大豆が歩んだ近代史 その12

「日本に大豆産業がスタート」

 

我が国に大豆搾油事業が

 こうして大豆粕の肥料としての価値が広く認められ、輸入量が増大してくると当然のこととして、国内でも大豆粕の生産をしようとの動きが出てきます。1902年には福井県の敦賀で我が国初の大豆搾油企業として大和田製油所が操業を開始し、圧搾法によって大豆油と大豆粕の生産を始めました。そして明治時代の後半にかけて国内に大豆搾油企業が相次いで創設されていくことになります。国内に旺盛な需要のある大豆粕を生産すると自動的に大豆油が生まれてきます。しかし大豆油は他の油脂資源が豊富にある日本では世間から望まれない厄介者だったのです。これでは大豆を搾油する事業は成り立ちません。ところがここでわが国の大豆事業者にとって突然のチャンスが訪れたのです。

 

 大正3年(1914)に勃発した第一次世界大戦によってヨーロッパ各国の大豆搾油業が壊滅状態になり、食用油は品薄をきたすようになりました。ヨーロッパからの需要とヨーロッパから輸入をしていたアメリカからの大豆油の需要が同時に日本に舞い込んできたのです。第1次世界大戦が欧州で始まると、それまで盛んに行われていた欧州での大豆搾油が停止してしまい、その供給先として満洲と日本に求めてきたのです。つまり国内で必要とされる大豆粕と欧米で高まった大豆油に対する需要が相まって国内での大豆搾油事業の環境が見事に整ってきたのでした。これに刺激されてわが国の大豆搾油企業の活動も活発になり、大正4年に1,074トンであった大豆油の主として欧州への大豆油の輸出量は翌5年には3,548トンに跳ね上がり、この状態が大戦の終わる大正7年まで続くことになり、わが国の大豆搾油事業を大きく押し上げることになります。

 この様な時代背景の中で満鉄が近代的な大豆搾油技術を開発し、大豆油の大量生産が可能になったのです。満鉄(南満州鉄道株式会社)という組織がどのようにして誕生したか、については別途取り上げましたが、ここでは満鉄を介して我が国に大豆油の生産が始まったいきさつについて述べておきたいと思います。 

そもそも満鉄の事業の狙いは当時ヨーロッパで必要としていた大豆油と日本が求めていた大豆粕を効率よく生産する技術の確立が目標だったのです。当時の満州地方で作られていた大豆粕は圧搾法による残油分の多いものでした。大豆粕の中に残油分が多いとその分肥料効率は劣ってしまいます。当時の満洲における旧来の搾油方法は楔式、手押螺旋式、水圧式というものでした。楔式は、大豆を石臼の上に載せ、畜力により大豆を潰し、蒸した後に圧搾するという旧来の搾油方法でした。そこで満鉄は残油分の少ない大豆粕が生産できる技術として「ベンジン抽出法」を開発したのです。ベンジン抽出法による大豆粕は圧搾法に比べて残留油分が極めて少なく、蛋白質の含有量がはるかに高かったのです。満鉄中央研究所は191210月に大連に満鉄豆油製造所を建設し、その後4年の歳月をかけてベンジン抽出法による大豆油と豆粕製造法を研究し、その開発に成功して「満鉄豆油製造所」の名称で試験的製造を始めました。
 
 しかし、満鉄の資料には当時の研究結果について「今回の試験によって従来の圧搾抽出法に比べて豆粕の品質、油脂の抽出率、更に人件費の節約等において優れていることは明らかとなったが、工場の規模拡大に要する費用が膨大なこと、溶剤とするベンジン価格が高騰していること、また従来と異なる撒糟(ばらかす)形体の運搬の費用発生等を考えると今後の事業継続には検討を要する」としていました。
 こうして満鉄がこれを事業化するにあたっての大きな壁として生産設備の建設資金と、豆粕が従来の丸型から粒状に変わるために数キロごとに袋に入れる必要が生じ、新たな運搬費用が発生すること。第3にベンジンの価格が高騰傾向であったことなどです。こうした状況にあって満鉄の大連製油工場建設に対して、周辺の反応は極めてひややかであり、そのまま事業化に進むことが出来なかったのです。こうして満鉄直営ではなく、民間経営に任せるべきとの結論に到りました。
 民間への委譲に当たっては資金力、信用、経験等から検討を重ね、神戸に本社がある合名会社鈴木商店に委譲されることになった。総合商社である鈴木商店は当時、多角経営を展開しており、満鉄から油脂事業を譲り受けたころの大正6年当時は、年商15億4千万円という日本のトップ企業でした。ちなみに当時の国家予算は7億3,500万円であり、実に国家予算の倍額の事業を展開する巨大企業だったのです。鈴木商店は直ちに社内に製油部門創設を創設し、大豆油・大豆油粕の製造へと乗り出していった。

 

鈴木商店が満鉄技術を継承

 こうして満鉄の技術を受け継いで国内で大豆油の生産を始めたのが神戸に拠点を置く鈴木商店だったのです。のちにこの事業は独立して豊年製油となるのですが、その前身である鈴木商店はその当時、油脂事業としては朝鮮沿岸部から魚油を集荷、精製して、ドイツをはじめとするヨーロッパ諸国に輸出するという事業をしていました。しかし漁獲量の減少にともない、魚油の生産はしだいに不安定となり、事業の先行きに不安を感じておりました。それに比べて満洲で生産される大豆油は魚油より酸価が低く品質も安定しており、生産費も安かったというメリットがありました。そのために魚油に代わる油脂事業として大豆油の可能性を考えていたと思われます。さらに満州豆粕の肥料としての価値が日本国内で認められており、政府も農業の生産力を高めるために、豆粕を普及させる意向を明らかにして、その実現に努力していました。こうして日本では豆粕の需要量が増加していたことから、満州の大豆粕に着目したと思われます。しかし当時の鈴木商店は大豆搾油の施設を持っていませんでした。そんなときに満鉄がベンジン抽出法による大豆製品生産技術を完成させたのです。しかもこの大豆搾油事業を満鉄が継続していくことに困難をきたしており技術の譲渡を考えていたことから、鈴木商店は満鉄の示す条件に従うことを条件にこれらの技術の譲渡を受けることにしました。

その条件とは (1)2年の間に現在の2倍の製造能力に拡張すること (2)現在製油技術の開発に携わっている技術員、職工は現在の待遇のまま引き継ぐこと (3)現在、鈴木商店が大連で使用している商標「豊年撒豆粕」を継続すること (4)満鉄が指示する各種の試験は必ず実行すること、但しこのために生ずる設備等の費用は会社負担とすること、でした。こうして鈴木商店は満鉄が持っていた大連の油脂工場を引き継ぐとともに、社内に製油部門を新設しました。鈴木商店は直ちに1917年には静岡県清水に原料処理能力500トン/日の大型大豆製油工場を建設し、翌年には兵庫県鳴尾と神奈川県横浜にも250トン/日の製油工場を相次いで建設をして大型の国産大豆搾油工場がスタートをしたのでした。満鉄が自分たちで開発した新時代の大豆油の抽出技術を鈴木商店に譲るときの条件として、この技術開発に携わってきた技術陣を引き取ることや、満鉄が満洲の農家に試作品として販売していた脱脂大豆の商標である「豊年撒豆粕」を引き継ぐことを求めた背景には、自分たちが開発した技術に対する愛着と鈴木商店の大豆事業に対する関心の深さが感じられます。

 

 これらの技術を受け継いで建設された搾油工場で作られた大豆粕の品質は非常に優れたものでした。1925年での満州からの輸入大豆粕との比較データーが残っています。それによると、大豆粕に含まれる残油分は、満州から輸入される大豆粕には6%以上もあったのに対して鈴木商店製油部(のちの豊年製油)が生産した大豆粕の残油分は1%未満でした。また、大豆粕に含まれる泥などの夾雑物の割合は、満州大豆粕には2%含まれていましたが、国内産のものにはそれらはすべて除去されていて残っていませんでした。さらに満州からの大豆粕の水分は20%と高かったのに対して国内産大豆粕は12%と空気中の湿度に合わせた安定したものでした(豊年製油(株)清水工場報)。このように国内で始まった大豆搾油産業は品質の高いきわめて安定したものだったのです。

 

政府も国産化を保護

 政府もまた,大豆搾油の国内生産を奨励し、明治39年(190610月に中国からの輸入大豆を用いて大豆油粕を製造する場合は、100斤(約60s)につき47銭の関税を払い戻すことにしました(当時の大豆油粕の100斤当たりの平均販売価格は3円37銭でした)。これで大豆油粕は、明治44年から大正2年の3か年平均で全販売肥料の48.9%を占めるようになり、大豆粕の輸入依存率が約64%まで低減されていきました。さらに大正元年8月には、横浜,神戸の輸入港と,愛知,三重,静岡の一定地域に建設した指定工場に輸入された大豆には輸入関税を免除することになり、さらに大正3年4月には大豆油の輸入関税は100斤につき2円50銭に引き上げられ、国内での大豆搾油産業の育成が図られていきました。

 

 満鉄の製油技術は豊年製油に受け継がれる

 すでに述べたように1915年、鈴木商店は,当時最先端の大豆搾油法であった「ベンジン抽出法」の特許権を満鉄から取得し、静岡県の清水に500/日トンという大規模な大豆油生産設備の建設を始めていました。しかし、当時の周りの受け止め方は、地元の新聞(静岡新報,大正5年5月25日版)が報じているように「製油工場」ではなく「豆粕製造所」とされており、多くの人たちが期待していたのは大豆粕だったことがここからも伺えます。こうして日本における大豆油と豆粕の本格生産が始まったのでした。そのころのわが国の大豆搾油工場の処理能力は100トン/日未満がほとんどの状態でした。こうして大豆油は我が国で最も新しい食用油脂として大正時代になって登場してきたのですが、当初は先輩格の菜種油などの後塵を拝する立場に置かれていた状態だったようです。

 この頃になるとわが国の大豆の消費量も増加してきており、年間およそ50万トン前後とされていますが、それらの原料大豆のうち国内産大豆が約40万トン、満州からの輸入大豆が10万トンという状況でした。その当時はまだ大豆の用途のほとんどは醸造用と食用に向けられている状態でしたが、徐々に大豆油・大豆粕の製造が盛んになり、大正7年には圧搾式抽出工場が15社,抽出式工場が23社となり、原料大豆処理能力は2,495トン/日に及ぶまでになりました。しかし当時の国内の反応としては、皆が欲しがっていたのはやはり肥料用の大豆粕であって、大豆油に対する期待は薄いものでした。ところがここで大豆油に思わぬチャンスが訪れます。

 

  大正121923)年9月1日に関東地方を襲った大地震(関東大震災)は、この地域に点在していた旧来の油脂製造所を壊滅状態に陥れ、多くの油脂工場が操業できなくなったときに、関東から離れた清水にあった豊年製油(株)の大型大豆搾油工場に脚光が当たりました。清水港から積み出された大豆油が東京湾に入港すると油脂が枯渇していた関東市場で歓喜を持って受け入れられ、初めて大豆油は主役の舞台に躍り出ることになりました。しかし、初めの頃の大豆油はまだ精製度も悪くて色の赤い、今から考えると品質の劣るものでしたが、大正11年12月に清水工場に精製工場を完成させ、改良された新しい精製技術によって大豆油は消費者に受け入れられる「大豆白絞油」として登場しました。こうして大豆搾油の処理量は一気に拡大していき、大正13年には13万トンに、翌14年には16万トンへと伸びていきました。しかし現在のような食用油として生まれ変わるのには更なる改良が必要でした。こうしてさらに日夜改良を加え、ついに新たな脱臭技術を完成させて昭和3年にその精製法の特許を取得し、一連の設備改良をしたことによって大豆油も広く消費者に受け入れられるようになっていきました。
 これら一連の大豆油製造技術の改良にはもちろん鈴木商店が、そしてそれを引き継いだ豊年製油の技術者の努力によるものですが、満鉄から移籍してきた技術者たちの力も大きく発揮されたと思われます。こうした製油技術を更に発展させるために昭和11年に豊年製油は当時の東京の三鷹村井の頭恩賜公園に隣接する約2万uの敷地を選び研究所を設立し、研究の中心を大豆の総合的研究として油脂部と蛋白部の2部制とした。昭和17年にはこれを財団法人杉山産業化学研究所として独立させて、さらなる大豆の研究に取り組むことになります。
  実は関東大震災は大豆油を登場させたばかりでなく、明治の中期以降に我が国に持ち込まれていた近代化の流れが一気に表面化するという日本の大変化のきっかけにもなったのです。

 

 その後、昭和に入って菜種油の大量生産も行われるようになったことから「油揚げ料理」は一般家庭及び外食などで広く行われるようになり、また揚げ物に使用される油は大量生産が可能となった大豆油と菜種油が中心となっていきました。このように日本では古くから使い慣れていた菜種油と新たに登場した大豆油が現在も共存しており、消費者は店頭で両者を見比べながらどちらの油も抵抗なく購入していく様子がみられています。

 

                     2022.2

 

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