鉄道を敷設して満州へと目を転じてきます。そしてその流れの中で日露戦争へと移っていき、そして日露戦争後の満鉄の設立と満州大豆の拡大、さらには満州大豆の国際市場への登場へとつながっていくことになります。
南北戦争
そしてこの頃に起こった南北戦争(1861-65)によってアメリカが農業大国になるのに必要な農機具の機械化が大きく進むことになります。奴隷制度の廃止を主張するリンカーンがアメリカ合衆国(USA)を建国して大統領に就任すると、それに反対する州が合衆国を脱退してアメリカ連合国(CSA)を結成していきます。こうしてアメリカ合衆国(USA)と連合国(CSA)との間で起こったのが南北戦争だったのです。この内戦によって最も機械化が進んだのは当然のことながら戦争に使われる武器だったのですが、農機具の機械化にも大きな影響を与えることになります。国内で起こったこの戦争によって、それまで農業を支えていた多くの男性が戦場に駆り出され、残された女性と高齢者で農作業を続けなければならない状況となったのです。この南北戦争による戦死者は65万人とも言われており、当時のアメリカの人口は奴隷を除いて2,700万人程度であったことから見ると相当な人的ダメージだったことは容易に想像することができます。このような中で農業を続けるためには、高齢者や女性で農作業が出来る省力化機械の開発が必至であり、その実現に向けて農機具の開発が精力的に進められることになります。そして、それらの中から「機械式鋤」「自動式刈入れ機」などが開発され、ほかの国に先駆けて農業の機械化が進められることになるのです。
19世紀の後半になるとアメリカ農家の平均的な耕作面積は150-200エーカーに達しており、農業の機械化は避けて通れない課題でもあったのです。このような動きは18世紀末には既に鋤の改良などに始まっています。農機具の材質を木製から鋳鉄製へ、さらに鋼鉄製の滑らかな材質のものへ変わるという改良はそれ以前からも繰り返し行われてきました。そしてこれらの改良によりコーンベルト地域の農業の生産性が大きく改善されていくことになります。これらの動きは、その後のアメリカ農業の発展にとって極めて大きな役割を果たす出来事であったと言うことが出来ます。今日、中西部と言われている土地は、当時はソッドと呼ばれる芝草の密集しているような地域であり、かつては硬い粘土質の土壌で覆われていました。西部開拓時代の映画に現れるソッドハウスとはこの硬い粘土質の土で作られていた家だったのです。このような土壌を耕すことが出来たのも、この改良された鋤があったからでした。
さらに南北戦争は合衆国軍が勝利することによってリンカーン政権が樹立され、そして新政府の政策として自営農を推進していったことから農民の穀物増産意欲をさらに奮い立たせる結果となったのです。これらによりヨーロッパやロシアから入植してくる農業移民が急増し、1860年の農家戸数204万戸が20年間で倍増し、1910年には637万戸へと膨れ上がっています。このような農業環境の改善によって穀物の生産量も大幅に伸ばしており、そのことによって在庫増による農産物の価格低迷が起こっているほどです。このようにアメリカの農業基盤を初期に強化したきっかけを与えたのは、アメリカ国内で起こった南北戦争であったと言えます。
第1次世界大戦
そして、こんな時に起こった第1次世界大戦(1914-18)がアメリカの農業を活気づかせることになります。19世紀半ばからアメリカの農業はヨーロッパからの入植者たちによって、トーモロコシ中心の農業から新たにヨーロッパから持ち込まれた良質な小麦の栽培などが加わるようになっていきました。アメリカはこの第1次世界大戦には、終盤(1917)になってからドイツの潜水艦(Uボート)による商船の無差別攻撃に対抗する形で参戦していきますが、当初はヨーロッパの大戦には参加せず中立を宣言していました。アメリカでは1823年に第5代大統領のジェームズ・モンローが提唱した「南北アメリカ諸国とヨーロッパ諸国は互いに干渉しない」とするモンロー主義によって第1次世界大戦には直接参戦することはしなかったのでした。モンロー大統領がこの方針を唱えた1823年は、ヨーロッパによる南アメリカでの植民地化の動きが活発な時代であり、これらを牽制する意図で唱えられたものであったのですが、この考えはその後も引き継がれていたのです。
第1次世界大戦はイギリス、フランス、ロシアなどを中心とする連合国側とドイツ、オーストリア、ハンガリーなどの同盟国側の間で繰り広げられ、多くの国が巻き込まれた世界大戦となりました。このヨーロッパを中心に展開された戦いが長引くにしたがってヨーロッパ各地の農地は踏み荒らされ、各国は食糧の自給が難しくなるという厳しい状況に陥ります。さらにまた、途中(1918)からスペイン風邪の流行が戦場を駆け巡り、戦死者数を上回るスペイン風邪による死亡者が出るなど悲惨な展開となり、ドイツ側の敗戦によって終戦を迎えますが、一説には両軍を苦しめた戦場に蔓延したスペイン風邪が終戦を早めたとも言われています。結局この時のスペイン風邪による感染者は世界人口の1/3とも5億人ともいわれており、死者も4千万人ともいわれる大規模なものとなっていました。しかし、直接的にこの世界大戦を終結に導いたのは終盤になってのアメリカの参戦でした。アメリカは1918年11月になってこの世界大戦に参戦し、180万人の兵士をヨーロッパに送り込んだことによってドイツ軍の無条件降伏へと導くことになります。
ちなみに、日本はこの大戦を最初は欧州大戦と呼んで距離を置いていましたが、大戦が始まった2か月後には同盟を結んでいたイギリスから「極東のドイツの軍艦を攻撃してほしい」との要請を受けて中国や東南アジアにあるドイツ植民地のドイツ軍を攻撃しています。そこで保護された捕虜約4,000人を日本に連れ帰り、鳴門の収容所など全国12か所の収容所で手厚く収容しています。当時鳴門の収容所にいたドイツ人捕虜たちが日本で初めて演奏したベートーベンの第9交響曲を、当時をしのんで今も年末になるとこの収容所跡地で演奏会が続けられています。また捕虜たちは周辺の住民とも親交を深め、その後も日本に留まった菓子職人のユーハイムは神戸で菓子店を開いています。またドイツ料理バームクーヘンやビールが普及したのも彼らドイツ人捕虜の影響がきっかけになっています。
さらにまた戦争後半になって地中海で連合国軍を悩ましていたドイツのUボートを攻撃してもらいたいとのイギリスからの要請にも応えて、日本海軍が地中海に出撃してUボートと交戦しています。このように第1次世界大戦の長期化とスペイン風邪の蔓延によってヨーロッパでは深刻な食糧不足に陥っていました。これに対しアメリカは、国内の穀物生産を増やしながらもっぱらイギリスやフランスなど同盟国に対して食糧支援をしていくとの立場をとったのです。こうした支援をするためにアメリカ政府は国内に向けて「食料で戦争を勝利する」と宣言して農民たちを鼓舞していきます。農家も政府の支援を得ながら穀物の増産に協力し、そのことによって小麦の生産量は1,690万トンから2,590万トンへと一気に増大していきました。さらにその勢いは終戦後も続きアメリカ農業は戦時バブルの活況が続いていきました。
ロシアでは第1次世界大戦による食糧難がロシア革命につながります。ロシアは第1次世界大戦ではイギリスやフランスなどと共に協商国側として戦います。ロシアはこの戦いによってバルカン半島のスラブ系民族が団結してオスマン帝国からの独立を目指していたのです。しかしこの戦いが4年以上も続いたために国民の生活が困窮し不満が高まってきます。国内の鉄道は戦場への兵士の輸送を優先したために首都ペトログラードへの穀物の輸送が出来なかったのです。1917年3月には食糧を求めるデモが発生し、これに「戦争反対」や「専制打倒」などの要求も加わる「3月革命」となります。これによってニコライ皇帝は退位し、ロシアには労働者と兵士を標榜するソビエトと自由主義者たちによる臨時政府の2つが併存する格好になります。ここでレーニンが登場してきて戦争反対を叫び国民の支持を得て2017年11月にペトログラードを武力制圧して権力を掌握する「11月革命」が起きます。1918年3月にはドイツと単独で講和を結び、第1次世界大戦から離脱します。ロシアの中では社会主義革命を推進するグループとそれに反対するグループに分かれましたが、レーニンは世界各国に対して社会主義革命の必要性を主張していきます。これに対しイギリス、フランス、アメリカ、日本などは反革命軍を支援する行動に出ますが、反革命干渉軍は国民からの支持が得られず、1920年に制圧されてしまいます。こうして「ロシア共産党」が生まれてきます。
このように第1次世界大戦の食糧不足が国民の不満と政権への不信につながり国家転覆の歴史を見てきただけに、第2次世界大戦に連合国側で参戦してきたソ連は、直ちに大豆生産の新興国であるアメリカに対して大豆の供給を依頼しているのです。この時点での世界最大の大豆生産国は満州でしたが、すでに満州国は敵国の日本に抑えられており、さらに日本と三国同盟を結んだドイツに大豆を供給する体制を固めている状況の中では、ソ連も戦時中の食糧として効果的な大豆を得るのはアメリカしか選択肢は残されていなかったのです。
そしてこのような中でアメリカでは大豆の種子生産が徐々に増大していきます。それまでの大豆栽培はもっぱらトーモロコシなどの輪作に対する緑肥としての利用が主体でしたが、ヨーロッパの同盟国に対する食糧支援を機に大豆種子の生産へと大きく舵が切られて行きます。そしてその流れをさらに高めていったのが1928年に出された「ペオリアプラン」と呼ばれる大豆奨励策でした。これは農民に対して最低価格を保証するものであり、イリノイ州の農民に対して大豆1ブッセル当たり1.35ドルの最低価格を保証したものでした。この大豆栽培の奨励策に対して初年度に参加した栽培面積は約5万エーカーだったと言われています。この頃(1931-35)の平均収量は14.9ブッセル/エーカーであったのでその生産予定量はせいぜい2万トン程度と言われています。しかしその後、これら単収は栽培技術の向上に伴い1936-40年には17.9ブッセルに、1941-45年の平均が18.5ブッセルと増加していくことになります。ちなみに2019年のアメリカ大豆の単収は47.4ブッセル/エーカーと飛躍的に伸びています。こうしてアメリカはヨーロッパの戦争に対して同盟国として穀物を供給するという支援を約束したことにより大豆の生産力は大きく向上していきました。
しかし、第1次世界大戦も終了してしばらくするとフランス、イギリス、ドイツなどの国内での食糧生産も徐々に回復し、好景気に沸いていたアメリカ国内の戦争特需も急速にしぼんでしまうことになります。穀物価格の低迷はその後10年以上続き、アメリカ農業は深刻な不況に陥ってしまいます。第1次世界大戦中の増産奨励にうながされて資金を借りて農地を買い増した中小農家の経営は破綻していきました。この苦境を脱するためにルーズベルト大統領が打ち出したのが「1933年農業調整法」であり、これがその後のアメリカ農業の根幹をなすものとなるのです。この法律の最も重要な政策は、商品金融公社(CCC)を設立して生産農家の販売価格を安定化させ、穀物を担保とした低利の短期融資を受けられるようにしたことでした。政府はCCCによる農家への融資制度を大幅に緩和し農家の増産意欲を盛り上げていったために大豆の生産量は大きく伸びていきましたが、同様に小麦の生産量も開戦時の2,700万トンから1945年の第2次世界大戦の終戦時には4,100万トンへと増産され、小麦の輸出量も開戦時の200万トンから終戦時の1,100万トンへと増加しています。
第1次世界大戦以降は
第1次世界大戦の後、1919年にパリ講和会議が開かれ、ベルサイユ体制が作られ、アメリカの提案による史上初の本格的な国際平和機関「国際連盟」が設立されます。しかし世界の平和と安定は長くは続きませんでした。ベルサイユ条約のなかではイギリスとフランスはドイツを弱体化させることを優先して過酷な賠償金を課していくことになります。またロシアに対してもロシア革命の後で起こるソ連の革命思想が拡がることを警戒してこの国際連盟には両国は入れてもらえなかったのです。
第1次世界大戦の以降、日本は国際社会の中でその地位を高めていきます。そして日本はますます東アジアに目を向けるようになります。これに対してアメリカは日本の東アジアへの攻勢を警戒するようになり、東アジアの国々も日本を欧米と同じ帝国主義国家として警戒するようになり、日本は国際的に微妙な立場に立たされることになります。
日本は浜口内閣によって再び国際協調路線に戻り、ロンドン軍縮条約(1930)に、国内の反対を推し切って批准をしますが、その後東京駅での右翼による狙撃で翌年死亡してしまいます。その後も緊縮財政と国際協調路線を進めますが、国内の不景気の中で不穏な空気に包まれてくることになります。
こうした平和体制の構築の後に起こったアメリカ経済の失敗が世界戦争の新たな火種になってしまいます。アメリカは戦時経済の繁栄が続き、工業分野も農産物も大量生産が続き、供給過剰状態となり、1929年10月24日のウォール街の株価の暴落、工業・農業・企業・銀行の倒産が相次ぎ、この対応の一環としてアメリカはヨーロッパの復興に貸し付けてあった資金を引き揚げたために世界恐慌に発展してしまうことになります。それまでは第1次世界大戦後のヨーロッパ経済を支えていたのはアメリカからドイツへの経済援助、ドイツからイギリス、フランス、イタリアへの賠償金、イギリス、フランス、イタリアからアメリカへの戦償支払いによって戦後復興が安定していたのですが、アメリカが資金を引き上げたことによりドイツ経済は破綻をきたし、激しいインフレに陥ります。
ドイツは1924年からアメリカの資本を導入して経済を立て直し、そのことによりヨーロッパ経済も安定し、ドイツは1926年に国際連盟に加盟することが出来るようになっていたのです。しかし世界恐慌が始まるとアメリカはドイツから資金を引き揚げる保護主義へと移行します。これに対してヨーロッパもブロック経済をとり、それ以外の地域からの輸入に高い関税をかけることになるのです。これに対してアメリカも高い関税で報復し、これによって経済基盤が弱いドイツ、イタリア、日本などが世界経済からはじき出されてしまうのです。こうしてファシズムが起こり、ドイツではヒットラー体制が出来て、国際連盟から脱退(1933)して軍備拡張を始めるようになります。イタリアもムッソリーニの一党独裁体制となり、日本では満州事変から満州を建国して、これに反対した国際連盟から脱退することになります。国際的に孤立した日本はドイツに接近し、日本、ドイツ、イタリアで共産主義に対抗する協定が結ばれ(三国防共協定、1937)、ドイツはポーランドに侵攻し(1939)、これに対してイギリスとフランスはドイツに宣戦布告して第2次世界大戦となっていきます。
2022.2
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