大豆が歩んだ近代史 その11
日本での大豆産業は大豆粕から
満州の大豆製品が我が国に登場するのは明治・大正時代に入ってからです。それは農家の肥料からだったのです。鎌倉時代から我が国の農作物に使われていた肥料は農家による自給肥料(堆肥、人糞など)であり、また町内の共同便所の人糞も買い集めて利用していました。しかしこれらの肥料効率は良くありませんでした。富国強兵の一環として食糧の増産に迫られていた明治政府は、より肥育効果の大きい魚肥に切り替えていくようにと指導していったのです。この頃に我が国で使用されるようになった主な金肥(購入肥料)は鰊粕や干鰯(ほしか)などの魚肥でした。これらは北海道から上る北前舩によって西日本に運ばれて、もっぱら魚肥として農家にゆきわたるようになります。北海道では松前藩によってこれらの魚肥が盛んに作られるようになります。
明治時代には、漁業という枠を超えて明治期日本の一大産業の一つとまで言われたニシン漁業。そのほとんどは食用ではなく魚肥製造に回されていました。しかし、その漁獲量は大きな変動を伴いながら減少していったのです。その原因として乱獲や沿岸環境、海洋環境変化が指摘されています。初春になると産卵のために沿岸部に大群をなして押し寄せ、「棒を海面に刺しても倒れない」とまで言われた北海道のニシン漁。当時は、ニシンは無尽蔵に存在し、獲り過ぎなんて考えられなかったのです。
そしてそれらニシンは鰊粕に加工されていたのです。鰊粕は、釜茹されたニシンを木の枠に入れて油を搾り、四角く固められます。それをほぐして1週間ほど天日干しして乾燥させて作っていました。
ところが、明治時代中頃にあたる1887年から北海道ではこれらの魚の不漁が起こり、魚を原料とする肥料が不足する事態が発生したのです。1908年になると北海道での魚肥の生産量は急速に減少してしまいます。例えば1906年には約47万貫あった北海道の干鰯が2年後にはたったの500貫に激減しています。当時の北海道は日本国内で作られる魚肥の約3分の2を生産しており、主な魚肥はイワシやニシンによるものでした。今も北海道の江差などへ行くと、当時のニシン漁最盛期の面影を見ることが出来ます。また、当時のニシン漁で唄われていた「ソーラン節」は今も日本人に最も親しまれている民謡として歌い継がれています。このように最盛期を謳歌していたニシンなどの不漁が我が国の農業に与える影響は大きく、そのまま肥料価格の高騰につながっていきました。肥料商人たちは高騰する肥料価格を抑制するため廉価な代用肥料を探し、大豆粕を満州から輸入したのでした。中国では古くから大豆油の搾り粕である豆粕が肥料として使われていたのです。
清国から大豆粕を輸入
明治29年(1896)、日清戦争の後、愛知県のある肥料商人が、試しに豆粕を中国から輸入して代用肥料として販売してみました。結果は大好評で、それ以来徐々に大豆粕は日本農家に認められていったのです。当初は単なる代用肥料に過ぎなかった大豆粕でしたが、次第に大豆粕の肥料としての優秀さが認められていきます。そして1899年になると大豆、豆粕の対日輸出量は中国国内での輸送量を上回るほどになります。大正時代になると我が国の農商務省は魚粕と大豆粕の肥料効能について比較試験を行っています。その結果、等量のニシン搾粕と大豆粕を使用した時、その収穫量は稲も麦も大豆粕の方が優れていることが明らかになったのです。さらにコスト面からも、肥料1円に対する収穫量も大豆粕のほうが魚肥よりも多いことが明らかとなりました。つまり大豆粕の肥料効率が魚肥よりも優れていることが証明されたのです。この実験を行った農商務省農業実験場山陽支場では、1913年〜1916年の4年間の栽培試験によって、大豆粕は肥料として、稲,麦だけでなく、桑、茶などにも効果的であることを証明したのです。また、収穫量が優れていた他にも、大豆粕は魚粕より施肥方法が簡単で、肥料効果が表れるのが早いなどの特徴もありました。そして何よりも安価な値段と安定した原料供給という点で、大豆粕は魚粕をはるかに上回っていました。
大豆粕苦難の時代へ
明治時代の後半になると我が国の農業用肥料として広く浸透していた大豆粕に思わぬ強敵が現れてきました。それは1923年頃からアメリカ、イギリスやドイツから硫安が輸入されるようになり、我が国で窒素肥料として需要が活発となっていた肥料用の大豆粕はその需要が圧迫され消費量が減少を始めます。1925年の段階では国内での大豆粕消費量は119.6万トンであり、そのうちの85%は満州からの輸入でした。そしてこの年の硫安の消費量はすでに12.2万トンと大豆粕を圧迫しはじめていました。両者の価格比較を表に示すと次の通りでした。
ここに見られるように輸入される硫安の価格は窒素換算で大豆粕肥料の6割程度という安価であり、さらに硫安の国内生産も始まろうとしている時期でもありました。
1924年の窒素肥料に対する価格比較 (豊年製油工場報 1927年2月号より) |
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肥料品目 |
窒素分1貫の価格 |
大豆粕 |
5.46 円 |
菜種粕 |
10.12 |
鰊粕 |
9.79 |
硫安 |
3.12 |
硝石 |
3.42 |
このような背景の中にあって満州豆粕の輸出量は1925年をピークに減少を始めます。そして国内の大豆粕の消費量も1923年をピークにすでに減少しており、1932年には、1926年の29%にまで激減していったのです。1935 年になると豆粕の肥料としての消費量が大幅に下がり、国内における硫安の消費量が豆粕を超え、硫安は日本における主要な肥料へと入れ替わっていきます。
国内で大豆粕の需要が低迷してしまうと大豆搾油事業は成り立ちません。そのために大豆製油企業は脱脂大豆の用途開発に必死で取り組み始めます。そして大豆粕の新たな用途として豆腐、味噌、醤油への利用開発、分離蛋白を作りアイスクリームや練り製品などへの用途開発、さらには人工肉、合板用接着剤、園芸肥料、各種畜産飼料などが次々と登場してきたのもこの時代でした。そしてここで時代を大きく変えていったのは我が国をはじめとする多くの国々で起こった肉食,乳製品への食の流れでした。栄養知識の普及と食習慣の欧米化により国内の畜産業が大きく発展していったのです。このような流れの中で乳牛用家畜飼料をはじめとして牛、豚、鶏などの畜産飼料はタンパク含量の高い大豆粕を原料として作られるようになり、新たな大豆粕の用途として浮かび上がってきたのです。そこには次のような流れがありました。
窒素肥料硫安について
肥料用の大豆粕を圧迫してきた硫安について、その流れをみてみましょう。1804年、ドイツの探検家アレクサンダー・フォン・フンボルトがペルー沖にあるグアノ島から化石化した鳥の糞をヨーロッパに持ち帰り土壌に混ぜ込んだところ、驚くほどの穀物の収穫量があったことに端を発して、この白い岩石に対して肥料としての需要が熱狂的に高まりました。こうしてグアノの島々が姿を消すまでこの島の岩を掘りつくしてヨーロッパに運び続けたのです。これらの岩石には畜糞に含まれる窒素の30倍以上が含まれていました。そしてこのグアノ島が姿を消してしまったとき、これに代わるものとして化学工業による窒素肥料の必要性が大きくクローズアップしてきたのでした。
時代はちょうど第1次世界大戦を迎えようとしていました。ドイツは高性能爆弾の製造に欠かせない天然の硝酸塩源を持たず、イギリスによる海上封鎖に対して脆弱な状態に置かれていました。そのために国を挙げて硝酸塩製造法の開発に必死でした。1909年にフリッツ・ハーバーは硝酸塩製造の前駆物質であるアンモニアを連続的に製造することに成功しました。別の化学者のカール・ボッシュはこれを工業化することに成功し、第1次世界大戦が始まるころには、ドイツの新しい硝酸塩工場は20トン/日の合成窒素を生産することが出来るようになり、これらはすべてを軍需用として使われていました。そして終戦と同時にこれらは肥料に利用されて新しい時代を迎えることになったのです。
こうして窒素の生産をハーバー・ボッシュ法として工業的に道を開いたことにより二人はノーベル賞を受賞しています。しかし、この方法で窒素を製造するためには空気中にある窒素ガスを相当なエネルギーを使って固定化し、肥料にするという効率の悪さがありましたが、窒素肥料に対する強い需要からこのことについてはほとんど問題にされることはありませんでした。このハーバー・ボッシュ法による窒素肥料の製造には、400℃以上の高温と100気圧を超える圧力という過酷な条件を必要とし、さらに原料とする水素の精製にも膨大なエネルギーが費やされ、温室効果ガスの二酸化炭素も多量に排出するという状況でした。しかし肥料に対する強い要望から生産は拡大され、出来た窒素肥料の硫安が世界の農地にばらまかれる時代が到来するのです。
しかし思い出してください、大豆をはじめとするマメ科植物は根粒菌と共生しており、空気中の窒素ガスを取り込んで周囲の植物に栄養素として窒素を与える能力を持っているのです。マメ科植物は今も自然のメカニズムの中で膨大な窒素肥料を生み出しているのです。かつて春の田園風景のなかでレンゲの花が咲いていたのは、マメ科植物のレンゲが空気中の窒素を土中に取り込んで土中の窒素分を高めていたのです。根粒菌はその優れた窒素固定能力によって農業生産面はもちろんのこと、地球環境的にも大きな働きをしているのです。現在地球上では年間1億8千万トンの窒素が主にマメ科植物によって固定されて利用されている計算になります。一方、工業的には電気エネルギーを使って年間8千万トンの窒素肥料が生産されていますが、これに要する石油燃料は約7億バレルであると言われており、マメ科植物の果たしている役割は計り知れないものがあるのです。このように大豆の持つ窒素の製造効率は余分なエネルギーを必要とせず、その製造効率はハーバー・ボッシュ法を遥かに超えています。大豆粕の中に含まれていた窒素分の大部分は大豆自身が空気中から取り込んで貯めていたものだったのです。
こうして工業製品としての硫安が登場してきたことにより天然の窒素肥料である大豆粕は見返られなくなり、大豆は当時としての主要な需要先を失ってしまうことになるのです。
実は、空気中から窒素を取り出す方法を確立してノーベル賞を受賞したフリッツ・ハーバーは戦争が始まると毒ガスの研究を始め、その成果を第1次世界大戦に持ち込みます。ドイツ軍は直ちにこの毒ガスを戦争に使い多量のガス弾が戦場に撒かれることになります。かれの妻は夫のこのような研究に激しく反対し、自らピストル自殺をしてしまいます。しかしハーバーは、毒ガスは戦争を早く終わらせるために必要だとして研究を止めようとはしませんでした。この毒ガスはその後アウシュビッツ強制収容所でのユダヤ人の大量虐殺に使われたチクロンBだったのです。
脱脂大豆の畜産飼料へ
ヨーロッパで始まった第1次世界大戦ではイギリス、ドイツをはじめとするヨーロッパ各国で大豆を重要な食料源としていろいろな食材に利用され始めました。そしてその流れは第2次世界大戦にも持ち越され、ヨーロッパだけでなくアメリカにおいても大豆は貴重なたんぱく源として欠くことのできない食材となったのです。しかしかつて世界の大豆供給地だった満州が日本に抑えられた状態となっていたために、アメリカは懸命に大豆の自国生産に国を挙げて取り組みました。そして終戦の頃には満州を上回る大豆の生産量を挙げるところまで成長し、連合国軍の勝利で終戦を迎えることが出来ました。世界大戦が終了して徐々に各国の食糧生産が安定してくると、ヨーロッパでもアメリカでも大豆食を敬遠するようになります。食糧難の時代が遠のくと市民は元の肉食の食習慣に戻ってしまったのです。そしてアメリカの農家には、生産した大豆が大量に在庫として滞留するようになったのです。このことに危機感を持ったアメリカ大豆協会は大豆の利用研究が進んでいる日本とドイツに職員を派遣して新たな脱脂大豆の用途の道を探る活動を始めます。そこで浮かび上がってきたのが大豆粕を家畜に与えて牛乳をはじめとして鶏肉,豚肉、牛肉などを生産するという畜産への利用でした。
そもそも第1次世界大戦直後、小麦栽培が安定してきたデンマークなどではアメリカからの輸入小麦との価格競争で苦しんでいました。そこでデンマークの農民たちが活路を見出したのは、小麦の生産をあきらめて満州から大豆粕を輸入し、これを家畜の飼料として鶏、豚の生産を始めたことでした。そしてこれが見事に成功したのです。第2次世界大戦での敗戦によって疲弊していたドイツは、この隣国で起こっていた過去の経験を踏襲して国の再建を図ろうとしていたのです。大豆の過剰在庫に苦しんでいたアメリカはこのドイツの取り組みに対し国を挙げて支援し、アメリカ大豆の新たな用途として広めていきました。そしてこうしてドイツで得られた大豆粕の畜産への利用技術を、アメリカ大豆協会が中心になって世界に展開し、日本に対しても畜産飼料会社や畜産業者に技術指導をしながら脱脂大豆のさらなる利用展開を図っていったのです。その結果として、現在では世界的に畜産用飼料が脱脂大豆の最大の用途先となっているのです。こうして大豆油搾油事業は再び安定した産業として現代に引き継がれているのです。
2022.2
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