大豆が歩んだ近代史 その14
満州国の建国
ヨーロッパ全体への満州大豆の輸出は、1918 年から 1925 年までは日本向けよりやや多い程度でしたが、1925 年からはさらに急増し、1927 年の輸出量は日本向けの約 2 倍に、さらに 1932 年になると、ヨーロッパ諸国における満州大豆油の需要は 1925 年と比べて 3 倍以上へと急速に拡大していきます。このように満州大豆が大きな商品価値を発揮するようになった1932年3月1日に関東軍は満州国の建国を宣言し、自分の管轄下に置くようになります。ここではまず満州国が建国されたいきさつについて書いておきたいと思います。
日露戦争での講和会議でそれまでロシアが持っていた満州地区の鉄道路線を日本が譲り受けて南満州鉄道株式会社を運営し始めたのが1906年でした。そしてその沿線の警備をすることで配備されていたのが日本陸軍の一組織である関東軍でしたが、地元満州の軍閥との軋轢の中で徐々にその役割を拡大していき、ついにある策謀を巡らすことになります。
満州の中では当時、地元軍閥の張学良などによる排日運動が激しさを増していました。これに対して陸軍は1931年6月に軍事行動による満州占有計画を策定していて、そのタイミングを探していました。そんな時に起きたのが、満州北部で調査活動をしていた中村震太郎大尉と部下1名が張学良軍に拘束され殺害、遺体を焼却されるという事件が起きました。この事件に対して関東軍、陸軍、政府でそれぞれ意見が分かれましたが、この事件を新聞で生々しく報道されたことにより国民は軍事行動を支持するようになります。こうして1931年9月1日に関東軍は満鉄の鉄道を爆破して、これを地元軍閥の張学良の仕業だとして満州のいくつかの拠点を攻撃して一気に占領してしまいます。翌日にはさらにほかの沿線都市も占領していきます。こうして関東軍による満鉄列車爆破事件「柳条湖事件」が発生し、直ちに奉天など主要都市への攻撃命令を発します。こうして「満州事変」が始まりました。これに対して張学良は蒋介石の方針のもとに関東軍に対して抵抗せずに撤退します。
しかしこの満州関東軍の一連の行動は日本政府や陸軍の方針を無視した独断専行であり、これに対して日本政府は「不拡大方針」を閣議決定してこれ以上の軍事行動を起こさないように指示します。しかし関東軍はその動きを止めず、さらにその他の都市へも出兵して南満州をほぼ制圧してしまいます。この関東軍の動きに対して政府と陸軍は関東軍の独走に押し切られる形で、朝鮮軍の満州への派遣を追認してしまいます。
これら日本の動きに対して中国の国民政府主席の蒋介石は国際連盟に日本の暴挙を提訴します。国際連盟はこれに対して直ちにリットン調査団を結成して調査することを決定します。しかし関東軍は、さらに満州国を建国することを考え、清朝最後の皇帝溥儀を天津から満州に連れてくることを計画します。しかしこの関東軍の方針に対して日本政府は反対しますが、満州軍は独走して軍事作戦をさらに広げ、ソ連の権益領域の北満州まで軍事展開を広げていきます。これに対して国内の新聞はこれら関東軍の拡大戦略を好意的に報道し、国民の戦争熱を煽ることになります。新聞社にとっては戦争熱が高まれば新聞の発行部数が伸びて営業成績が高まることを期待したとも言われています。
こうして1932年3月に関東軍は溥儀を皇帝に向かえてついに満州国を独立させます。これら満州国の建国は全くの関東軍の独走であり日本政府の方針を無視したものだったのでした。さらにこの時犬養首相はこの、満蒙を中国中央政府から分離独立させるという関東軍の案には反対でした。これら陸軍の方針に抵抗する政府の姿勢に不満を持つ軍若手将校たちによって犬養首相は5月15日に銃撃されて死亡してしまいます。これら首相をはじめとする要人たちを襲撃した犯人たちはその後軍法会議に掛けられますが、彼らの行為は美談化され英雄視されるようになります。そして陸軍の力に押し切られたように後追いの恰好で関東軍による満州国の建国宣言を9月になって政府は追認することになります。さらに閣議で協議された「満蒙問題処理方針要綱」では、満蒙の政治・経済その他重要な要素は関東軍が実権を掌握することになります。こうして国内では軍部の圧力が強まり不穏な雲行きになっていきますが、これには国民は大喜びで国内の士気も高まっていきました。
当時我が国が発表した満州国の独立に対して、我が国以外で満州国を承認したのは、ドイツ、スペイン、イタリア、ポーランド、バチカン、タイ、ビルマ、フィリピンなど17か国でした。そして1932年10月に国連のリットン調査団の報告書が公表されました。その内容は、「満州事変は日本の侵略行為である。満州国は地元住民の自発的な意志による独立とは言い難い。」としたうえで「満州における日本の条約上の権益、居住権、商権は尊重されるべきである」とされる。つまり、満州事変は侵略であるとしながら日本の満州での権益は認めるという妥協的な内容であった。こうした判断になった背景には、リットン調査団の構成メンバーは当時植民地をもっていたイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアの各国委員が担当したからであり、自国の植民地政策を守る動きにもつながっています。しかし、付帯事項として「満州国についての紛争解決には、国際連盟派遣の外国人顧問指導の下で行政を行い、満州は非武装地帯として国際連盟下の特別警察機構が治安の維持を行う」としたので、これに日本は反発することになります。
こうして日本が満州国を建国して支配を強めていったことにより当然のこととして日本への大豆輸出が急速に増えていきます。こうした中で1932年には第1次移民団493名が満州に向けて派遣されます。これら満州移民団は、@我が国の農村の過剰人口対策、A満州国内の日本人比率を高める、B軍や警察に代わる治安維持のために農業経験のある在郷軍人の移民、などを目的として行われました。これら日本からの移民に対しては、現地にいる中国人居住者の土地を低価格で買い取って立ち退かせるなど強引な方法で土地を取得して移民してきた日本人に大豆栽培をさせていきます。当然のこととして中国国内ではこれら日本軍の振る舞いに強い反発が起こってきます。
しかし日本政府は昭和8年(1933)3月には国際連盟を脱退すると共に関東軍は万里の長城を越えて中国河北省まで進軍することになります。これに対して日本政府は国際世論を意識してこの行為には難色を示すのですが、関東軍の独走を止めることが出来ませんでした。そして関東軍は昭和8年5月には中国軍との間に「塘沽停戦協定」を締結し、ここに満州事変は終結することになります。昭和6年の柳条湖事件に始まった満州事変は1年8ヶ月で終結することになります。
その協定の内容は
1, 中国軍の河北省東部からの撤退
2, 日本軍は前条の確認のための視察が可能である
3, 日本軍は万里の長城まで撤退すること
4, 河北省東部の治安維持は中国側の警察機関に任せる
というものでした。こうして満州国は、いったんは落ち着くことになります。
昭和11年(1936)になると日本政府は「満州農業移民100万人移住計画」で移住政策を本格化し、最終的には約27万人が移民することになります。この年の4月には毛沢東が率いる「中華ソビエト共和国」が樹立されて日本に対して宣戦布告します。しかしこれには中国国民党の蒋介石が同調しませんでした。その後になってこの両者は共同戦線を敷くようになりますが、この時点では蒋介石は「滅共抗日」を掲げて毛沢東共産党に対抗します。
1909 年になると大連をはじめ、ハルビンや北満洲各地の鉄道沿線で大規模な油房(搾油工房)が建設されるようになり、満州での大豆搾油事業の発展期を迎えることになります。そして1920 年代になると、満州大豆は世界商品として成長するとともに、その広範な用途は欧米において注目され始め、需要は拡大していきました。
しかしドイツでは、大豆を多角的に活用するために大豆油として輸入するのではなく、大豆を輸入して自国での搾油に力を入れるようになっていきます。これはドイツが大豆を自国の経済発展のための主要な材料として見るようになったからです。こうして欧州での大豆の需要量は高まっていく反面、大豆油・豆粕としての需要が減ってきて、1925 年以降の大豆の輸出量は豆粕を上回るようになります。
一方、それまで日本に大量に輸出されていた大豆粕は価格の安い硫安の普及によって需要量と価格が低迷していました。こうして満洲大豆のヨーロッパ諸国での需要が急増するにともない大豆価格は高騰していく反面、日本国内での豆粕価格が下落したために現地の日系製油企業などは原料高・製品安の採算悪化に直面することになります。1910 年から 1932 年までは満州での大豆搾油は発展期あるいは全盛期を迎えることになりますが、1932 年から、大連、ハルビン及び北満洲各地の豆粕生産量は激減となり、衰退期をたどるようになります。その様子は次の満鉄の社内データーに見ることが出来ます。
満州油房豆粕生産数量推移 (単位 万枚)
年度 |
1918 |
1920 |
1922 |
1929 |
1931 |
1932 |
1933 |
1935 |
|
生産量 |
3,632 |
4,311 |
4,645 |
5,137 |
5,815 |
5,777 |
3,843 |
3,963 |
|
この表に示すように1931,32年をピークに満州における大豆搾油は陰りを見せ、逆にヨーロッパにおいて満州大豆を原料とした大豆搾油事業が活発になってきます。
満州国の大豆政策
満州事変をきっかけにして、1932 年に日本の傀儡政権とされる「満州国」が建国されましたが、関東軍は満州国の建国と同時に満州での統制を強化し、満州国の農業政策に対しても改革を進めていきました。
まず満州中央銀行から一定の兌換率を定めて、満州に流通していた各種の貨幣を回収し、その代わりに「満州国幣」を流通させました。このことにより1935 年末までに、旧貨幣が回収されて新しい満州国幣が順調に流通するようになっていきます。さらに満州国は、国際商品となった大豆、豆粕、大豆油(大豆三品)の流通を確保するため、1933 年には従来の満州農産物の穀物問屋であった糧桟を廃止し、1935 年には日本農産物商社を作り、ここが大豆三品を農家から直接買い付ける交易市場を満洲各地に設置しました。さらに満州国の管理下で、日系企業の穀物問屋が設立されていきました。これらの穀物問屋は、従来の中国側糧桟にとって代わり、満州奥地の大豆、雑穀等の直接買付を行ったのです。これらの措置は日本企業に一方的に有利な内容となっていたことは充分に想像できます。こうして1930年代には満州の複雑な金融事情の障害を取り除くことを達成することが出来ました。こうした新たな環境の中で日系企業は、満州奥地の大豆、雑穀等の買付をすることが出来るようになり、搾油原料の大豆を安定的に確保することが可能となったのです。しかしこれら一連の改革は日系企業に有利になっただけであって積極的な農業政策が行われたわけではなかったのです。 特に致命的となったのは、満州国内の生産実情が充分に把握されないまま大豆の買付価格などを強制的に設定したことだとされています。そしてこれら日系製油企業最優先の農業政策が結果的に満州大豆の生産量を減少させる結果を招くことになるのです。例えば満州北部地域から大豆を大連に輸送する場合、満鉄をはじめとする鉄道や水運を経由しなければならず、その輸送費は大豆の販売価格に対しての一定の比率で満鉄などの輸送機関や新たな穀物問屋、輸出商社の手数料などとして支払われ、これらの緒費用を差し引くと 農民の手取は大豆販売価格の僅か 32.8%でしかなかったということが起こるようになってしまいました。農民は、このわずかな手取り代金から種子代や肥料などの購入費用を賄わなければならなかったのです。このように奥地の農家は大豆を収穫しても赤字となってしまうことから農民の大豆生産に対する意欲が薄れ、大豆生産は次第に低調になっていくようになります。そして大豆農家の中に大豆栽培から他の経済作物へ転換しようとの動きが現れてくるようになります。こうして満州での大豆生産は減少を始めるのです。
その状況を大豆の生産量で見ると、1931 年の生産量を 100 としたとき、満州国が建国された1932 年の生産量は81.6 に、 1933 年が 88.0 、1934 年が 68.8 、1935 年が 74.4 、1936 年が 80.9、1937 年が 78.9 、1938 年が 80.0 、1939 年が 77.5 と次第にその力強さが失われていきます。そしてこの現象は満州大豆の輸出量にも反映され、1929 年の大豆輸出量260万 トンに比べて1934 年の大豆輸出量は79万 トン減少して181万トンになっています。さらに大豆と比べ、大豆粕の輸出量は1920年代の黄金時代から一変して減少してしまいます。それは硫安などの化学肥料の浸透に押されて大豆粕の肥料としての国内需要が大きく減少してきたことによるものです。そしてそれは大豆油の生産量も減少していき、大豆搾油事業全体の停滞へとつながっていきます。こうして満州事変から満州国の建国に至るまでの間に起こった紛争により満州にある生産設備などが破壊されたことと、満州国が積極的な大豆政策を実施しなかったために満州大豆三品の生産意欲が低下し、輸出が減る傾向に傾いていきます。これらの状況に対し、日本が主導する満州国政府は積極的な大豆政策を立てることなく、逆に大豆以外の綿花、小麦、麻、甜菜、煙草などの特用作物を奨励する政策を打ち出していたのです。
満州大豆の増加と国産大豆の縮小
一方、当時の日本での大豆の利用は豆腐や納豆などの食材として使われるか味噌、醤油などの発酵食品の原料として使われていましたが、徐々に大豆搾油用原料としての需要も高まってきていた時代でした。日本国内での大豆搾油業は大正7年(1918)には圧搾式抽出工場が15社、抽出式工場が23社となり、原料大豆処理能力も2,495トン/日に及ぶまでになっていましたが、国内での搾油事業の他に原料調達基地でもある満州の大連などでも日系製油企業の大豆搾油が盛んに行われていた時代でした。しかし、この時代に国内で必要だったのは農業用肥料となる大豆粕であり、本格的な大豆油の時代を迎えるのは先にも書いたように大正12年(1923)の関東大震災以降になります。そしてそれらの原料となる大豆も満州からの輸入に頼る傾向がさらに強まっていきます。
こうして満州大豆の日本への輸出が増えていくに従い、国内農家による大豆生産量は減少していきます。それは国内産大豆に比べて満州大豆の輸入価格が安かったことによるものでした。こうして我が国の大豆生産農家は満州大豆の輸入増加により大きな打撃を受けることになるのです。明治時代の半ばまでほぼ自給自足で賄っていた国内の大豆農家は徐々に大豆栽培から撤退していくことになります。そして農家はコメの生産に集中すると共に水田に適していない畑では大豆に代わる新たな換金作物を探していましたがその一つとなったのが当時、海外でも注目されていた生糸の生産に必要な桑の栽培でした。当時の日本にとっては、我が国の富国強兵に必要な外貨獲得の道は生糸と茶の輸出に大きな期待が寄せられていたのです。日本国内で茶畑が開墾されて広がっていったのに時期を同じくして桑畑も広がっていったのでした。こうして競争力を失った国産大豆の栽培面積の相当部分が桑の栽培などに充てられるようになるのです。
桑栽培の推移 総務庁「日本長期統計総覧」
年度 |
桑栽培面積 |
生糸生産量 |
1884年 (明治17年) |
92,900 ha |
2,137,575 kg |
1905 (明治38年) |
337,200 |
7,309,200 |
1926 (大正15年) |
567,000 |
34,129,913 |
1935 (昭和10年) |
577,500 |
43,732,680 |
1947 (昭和22年) |
171,000 |
7,186,384 |
この表に見られるように満州大豆の影響が少なかった明治17年の段階では、我が国の桑の栽培も限られた地域に限定されていた状態であり、多くの農家が大豆を栽培していました。しかし安価な満州大豆に押されるようになると、農家が次に求める換金作物の一つが生糸の生産に直結した桑の栽培だったのです。こうして満州大豆の輸入が活発になるにしたがって桑の栽培面積が増大していきました。
ところがこの桑の栽培にも危機がおとずれます。まず、1929年にアメリカに始まった世界恐慌で生糸が売れなくなるという事態を招きます。しかしこの世界恐慌もしだいに収まってきて再び生糸生産が復活するかと期待していたところに次の危機が再び行く手をふさぎます。それは1940年頃に起こるナイロンの登場です。ナイロンをきっかけとして低価格の化学繊維が相次いで登場してくると天然素材の絹織物が太刀打ちできなくなり、桑の栽培は一気に低迷することになります。終戦により満州からの大豆の供給が途絶えた時には農家は再び桑の栽培から大豆の栽培に戻りますが、戦後のアメリカからの大量の大豆輸入により再度日本の大豆生産は低迷していくことになるのです。
2022.2
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