大豆が歩んだ近代史 その16

「アメリカへ渡った大豆」

 

アメリカへ最初に大豆を持ち込んだ人物はSamuel Bowen(サムエル、ボーエン)というイギリス生まれの船乗りでした。彼は1758年にイギリスから清国(中国)に向けて航海をしていました。そして翌年に広東に到着するとそこで同伴船のサクセス号に乗り換えてさらに天津へと向かいます。この頃の清国は広東以外での対外貿易を禁止していたので、ボーエンはそこで捕らわれてしまいます。この頃の清朝の外交は近隣諸国の王が清の皇帝に貢物をし、それに対して高価な返礼をするという朝貢を基本としていました。そしてこれら朝貢関係にない外国に対して開かれていた港は広州1港だけでした。

この航海は東インド会社が清国との交易を開くために彼に依頼したものでしたが、清の皇帝は外国からの侵略を恐れて彼を拘束してしまったのです。当時の東アジアの国は、清国だけでなく、国同士の外交という考え方はまだ無かったのです。東アジア諸国が欧米諸国と国同士の国交を始めるのは、清国がイギリスと戦ったアヘン戦争(1840年)以降のことで、南京条約という不平等条約が結ばれてからのことです。この時に清国はイギリスに続いてアメリカ、フランスとも同様の不平等条約を結ぶことになります。アメリカは1853年になると、ペリー提督率いる黒船で浦和沖に現れて日本に国交を開くよう要求し、いったんは帰国するが翌1854年に再び来航し、「日米和親条約」を締結して日本もここで外国との国交を開くことになります。

 

ボーエンは4年間の投獄の後釈放されますが、このことも中国の記録に残されています。彼は釈放されたのち、1763年に英国に引き返して航海依頼主から1758-63年間の賃金と慰労金として合計約80ポンドの報酬をもらっています。彼はその金を持って1764年米国ジョージア州サバンナに移住することになります。その時彼は中国から持ち帰った大豆をアメリカに持ち込み、税関長のヘンリー・ヨングに渡して大豆を自分の畑に蒔くよう持ちかけています。翌1765年ヨングは自分の農場にこの大豆を蒔きますが、これがアメリカにおける最初の大豆栽培である、と考えられます。ヨングは1766年にロンドンにある団体役員宛に次のような書簡を出しています。「サムエル・ボーエンが最近清国から当地へ持参したPease またはVetchと称するものはボーエンの依頼により私が昨年栽培しました。3回も収穫することが出来ましたが、1週間以上も霜害に耐えることができるので、この地で栽培する4番目の作物として取り上げるべきだと思います、というのは簡単に増やすことが出来るので、この土地や皇帝陛下の支配下にあるその他のアメリカ南部地方の土地に大きな利点や利益をもたらすであろうと思うからです」こうしてボーエンが持ち込んだ大豆はアメリカの大地に育ち最初の大豆の実を稔らしたのです。

 

何故ボーエンは清国を去るときに大豆を持ち出したのか、それは清国で捕らわれていた時に清国の船乗りたちが遠洋航海するときに大豆を持ち込んで、それを船上で大豆もやしを作りながら長期の航海を無事にしている噂話を聞いていたからでした。当時の船乗りにとっては長期の航海で起こる壊血病は死を意味する恐ろしい病気だったので、船乗りだったボーエンは敏感にこの大豆の有用性を感じ取りイギリスへ帰る航海でも、その後のアメリカへの航海にも船の中に大豆を持ち込んでいたのでした。彼はそのことを後に手記で述べています。

 

 ボーエンはサバンナで税徴収官の娘と結婚し、土地を買って農業を始めています。彼はここに534エーカーという広い土地を手に入れています。またボーエンは大豆を新大陸に導入したことにより英国政府から表彰されています。記録によれば、ボーエンは1766年から徐々に醤油や大豆入りスパゲティ等を9年間に亘って英国に輸出しています。そして1769年と1774年の2回、いずれも醤油やスパゲティを携えてイギリスへ行き、いろんなところで大豆のすばらしさを語っていたようです。記録によると、彼はその後、英国革命戦争において王制側で戦い、177712月に死亡しています。アメリカ合衆国が建国されたのが1776年ですからこれらの記録はアメリカの中には残っていません。このボーエンがアメリカに持ち込んだ大豆は、その後も栽培が続けられたという記録はなく、途絶えてしまったようです。当時はまだアメリカは独立前であり、アパラチア山脈を越えた先はフロンティと呼ばれていた時代でした。このように大豆はアメリカが建国される前にはすでにアメリカの地に持ち込まれていたのです。

 またこの頃に、凧で稲妻と電気の放流が同じであることを実験で示したベンジャミン・フランクリン(1706-90)が1770年にフィラデルフィアに住む友人に宛てた書簡の中で、「Green dry peasを送るが、中国ではこれからチーズを作っている」として、その作り方やマメついてのことなどを書いて送っています。このpeasとは前後の文脈から大豆を指していることは明らかであり、彼が手紙に書いた、中国で作られている大豆から作られるチーズとは豆腐のことを指しているのだろうと想像されます。

 

 アメリカへの、その後の大豆の持ち込みには2つの特筆すべき出来事があります。その一つは1851年に遭難して救助された日本人がアメリカに大豆を持ち込んでいるのです。185012月に香港を出航したアメリカ商船トークランド号は日本の約600マイル沖合で小型船に乗った17人の日本人漁労民を救助します。彼ら日本人の漁師たちは測機儀、航海図その他種々の品物が入った小箱を持っていましたが、その中に大豆も入っていたのです。日本の漂流民を救助したアメリカ帆船は日本人を乗せたまま18513月にサンフランシスコの港に帰っています。サンフランシスコ港に入港した後、彼らは検疫のために隔離されましたが、この時に検疫を行ったのがイリノイ州出身の医師B.F.Edwards(エドワード)でした。彼は日本人から大豆をプレゼントされており、これを"Japan Pea"と記録に残しています。エドワード医師はこの大豆をイリノイ州アルトンに持ち帰って、自分の友人で園芸が趣味のJ.H.Lea(リー)に贈っています。その後この大豆は1852年にはCommissioner of Patents(農業委員会、1862年に農務省が設立されるまではこの農業委員会が農業関係を担当していた部署)に渡されてイリノイ州からアイオワ州、さらにはニューヨーク州、コネチカット州の農業機関や農家に配布されて広がっています。イリノイ州といえば今やアメリカ大豆生産のメッカですが、この地に最初に持ち込まれたのが日本大豆であったということになります。1853年にはこれらの栽培報告書が提出されています。

同じ頃にやはり土佐の漁労民であった14歳の、後のジョン万次郎が鳥島に漂着していたのをアメリカ船に救助されてアメリカに渡っています。彼はアメリカで学校にも通い、日本に帰ってきたのが1851年でした。これらは海外渡航が禁止されていた中で起こったことであり、その後の時代を動かす出来事となっています。

 もう一つは、1854年に日本に来航したペリー提督が日本から2種類の大豆をアメリカに持ち帰り、やはり農業委員会に提出しています。そのときの記録では大豆のことを"Soja bean"としています。この大豆種子もアメリカの農民に配布され、各州の農業委員会からその栽培報告書が出されています。

 

 ちょうどその頃(1848-55)にアメリカではゴールドラッシュが始まり、一獲千金を目指して多くの人たちが南部カリフォルニアに集まってきますが、多くの中国人もこの頃にカリフォルニアに入ってきます。そしてその流れに乗って日本人の移民もこの地に入っていきました。こうして大豆の食習慣を持つアジア人がカリフォルニアに集中することになり、アメリカのごく一部の地域に過ぎないが大豆食品を食べる風習が根付くようにもなります。そして1879年には日本の醤油メーカーである亀甲萬社(現在のキッコーマン社)の茂木佐平治は、そのカリフォルニア州に自社ブランドを登録し、アメリカ西部の日本人移民に向けた醤油を輸出し、販売を始めています。その後こうした動きは醤油に止まらず、豆腐や味噌工場の建設へと発展していきます。すでにハワイでは日本からの移民により豆腐や醤油などの大豆食品が定着していましたが、その流れはアメリカ本土にもわたってきたことになります。ハワイに移住した日本人移民は自分たちで豆腐を作っていて、食べなれた食習慣をハワイの地で続けていたようです。

 

大豆品種改良に貢献した人々

アメリカで積極的に大豆栽培をしていこうとすると、どうしてもアメリカの気候に適応した大豆品種を見つけることが必要になってきます。その大豆の品種改良に大きな足跡を残した功労者は、大豆の遺伝資源を収集したW.J.Morse(モース)でしょう。モースはコーネル大学を卒業すると同時に大豆と深くかかわっており、すでにその頃に「大豆」という本も書いています。彼は1925年にはアメリカ大豆協会(American Soybean Association)を設立して三度会長を務めています。そして1929年から3年間、Dorsett(ドーセット)とともに日本・満州・朝鮮へ大豆の遺伝資源の探索旅行を行っています。それは彼らがワシントンDC近郊で行った大豆の試験栽培によって、大豆種子を選択することによって収穫量が大きく影響を受けることを知り、より良い大豆種子を探すために探索旅行を思い立ったのでした。この頃にアメリカで栽培試験に供していた大豆品種はたったの8種類だけだったと言われています。

 

 この頃のアメリカは、ちょうど農業国への幕開けを迎えていた時期でもあり、農民達は新しく導入された大豆に大きな期待をかけていました。当初、大豆はトーモロコシや小麦栽培を安定させる輪作の一環として取り入れられ、農地の肥沃、輪作傷害の回避、農作業の分散化などを目的としたものでした。それらは大豆の種子を収穫するというのではなく土壌に窒素分を取り入れて次年度の作物の収量を高めるのが目的でした。しかし、大豆の高蛋白、高脂肪という品質面での特徴が認識されるにしたがって商業作物として重要な地位を占めるようになっていくのです。1923年に出版されたモースとピッパーの二人のアメリカ農務省技官によって書かれた大豆の本にみると、この頃すでに緑肥効果・サイレージなどの利用法にとどまらず、大豆種子の生産についても広く検討されていた様子がうかがわれます。そこに記載されていた大豆の利用法についても、大豆油の使い方の他、枝豆や大豆モヤシ、さらには豆乳や大豆カゼインなどの利用について記載されている他、アジアでの大豆の使われ方として豆腐、凍豆腐、納豆、湯葉、味噌についても詳しく書かれており、大豆が幅広く利用されている状況を示すものとして注目されています。 (“The Soybean”  by Charles V.Piper and William J. Morse  McGraw-Hill Inc. N.Y. (1923)

 

19292月には、モースはドーセットと共に日本へ大豆の探索旅行に来ています。当時、モースもドーセットも共にアメリカ農務省(USDA)の研究員でした。彼らはその年の3月には横浜に到着し、東京の帝国ホテルに投宿しています。ここでアメリカ大使館の援助を得て日本人の通訳兼助手を雇い、三会堂ビルの2階を借りて、ここに暗室と実験室を設置しています。そして4月から10月まで、本州から北海道にかけての範囲で大豆などの探索・収集活動を行っています。さらに10月の後半から11月にかけて朝鮮に渡り同様の収集活動を行っています。この時に彼らは朝鮮でソ連の有名な植物学者であるN.I.ヴァヴィロフと遭遇しています。彼らは一緒に朝鮮ホテルに投宿して、翌日には三人で朝鮮総督府水原農事試験場に行き、そこでも収集遺伝資源などの調査をしています。(ヴァヴィロフは後にスターリンを怒らせたことにより監獄で餓死したとされています) モースとドーセットは朝鮮から再び日本に帰り、今度は翌年の3月まで日本の大豆産業について調査しています。

 

 3月からは満州の大連に渡りますが、ここでドーセットは病気(肺炎)になり、ここからはモースの単独探索旅行となります。モースは満州一円を広範囲に調査し、この地域の大豆の栽培状況、市場の様子、加工技術など全般にわたって調査し、大豆種子の収集なども行っています。この頃には広く大豆の有用性が知られていたので、満州へはいろいろな国の植物学者が遺伝資源の収集に来ていたようです。前述のソ連のヴァヴィロフの他にもドイツの大豆研究者L.Miller(ミラー)も収集に来て、満州や日本で大豆の調査研究をしています。ソ連の植物学者のB.W.Skvortzowも満州でモースと会っています。彼は後にアメリカの大豆生産に種々のアドバイスをしており、アメリカの大豆産業発展に少なからず貢献しています。

 このように1920年代の終わりから1930年の初めにかけて満州は大豆資源の探査収集で先進国から注目されており、その後の東欧諸国での大豆栽培には、ミラーの収集した遺伝資源が大いに貢献したとされています。モースは193012月に満州から再び日本に戻り、大豆粕の利用に関する調査報告書を作成し、翌19312月に日本を出発して帰国の途に就いています。病を押して最後までモースと別行動で調査活動をしていたドーセットも続いて帰国しています。

 

 二人の探索旅行の成果

 モースとドーセットがこの探査旅行(正式名称はOriental Agricultural Exploration Expedition)で収集した資料は全部で9,000点の種子とその他の遺伝資源でした。このうちの半数が大豆であり、残りは230属にわたる植物資源でした。彼らは個人的な伝手を頼って、野菜や果物市場、食品や花卉の展示会、農事試験場、植物園、種子会社、農園、大豆その他の食品加工工場、さらには原野や畑などから各種資源を収集していたのです。この調査・収集活動には日本の満鉄も深く関与しており、彼らは満鉄の研究員からいろいろな助言、サポートを得ています。

 

 このような活動の成果は、その大部分を5枚のシートからなる植物標本集として残しており、これを合計814冊作成しています。また、白黒のスチール写真3,350枚、白黒映画フイルム6,700フィート、カラーの映画フイルム2,400フィートなどを撮影して持ち帰っています。彼らはその他に蝶、蟻、蜂、クモ等昆虫の標本も収集していたようです。出版物も210冊、大豆関係の食品341種類、竹細工製品も236点持ち帰ったとされています。

 持ち帰った大豆は最初、バージニア州の農場で予備的な簡単な評価をした後、オハイオ州の農場へ移してここで増やし、最後に全国の農事試験場に配布して栽培試験に利用されています。この収集旅行によって集められた大豆種子は、その後のアメリカ大豆の品種改良に使われ、耐病性を持った大豆の品種改良や、さらには耐虫性、特に土壌線虫耐性品種の開発や収量増加などの研究に大きく貢献しています。

 モース一行の探索活動の多くは日本と満州で行われていました。当時の満州での大豆事業の主体は満鉄が行っていた時でもあり、日本ではもちろんのこと満州や朝鮮においても、その調査活動の支援には日本の担当者が案内し、サポートしていたのです。しかしあまりにも徹底した調査に対応した満鉄幹部は非常に危機感を抱いたという記録が残されています。しかし、「結局は、大満鉄としての襟度を示し、最後まで彼らの調査に対して好意的な援助を行っていた」と、モースの案内人を務め、後の「大豆の栽培」の著者でもある佐藤義胤氏は述べています。こうして我が国は彼らの資源探索活動に対して全面的に協力していたことがわかっています。

 彼らが持ち帰った大豆種子をベースにアメリカ農務省の試験場では品種改良を繰り返し、41品種がアメリカの大豆種子として完成しています。それらの中には「めのう」、「皇帝」、「富士」などという日本名がついた大豆もあったようです。こうして品種改良された大豆は飼料用としてよりもむしろ枝豆など食用として用いられる品種になっているようです。アジアから持ち帰った遺伝資源としての大豆はその後も品種改良のベースとして活用され、アメリカ大豆の急速な生産拡大の大きな礎となっていることは間違いありません。ドーセットは探索旅行が終わると農務技官を退官していますが、モースはその後もUSDAに留まって大豆の研究に取り組み、アメリカ大豆の発展に貢献しています。

 こうした取り組みによってアメリカ大豆発展の基盤が整って行ったのです。

 

                           2022.2

 

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