大豆が歩んだ近代史 その13

「満州大豆に欧州が注目」

 

 欧州で満州大豆が飛躍する

 1908 年に三井物産がイギリスの「リヴアプール」製油会社に向けて大豆 200 トンの輸出を試みたのが満州大豆のヨーロッパ輸出の始まりでした。これらの大豆から得た大豆油は石鹸などの原料となり、豆粕は家畜の飼料としてイギリスでは受け入れられ、大豆は次第にイギリスをはじめとするヨーロッパ諸国に輸出されるようになります。その後イギリスでの満州大豆の輸入量は急速に増大していき、1910 年になると 42 万トンの大豆が輸入されるほどになります。しかしその後は増減を繰り返す状態が続きます。それは、イギリスの搾油原料は従来から棉実、亜麻仁が主体であり、それらの作物の不作による価格の高騰を満州大豆で調整していたからでした。

このようにイギリスでは、それまで搾油原料として利用していた棉実や亜麻仁の供給不足を補うものとして一時的に満州大豆を輸入していましたが、満州大豆の安価さと共に、副産物ともいえる脱脂大豆の有効性にも気づき、棉実などの代用品としての見方から大豆の持つ価値そのものを認識するようになり、大豆の輸入税を撤廃するなど一気に満州大豆の評価を高めていきました。満州大豆の価値を再認識するにつれ、満州から大豆を輸入すると輸送時間が長いことと輸送費用がかかるために、「リヴアプール」商業会議所会頭アルフレッド ジョンスは自ら大豆種子を携えてアフリカ西海岸の英国領ガンビア、シエラレオネ、ナイゼリアへ行って大豆栽培の自国経済圏での自給を目指して活動を始めており、それらの地域での栽培に成功したとする記録も残されています。さらに英国領インドにおいても大豆栽培の取り組みをしています。フランスもフランス領インドシナにおいて大豆栽培を進めており、1,660石の大豆をフランスに輸出していたことが記録されています。このように満州から遠く離れた欧州諸国はこの有用な大豆をなるべく自分の手元で生産したいとの活動が活発に行われるようになります。しかし結果として、先行して大豆栽培に取り組んでいたアメリカが最終的に成功を収めた格好に終わっていることは歴史が知るところです。

 

第一次世界大戦(1914-18)になると、戦場となったヨーロッパ諸国では油脂原料が不足してきます。イギリスもドイツも搾油産業が戦争によって壊滅的な被害を受けて、自国での大豆油の生産が望めなくなり満州から大豆油を輸入するようになります。当時の満州からの大豆油の輸出を見ると、1916 年におけるヨーロッパへの輸出量は41,500 トンであり、その 6 年後には97,100 トンと、6 年間で欧州向け大豆油の輸出量は 2 倍以上増加しています。

 

戦時における大豆の重要性を最初に認識していたのはドイツでした。ドイツは満州で展開された日露戦争(1904-05)を詳しく検証しており、冬場に展開される戦闘で大豆が有効であることをすでに知っていました(また、ソ連軍もかつてロシアが日露戦争で敗戦した原因を研究しており、大豆に対する認識をすでに持っていました)。しかし第1次世界大戦が始まる頃はアメリカもヨーロッパも一般市民はまだ大豆を食べるという認識はなく、大豆はもっぱら牧草か土壌の肥沃を目的としたものでしかなかったのです。

そしてドイツは第一次世界大戦を経験したことにより大豆の必要性をさらに強く意識するようになります。それまでもドイツは自国の経済を発展させる重要な原材料の一つとして満州大豆を活用していましたが、この大戦によって中国、東南アジアに保有していた直轄地を放棄してしまっており、疲弊した国力を立て直す施策として大豆産業の強化を推し進めるようになります。第1次大戦が起こる前には、戦争に備えてある程度の大豆は備蓄していましたが、長引く戦争によってそれら備蓄していた満州大豆も使い果たしてしまい国力を維持できなくなってしまったのです。そこでドイツは戦後になって、第1次世界戦争の反省からもっと手近で大豆が供給出来るようにするために、欧州での大豆生産を視野に入れた大豆の安定供給体制を検討するようになります。

 

ちなみに欧州の戦場から遠く離れた日本にも、この第1次世界大戦で生産力が破綻した欧州各国からの大豆油の注文が殺到し、欧州の不景気とは対照的に好景気が続くことになります。当時の日本はこの大戦前の1914年には11億円の債務国でしたが、終戦直後の1920年には28億円の債権国に変わっており、名目GDPも3倍以上の伸びを示しています。もちろんそれらに貢献した主な商品は大豆油ではなかったけれども、大豆搾油業界が大きな恩恵を受けたことは、その後の大豆産業にとっても重要な時期となりました。それまでの日清戦争でも日露戦争でも我が国が当事者であり、戦争によってGDPが伸びることはなかったが、第1次世界大戦はわが国を世界の経済大国の仲間入りをさせる大きな力となったのです。このことによって我が国は農業国から造船・石炭・製鉄を中心とした工業国への仲間入りを果たすことになるのです。

 

1次世界大戦では

1次世界大戦はヨーロッパで繰り広げられた戦争で日本は関係なかったと思われるかも知れませんが、日本は開戦の2か月後にはすでに連合国側に参戦しており、このことにより終戦後に設立された国際連盟の常任理事国になっているのです。日本がヨーロッパの戦争に参加したのは、日英同盟(1902)を結んでいたイギリスから“極東にいるドイツの軍艦を攻撃してほしい”との要請を受けたからでした。当時ドイツは中国の青島や南方アジアの島々を所有していたので日本はこれらを攻撃して多勢のドイツ軍捕虜を我が国に連れて帰り、鳴門などの収容所で手厚く隔離していたことは既に知るところです。さらにドイツの潜水艦Uボートが地中海で連合国軍を苦しめていることに対して再びイギリス軍からの要請で日本の海軍が地中海に向かうなどこの戦争に深くかかわっているのです。そしてこれらのことによりワシントン会議などの戦後処理によって日本は満州での活動が連合国側諸国から認められるようになるのです。

 

4年間続いた第1次世界大戦は終盤になってアメリカの参戦で終結を迎えますが、戦勝国側のイギリスやフランスも、敗戦国のドイツも国力は大きく疲弊してしまいます。特に敗戦国ドイツは当時の国家予算の20年分に相当する巨額の賠償金(1320億マルク)の負担などによって国の経済は破綻してしまい、国内では猛烈なインフレが起こります。1月には250マルクだった食パンの価格が12月には3,990億マルクと16億倍に跳ね上がったとも言われています。ここでドイツは国の経済を立て直すために満州からの大豆油の輸入を大豆に切り替え、大豆産業を経済の立て直しの一つの道として取り上げることになるのです。それは大豆にはタンパク質と油脂という国民の栄養を賄う成分を含んでいることに加えて、大豆油から展開される油化学の広がりに期待したことと考えられます。そこには油脂化学に優れていたドイツの自信が見え隠れしています。ドイツは第一次世界大戦前にはある程度の大豆の備蓄をしてありましたが、長引く戦争で国内の大豆在庫は枯渇してしまいました。そのためにドイツは大豆の自国生産にも取り組みますが、緯度の高いドイツの土地では大豆栽培に必要な日照時間が得られなかったのです。そのためドイツは安価な満州大豆を利用するとともにヨーロッパの中にも大豆生産国を作ることに腐心します。

 

ドイツは大豆搾油産業を国の経済を支える重要な産業ととらえて育成することを目指して技術開発に取り組んでいきました。そして1908年にはすでに大豆搾油に取り組んでおり、満州から大豆の輸入を始めるとともに大豆油の研究に取り掛かっています。満鉄が近代的な大豆搾油技術を開発したのもこの頃に出されたドイツの特許がベースになっていたのです。こうして大豆油の生産技術はドイツと日本の満鉄が時代の先陣を切って進んでいくことになります。

 

ここで第1次世界大戦について少し見てみましょう。19世紀後半の世界はイギリス、フランス、ロシアが植民地支配をして領土を拡大していた時代です。いち早く産業革命に成功したイギリスはインド、アフリカ、オーストリアを獲得してイギリスからインドへの海のルートを盤石にしようとしていました。フランスはイギリスに対抗していましたが、ドイツのビスマルクとの普仏戦争に敗れてしまいます。ロシアは不凍港の獲得を目指してヨーロッパでの南下政策をとりますがイギリス、フランスに阻止されてしまいます。ロシアはなんとかブルガリアを独立させて地中海ルートを確保しようとしましたがこれも阻止されてしまうのです。このことによってロシアとイギリスが対立し、またロシアとオーストリア、ハンガリー帝国が対立するようになります。この後、ドイツはイタリア、オーストリア・ハンガリー帝国との間で三国同盟を結ぶ一方、ロシアとの間でも同盟を結んでいきます。イギリスはドイツの勢力拡大を警戒してフランスと英仏協商を結び、英・仏・露の三国協商が出来ますが、このことによりバルカン半島がヨーロッパの火薬庫になってしまいます。

このような中で起こったのが1914年のサラエボでのオーストリア・ハンガリー帝国皇太子の暗殺事件でした。これに対してオーストリアはセルビアに過酷な要求を突き付けますが、これを拒否されるやセルビアに攻撃を仕掛けます。これに対してそれぞれの同盟国は軍を派遣したので、戦争はヨーロッパ全域に広がります。日本は先に書いたように日英同盟を理由に中国にあるドイツの租借地や南洋諸島へ進軍します。そのうちにロシアでは戦争の長期化などが引き金になりロシア革命が起こり、レーニンの指導の下、ソビエト政権が誕生して戦線から離脱します。ドイツでも1918年に国内で革命が起こり、ウイルヘルム皇帝が退位してドイツ共和国が成立して、ドイツなどの同盟国が敗退することになります。

 

ドイツは敗戦後に

ドイツは帝政が倒れ共和制に移行(1919)すると小党乱立で政権が不安定とりますが、そんな中でドイツ労働党(ナチス)が結成され、ここにヒットラーが入党することになります。そしてナチスドイツ軍は戦争の気配が濃厚になるにしたがい、大豆の海路での輸入や満州からのシベリア鉄道での輸送に依存することのリスクを認識するようになり、ルーマニアをはじめとするバルカン諸国での大豆栽培を積極的に推進するようになります。こうしてドイツは大豆供給先を満州一極依存から分散するため、第2時世界大戦の直前にはルーマニアで大豆を栽培し、それを輸入しています。しかし、これら地域からのダイズの栽培も、1940年の136900haをピークに下降線をたどることになります。こうしてドイツは第1次大戦後から満州大豆の輸入を急速に拡大していきます。 ドイツ向け満州大豆の輸出量は、1920 年が 22,675 トンであったのが、1925 年に 336,193 ト ンになり、1930 年には 889,000 トンまでに拡大します。1927 年〜1930 年には満州大豆の総輸出量の 38.5%をドイツが占めるまでに至っています。

 

そして第2次世界大戦が欧州で始まり、日独伊三国同盟がスタートした1940 年当時の記録を見ると満洲大豆の主な輸出先は日本が 41.4%、ドイツが 39.7%、デンマークが 11.5%、イギリスが 7.4%でした。まさに満州大豆は三国同盟の戦略物資として日本はドイツに優先的に輸出しており、戦争の局面において大豆は重要な役割を担っていく時代に入るのです。

 

満州大豆の輸出先  (単位、トン)

 年度

日本

同比率

欧州

同比率

満州の輸出量

1932

450,229

19.7

1,647,837

72.1

2,284,510

1933

497,681

23.0

1,538,196

71.0

2,166,034

1936

697,575

34.5

1,184,238

58.7

2,018,887

「支那の製造工業」(昭和15年発行)より

 

こうして満州の大豆と大豆油は戦争の影響を強く受けながらも世界との繋がりを強め、世界経済に敏感に反映される国際商品へと成長していきました。当時、満州で生産された大豆油の約5割は欧州市場へ輸出されており、大連における大豆の輸出価格が国際市場に大きく影響を与えるようになっていました。

 

ドイツ軍は国力を増強するためにも安価な満州大豆が必要であることを知っていたのです。そして満州事変以降になるとこの満州大豆は日本が抑えてしまった状況から、ヒットラーは安定的に満州大豆を確保するために三国同盟に日本を組み入れたとも言われています。つまり満州大豆はドイツ軍の戦争準備にとって重要な戦略物資の一環とみられていたのです。1931年になるとドイツには大豆搾油工場が次々と建設されるようになり、年間246千トンの処理量に達するほどになりました。こうして第2次世界大戦中のドイツ軍にとって、大豆は重要軍事物資としての役割を果たしていました。そして大豆粉は重要な栄養源として評価され、1928年になるとオーストリアのラーズロー博士が開発した食用大豆粉は「エーデルソーヤ」と称してパン、菓子、マカロニー、スパゲッティ、ヌードルなどに利用されるようになります。これらは日本の黄粉に相当するものだと言われています。当時のロンドン・タイムズ紙も大豆の栄養価値を評価して「肉の代用となる魔法の豆」という記事を書いています。この頃の満州大豆はドイツのハンブルグに陸揚げされ、そこで搾油作業が行われていました。

 

ラーズロー博士が開発した、食用大豆全粒粉は直ちにドイツで料理本として出版され紹介されたので、それまでは大豆食に馴染みのなかった一般市民も大豆について知ることとなります。そして戦争の気配が濃厚になると大豆食品はその重要性をさらに高めていきました。こうしてヨーロッパでは大豆が重要な原材料とみなされるようになっており、特にドイツでは、大豆はタンパク質の供給源として、大豆油はマーガリン、サラダ油、石鹸などの原料に使われる、経済的にも重要な食糧資源として位置づけられていきました。

こうしてドイツでの大豆油生産量は1932年には188千トンを記録するところとなり、ヨーロッパ諸国やアメリカに輸出し、第2位の日本を引き離して大豆の輸入量・搾油量ともに世界第1位となったのです。しかし戦争が進むにしたがってドイツの搾油産業は壊滅状態になり、その後1949年まで立ち直ることは出来ませんでした。

 

                   2022.2

 

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