大豆が歩んだ近代史 その4

「満州大豆の働き」

 

清国から大豆粕を輸入

 日本国内では明治新政府の「富国強兵」の旗印のもと、コメをはじめとする穀物の増産に取り組んでおり、北海道を中心に漁粕肥料の増産に取り組んでいました。その原料となる頼みの魚が急に捕れなくなってしまうというアクシデントに見舞われることになるのです。北海道でのニシンなどの不漁によって農業用肥料が不足して、国内では肥料価格の高騰など大きな混乱を起こしていました。その状態を打開するために明治29年(1896)の日清戦争の後、愛知県のある肥料商人が、試しに豆粕を中国から輸入して代用肥料として販売してみました。結果は大好評で、それ以来徐々に大豆粕は日本農家に認められていったのです。当初は単なる代用肥料に過ぎなかった大豆粕でしたが、次第に大豆粕の肥料としての優秀さが認められていきます。そして1899年になると大豆、豆粕の対日輸出量は中国国内での使用量を上回るほどになります。

さらに大正時代になると我が国の農商務省は魚粕と大豆粕の肥料効能について比較試験を行っています。その結果、等量のニシン搾粕と大豆粕を使用した時、その収穫量は稲も麦も大豆粕の方が優れていることが明らかになったのです。さらにコスト面からも、肥料1円に対する収穫量も大豆粕のほうが魚肥よりも多いことが明らかとなりました。つまり大豆粕の肥料効率が魚肥よりも優れていることが証明されたのです。この実験を行った農商務省農業実験場山陽支場では、1913年〜1916年の4年間の栽培試験によって、大豆粕は肥料として、稲,麦だけでなく、桑、茶などにも効果的であることを証明したのです。また、収穫量が優れていた他にも、大豆粕は魚粕より施肥方法が簡単で、肥料効果が表れるのが早いなどの特徴もありました。そして何よりも安価な値段と安定した原料供給という点で、大豆粕は魚粕をはるかに上回っていました。

 

満州の大豆粕が日本農業を支える

日露戦争の戦果としてスタートした南満州鉄道(満鉄)は鉄道事業を始めるや、その沿線で展開されていた大豆栽培に目をつけ、収穫された大豆の輸送にこの鉄道事業の採算を賭けることになります。そのためにも満鉄は大豆に正面から向き合う体制を採り、大豆のための研究所を作ると共に大豆の集荷、輸送にも乗り出していくことになります。この頃日本国内で必要とされていたのは稲作や桑の栽培などに使われる肥料としての大豆粕でした。こうして日露戦争後、満州の大豆粕は日本の農業にとって不可欠な肥料になっていきました。このように我が国にとって明治の半ばから大正時代にかけて大豆製品で必要だったのは大豆油ではなくて油を絞ったあとの大豆粕(大豆ミール)だったのです。そしてこれらの大豆粕の肥料が使われることによって日本の主要食用作物の一反あたりの収穫高が、1879年〜1883年の5年間を基準として比較すると、日露戦争前後の5年間(19041908年)には粳稲、糯稲、小麦、裸麦、大麦ともに大幅に増加しています。その中でも大麦に至っては、50%余りも増加していました。さらに1923年になると、各種作物は増産傾向を表し、1919年〜1923年の5年間の増加率は、粳稲が60.3%、糯稲が64.5%、大麦が84.6%、裸麦が44.3%、小麦が85%と好結果を示しています。単位面積での作物の増収にはいろいろな要因が考えられますが、有効な肥料の投下は大きな原因と推測できます。ちなみに、この時期に日本国内で消費された販売肥料の中では豆粕の増加が一番顕著でした。1903年から1921年にかけて大豆粕は販売肥料のほぼ50%を占めるに至っていました。さらに大正後期になると、日本国内での満洲の大豆粕に依存する割合はさらに高まり、販売肥料の67%を占めるまでに至りました。こうして1915年〜1920年の6年間は、いわゆる国内における豆粕の黄金期でした。このように当時の日本が必要としていたのは大豆粕だったのです。

 

満州における大豆の歴史

我が国では、大豆は縄文時代の昔から綿々と栽培が続いてきており、その栽培面積も時代とともに拡大していったものと考えられます。しかし日本の社会ではいつの時代からか稲作が農業の中心となり、大豆は稲作と栽培時期が重複しているためにどうしても大豆の栽培が後回しになり生産量が需要に追い付いていけない状態が続いていたと想像されます。特に江戸時代の経済はまさに石高制と称され、藩で生産されるコメの石高が指標となって藩の経済力、さらには藩の勢力をも示していたとされていたので、各藩は米作りに懸命となり、大豆生産はその余りの土地で細々と作られていたようなものでした。

それでも、古い農水省の統計によれば日露戦争当時(1905年)の国産大豆生産量は年間42.1万トンであり、現在の2倍程度生産されていたようで、当時の人口から推測しても国内需要をほぼ満たす状態であったと想像されます。そして国内での生活水準の向上と共に大豆消費量も徐々に増大していき、それが国産大豆の増産につながって1920年(大正9年)には国産大豆の生産統計の最大値となる55.1万トンを記録するに到ったのです。ところがこの頃から国産大豆は満州大豆に押され始めることになります。この頃の満州では大豆栽培が大きく飛躍をしており、海外への輸出が急速に拡大して、その安価な満州大豆が我が国の国産大豆を駆逐していくことになります。こうして我が国の大豆調達は完全に満州大豆に依存する形になってしまいます。一時は55万トンまであった国産大豆も減少の一途をたどり30万トンを切るところまで下がり、終戦の年(1945年)には17万トンにまで減少してしまいます。なお、現在(2020年までの直近5年間)の国産大豆の生産量は20-25万トンの間で振れている状態です。こうして第2次世界大戦の終戦の前年には満州からの大豆輸入は93万トンとピークに達しており、我が国の大豆の供給はまったく満州に頼りきった状況までに達していたのです。

 

満州での大豆栽培風景

ここからは満州における大豆栽培の様子を満鉄の当時の資料から見てみることにします。満州では大豆栽培は一般的には高粱、粟、麦などの畑作と同じところで栽培されており、肥料は主にリン酸と加里を用いられていました。満州は日本の温暖湿潤気候に比べて北に位置しているために、わが国に比べると気温も涼しく雨量も少ない、亜寒帯冬季少雨気候でした。また、満州の奥地はステップ気候と呼ばれる降水量の少ない半乾燥地帯で、冬の訪れも早いので秋の収穫時期も日本よりも早いとされています。当然栽培している大豆の種類もわが国と違っていましたが、その多くは満鉄の「農事試験場」で品種改良されたものでした。満鉄が大豆の品種改良をする前に栽培されていた大豆品種についてはよくわかっていませんが、満鉄の記録に残されている満州の代表的な品種として奉天白眉(奉天周辺)、黒穀黄豆子(遼陽以南)、四粒黄(南満州北部)、小黒臍(満州北部)などがあります。満州の土壌はわが国のように腐葉土が多い窒素分の豊かな土壌ではないが、マメ科植物の特性として自ら空気中の窒素ガスを利用することが出来たので大豆の成長に大きな障害とはならなかったと想像されます。むしろカリなどのミネラルを多く含んでおり、その分大豆栽培には適していたと言えます。この地方は大陸気候のために春先には強風が吹き荒れることが多く、またこの時期には雨量も少ないために大豆種子の発芽には悪影響を及ぼすことが時々起こっていたようです。ここに満州各地の天候と日本・東京の天候を比べておきましたので参考に見ておいてください。

 

満州地方の気候  満鉄農務課編(大正13年)

 

南満州地方

(奉天)

北満州地方

(哈爾賓)

比較・日本

(東京)

季節

平均気温

平均雨量

平均気温

平均雨量

平均気温

平均雨量

発芽期5

  15.5

  56.2mm

  13.6

  42.6mm

  16.5

 152.3mm 

生育期6

  21.4

  84.5

  18.7

  97.7

  20.6

 163.0

生育期7

  24.4

 156.2 

  22.3

 186.6

  23.9

 140.9

成熟期8

  23.4

 138.0

  21.8

  98.2

  25.3

 162.6

成熟期9

  16.5

  84.2

  13.6

  51.1

  21.8

 221.8

 

大豆栽培の様子については次のように記録されています。

「播種は点播きよりも連播きとしており、一粒播きあるいは2粒播きとしている。大豆種子を播くと15分程度の厚さに覆土し、1回足で踏みつけておくのが望ましいとされています。大豆の種子が発芽するとまもなく除草・中耕作業が2-3回行われます。第1回目は本葉4,5葉が出てきたときに行い、根元に土寄せをします。さらに10-15日を経て第2回目の中耕をする。北支那、満州のように少雨の地では中耕の回数を多くする。最後の中耕は開花前に終了しておく。収穫作業は日本とは大きな差異がなく、鎌で根元から刈り取るのが一般的ですが、地方によっては抜き取っているところも少なからずあります。その根元を揃えて適当な大きさに束ね、これを圃場に堆積したり、収穫後ただちに庭内に運搬して堆積しておきます。」 このように農作業の内容は日本国内と大きな差異はありませんが、気候の差による変化はある程度見られます。大豆をよく乾燥した後に庭先でロバに石製ローラー(シートウコンツ)を引かせる光景などはいささか珍しさを感じる光景でしょう。その後は木製ショベル(ムーヤンチェン)で空中に放り上げて大豆から夾雑物を風選する姿などは我が国でもこの時代には同じことが行われていたことです。満州で栽培されていた大豆の品種は200を下らないと言われています。最も多く栽培されている品種は「黄白色種」と呼ばれるもので、これは日本で栽培されている当時の「一本草」「石川」「隠岐」「青根布」と呼ばれていたものとほぼ同じものとされています。この他にも奉天周辺で栽培されている「奉天白眉」「公主嶺」、遼陽かそれ以南の「黒穀黄豆子」、南満州北部の「四粒黄」「小黒臍」、奉天以南の「大粒青」、公主嶺付近の「鉄莢豆子」などが主な品種だったようです。

 

1909 年になると大連をはじめ、ハルビンや北満洲各地の鉄道沿線で大規模な油房(搾油工房)が建設されるようになり、満州での大豆搾油事業の発展期を迎えることになります。そして1920 年代になると、満州大豆は世界商品として成長するとともに、その広範な用途は欧米において注目され始め、需要は拡大していきました。しかしドイツでは、大豆を多角的に活用するために大豆油として輸入するのではなく、大豆を輸入して自国での搾油に力を入れるようになっていきます。これはドイツが大豆を自国の経済発展のための原材料として見るようになったからです。こうして欧州での大豆の需要量は高まっていく反面、大豆油・豆粕への需要が減ってきて、1925 年以降の大豆の輸出量は豆粕を上回るようになります。一方、それまで日本に大量に輸出されていた豆粕は価格の安い硫安の普及によって需要量と価格が低迷していました。こうして満洲大豆のヨーロッパ諸国での需要が急増するにともない大豆価格は高騰していく反面、日本国内での豆粕価格が下落したために現地の日系製油企業などは原料高・製品安の採算悪化に直面することになります。1910 年から 1932 年までは満州での大豆搾油は発展期あるいは全盛期を迎えることになりますが、1932 年から、大連、ハルビン及び北満洲各地の豆粕生産量は激減となり、衰退期をたどるようになります。その様子は次の満鉄のデーターに見ることが出来ます。

 

 満州油房豆粕生産数量推移  (単位 万枚)

年度

1918

1920

1922

1929

1931

1932

1933

1935

 

生産量

3,632

4,311

4,645

5,137

5,815

5,777

3,843

3,963

 

 

 この表に示すように1931,32年をピークに満州における大豆搾油は陰りを見せ、逆にヨーロッパにおいて満州大豆を原料とした大豆搾油が活発になってきます。

 

 このように満州大豆は始めのうちは安価な大豆価格と欧州で需要が高まる大豆油と日本国内で用途が開いた大豆粕肥料によって、原料安の製品高の環境に恵まれていましたが、ドイツを中心に大豆搾油の高まりによって原料大豆高に対して化学肥料の硫安の出現による大豆粕の需要低減による大豆製品安に見舞われることになります。

 

 

 

                          (2022.2

 

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