大豆が歩んだ近代史 その15

「アメリカ大豆の幕開け」

 

アメリカ大豆の立ち上がり

 19世紀の半ばからアメリカ農業は大きく動き出します。1862年になるとリンカーン大統領によって連邦農務省が創設され、いくつかの農業推進制度が制定されます。大豆については、初めは物珍しい作物として眺められていましたが、そのうちに青刈りや干し草にして家畜の飼料としての利用や、緑肥として直接田畑へ鋤き込んで利用されるようになります。こうして19世紀最後の20年になると大豆に対する動きが活発になり、いろいろな研究機関が大豆の試験を始めるようになります。ラトガス大学での大豆栽培試験の発表(1878)、テネシー大学での大豆の耐寒性・耐干ばつ性の評価(1881)、コーネル大学では大豆を栽培し、家畜飼料としての評価が優れているとの報告が出されました(1882)。ニューヨークの新聞によって、大豆はトーモロコシと小麦の中間の役割を果たすと評価する記事が出され(1882)、さらにはサウスカロライナ州の農事試験場でも大豆を栽培し1エーカー当たり10-15ブッセルの収穫があったとの報告(1889)、カンサス州農事試験場での栽培試験(1890)と耐干ばつ性と飼料の価値を高く評価する報告(1891)などの記録が残っています。さらに1890年代になると各地の農事試験場から次々と研究報告が出されるようになります。それらの試験を行ったのは、ルイジアナ州、マサチューセッツ州、ロードアイランド州、デラウエア州、バーモント州、ニューハンプシャー州、バージニア州、オクラホマ州、オハイオ州、アラバマ州、インディアナ州、コロラド州、テキサス州、サウスダコタ州、ウイスコンシン州、ワシントン州、ミズーリー州などに亘っていました。19世紀最後の年にはカンザス州農事試験場で大豆の栽培法、生産コスト評価、飼養試験結果などについて本格的な検討結果が発表されました。アメリカ農務省も1889年にはアジアでの大豆種子の採取活動を行っており、大豆に対する取り組みが始まっています。大豆に関するアメリカ農務省の専門的な報告書が初めて出版されたのは1899年でした。こうして大豆に対する関心が高まったところで19世紀は終わります。

 

20世紀初頭、アメリカ大豆の幕開け

20世紀初頭のアメリカの農民たちの大豆にたいする評価は、まだ牧草の一種として見るか、あるいは緑肥としてトーモロコシなどに対する肥料効果を期待して栽培されていたのに過ぎなかったのでした。だから当時の栽培地域は現在の主要な大豆生産地域とは大分異なっており、ノースカロライナ、バージニア、ミシシッピー、ケンタッキー、アラバマなど南部の諸州が中心だったのです。1920年代になると生産地は順次北西部に移っていき、1924年になると現在のコーンベルト地帯の中心地であるイリノイ州がトップの大豆生産州となり、続いてインディアナ、テネシー、ノースカロライナ、ミズーリーと続くようになります。そしてもう少し時代が下がり、大豆が搾油作物としての評価が高まるとさらに栽培地域の集中化が起り、搾油工場の周辺地域で大豆栽培が盛んになってくるようになります。それは、当時としては大豆を遠くまで運ぶことには大変な労力を要したからでした。

アメリカにおいて大豆の生産量や栽培面積などの統計資料が出されてくるのは1924年からです。ですからそれ以前の大豆生産については必ずしも正確だとは言えませんが、断片的に残されている資料によると、1907年の大豆の栽培面積は5万エーカー以下であり、10年後の1917年には50万エーカーに広がったとされています。そしてこれらの大豆も、その大部分は緑肥として畑に鋤き込み、トーモロコシや小麦栽培の肥料とされていたものと、干し草として家畜の飼料に使われていたものだったのです。大豆種子が公式統計として現れるのは、1919年の3万トンが最初であり、続いて192425年にはそれぞれ133千トンとなり、その後1929年には24.5万トンへと増加しますが、ここからアメリカの大豆の生産はドライブがかかるようになります。それは大豆の栄養価値が広く認識されるようになったことと、当時の大豆の供給国の満州が日本に抑えられることに対する危機感が高まり、自国の大豆産業を保護・育成するために満州からの大豆輸入に高い関税をかけ自国生産を保護するようになったからです。さらに第2次世界大戦が始まると連合国から戦時体制に必要な大豆の需要がアメリカに集中したことにより大豆の価値が大きく見直されたからです。その結果、第2次世界大戦の開戦時(1939)に247.5万トンであった大豆の生産量は、3年後の1942年には520万トンへと急速に生産量を増加させていきます。このようにアメリカの大豆生産は最初の統計資料が示された1919年からの10年間、さらに1929年からの10年間でそれぞれ10倍と生産量を上げるとともに、世界戦争がさらにアメリカ大豆を押し上げていくことになります。これらの状況については後の項で詳しく説明していきます。

 

アメリカで大豆が立ち上がる時代背景

 アメリカで大豆栽培が定着していく過程で、それを支えたいくつかの出来事がありました。それについて眺めてみたいと思います。

 

   干ばつに強い作物としての評価

その一つとして、アメリカの農作物の中で大豆が干ばつに強い作物とみなされていたことでした。

19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカには多くの農業移民がやってきます。その多くの人たちは大平原を開拓しながら小麦などの穀物生産をしていました。そして深く耕された土壌の乾燥化が始まります。ここに添付した砂塵の光景は1935414日にオクラホマ州で発生した「ダストボウル」(砂嵐)の光景です。アメリカの農家は1935年を中心とした数年間はこのダストボウルによる沙漠化に苦しんでいたのです。

アメリカでは1830年にジョン・ディアという鍛冶屋が2頭の馬で引く犂(すき)を開発しました。この犂の普及によって中西部の草原は急速に開拓が進み、多くの入植者が入って耕作地を拡げていくことになります。この農家にとって有難い犂を皆は愛情をもってプレーリー・ブレーカー(草原の開墾者)と呼んでいました。しかしこの犂を使って小麦やトーモロコシなどの作付けをするために畑を掘り起こしたことにより40万平方キロに及ぶ農地の荒廃が始まり、雨や風による表土の喪失と、さらには干ばつが重なったことにより作物は壊滅状態になりました。実はこのハイプレーンの地下には大量の地下水が眠っていたのです。しかし当時はそのことについても十分に知られておらず、これらの地下水を利用する技術もありませんでした。

 

この少し前に第1次世界大戦(1914-18)がはじまると戦場となったヨーロッパでは農地が踏み荒らされて農作物が収穫できなくなり、ヨーロッパに向けた穀物輸出が活発になります。特にヨーロッパから海を隔てたアメリカには多くの需要が集中しました。こうしてアメリカでは収穫された穀物には高値が付き、農民は耕せる土地は手当たり次第に耕していったのでした。そして掘り起こされた耕地が拡がるにつれて、耕地の乾燥が頻発し、干ばつが繰り返し起るようになったのです。特に1934年から1936年にかけての砂嵐が激しく、この時期にはたびたびダストボウルが起こり、砂塵が空高く舞い上がっていたのです。春の砂嵐は5000mの上空まで舞い上がり、黒い渦をまくダストボウルが農地を吹き荒らして、まさに「死の土地」と化してしまいました。こうして農地の40haがサハラ砂漠のように荒れ果て、350万人が土地を追われるという最悪の状態に陥ったのでした。この様子についてはスタインベックの「怒りの葡萄」という小説に詳しく書かれています。この悲惨な状態を脱するために、アメリカ政府は直ちに「土壌保全法」を制定しましたが、このころからアメリカ農業は風と水によって起こる土壌の流失との戦いが始まったのです。

 

政府はこの土壌保全法の一環として干ばつに強いとされている大豆などの作物を指定し、これらの指定作物を栽培すると補助金が出る仕組みを作りました。それはすでにいくつかの栽培試験によって大豆が干ばつに強い作物であるとの報告があったからです。こうして干し草用大豆と畑へのすき込み用大豆は、さらに土壌保全作物にも指定されることになり、その栽培地域を広げていくことになります。

大豆は干ばつに強いことの他にトーモロコシより遅く播種してもよく育つという利点がありました。またその収穫期もトーモロコシとダブらないことなどから農民にとっても非常に栽培しやすい、都合のいい作物だったのです。それは大豆が、激しい降雨や後霜などの天候不良によって播種や発芽が悪かったトーモロコシからの転換作物として栽培できる作物として、農家にとって便利な作物でもあったのです。こうして大豆は春先の発芽不良などの被害を受けたトーモロコシの後に植える作物としても奨励されていきました。 

多くの農家では一般的に輪作が行われていましたが、そこでは大豆はそれまでのエンバクに代わる有効な作物とみなされ、多くの農家では大豆、トーモロコシ、小麦の輪作を行うようになっていきました。それはトーモロコシを大豆の後作で栽培すると収量が上がるという研究報告もあり、輪作の仕方も大豆を中心にいくつかの組み合わせが取り上げられ、農家の間では大豆の作付けに期待が高まっていきました。

 

もう一つ、このダストボウルに対する対策として検討されていた中に、春に耕地を耕さない「不耕起栽培」が提唱されるようになります。1940年代には春先の風の強い時期に表土を掘り起こす従来の方法に対して疑問の声も上がっていましたが、多くの農家は長年にわたり春の種まきの前に耕すことは正しいことと信じ込んでいました。耕すことによって種子が均一に発芽し、さらに土壌中の有機物が掘り返されて空気にさらされることにより、それらは分解されて作物の成長を促進させると思っていたのです。前年の秋に作物を取り入れた後に生えてきた雑草をそのままにして種まきをするということは、雑草に埋もれて発芽してきた作物が元気に育たないのではないか、とも思っていました。やはり一番の懸念は雑草に対する不安だったのです。しかし、少しずつ不耕起栽培に対する支持者が現れ不耕起栽培をしても収穫量に不安がないことを知るようになり、この農法の普及が少しずつ広まっていき、今では大豆栽培に不耕起栽培が定着しており、ダストボウルも今や昔話になってしまっています。

 

   地下水の活用

ハイプレーンズと呼ばれる平原地帯の地下に水層があることは早くから知られていたが、それを農業生産に利用しようとの動きはありませんでした。1940年代になって本格的な調査が行われ、それら帯水層はコロラド州全体が12メートルの深さに沈むほどの膨大な水量であることが分かりました。これらの地下水は「オガララ帯水層」と名付けられました。そしてその水量は五大湖のヒューロン湖に匹敵するものであることが明らかになり、さらにそのオガララ帯水層は、北はサウスダコタ州から南のテキサス州までに広がっていることも明らかになりました。

 

 第2次世界大戦後になって高度な掘削技術が開発されると、この技術を利用した灌漑システムが導入されて、オガララ帯水層の水を使った穀物生産が始まります。それによってこれまでは荒れ果てた平原であった地域がアメリカを代表するような豊かな穀倉地帯に変身することになります。こうして1950年代以降の好景気を支えたアメリカ農業は、その一翼をオガララ帯水層の水を吸い上げて栽培した穀物とそれらを使った畜産農業で築かれていきます。始めのうちは風車を使っての地下水の吸い上げでしたが、この状態ではオガララ帯水層の水量が減ることはありませんでした。しかし大量の灌漑施設が開発されると、これら技術を利用した農地が急速に広がります。こうしてコロラド州などで見かけるスプリンクラーを使って丸く散水する農場が普及していくことになります。そして地下水を利用した農業が大幅に拡大したことにより、オガララ帯水層へ流れ込む水量をはるかに超える地下水が使われることにより現在ではこれらの地下水は大幅に減量してしまっています。現在ではオガララ帯水層の水量は当初の1/3以下になっていると言われており、この地域の農家はこの土地が再び砂漠化してしまうのではないかとの心配が広がっています。アメリカでこれら地下水がなくなれば単にアメリカだけの問題ではなく世界の食糧供給の大きな危機に直面することになります。維持再生型(サスティナブル)農業をどう取り戻せるのか、アメリカ農業が直面する大きな課題であると言えます。

 

 これらの地下帯水層の水利用はアメリカだけにとどまらず、アラビア半島、トルコ、シリア、イラク、イラン、インド、バングラデッシュ、中国、オーストラリアなどでも畑の灌漑用水として地下水を使った農業が盛んに行われているのです。2050年には世界の人口が90億人になると想定されています。世界の地下帯水層の枯渇は地球上の食糧危機に直結している問題なのです。

 

                     2022.2  

 

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