大豆が歩んだ近代史 その1

「大豆の誕生」

 大豆は不思議な生命力をもった植物だと思わずにはいられません。大豆がこの世に生まれてきたのは今から5千年ほど前に中国、韓国とほぼ同時に我が国においても雑草のツルマメから変身して出来上がったものが大豆なのです。しかしこの雑草のツルマメから大豆に変身するまでに我が国では古代の縄文人たちがいかに長い時間をかけて野生ツルマメの栽培を繰り返していたことか、そして繰り返し種を蒔いている時に、より大きなツルマメの種子を選んで種まきするという努力を繰り返してきたことによって現在の大粒の大豆に変身したと考えられます。つまり今や世界の5大穀物の一つとされている大豆はこの東アジアの一角で古代人たちの努力によって生まれたのです。

 こうして生まれてきた大豆は当然のことながら大豆にとっての発芽・成長に必要な成分を種子の中に含んでいるはずですが、それがなんと人の健康に必要なたんぱく質、油脂、人の更年期障害を緩和してくれるイソフラボンや認知症予防に効果のあるレシチン、さらには体の若さを保つビタミンEなど、人の健康に役立つ成分を多く含んでいる種子となっているのです。さらにそこに含まれているタンパク質はアミノ酸スコア100という人の体に最も適した成分で出来ており、また油脂も必須脂肪酸と言われる人の体では合成出来ない、私たちにとってなければならない油脂成分で出来ているのです。まさに現代の私たち人類の健康の為に準備万端整えてくれていたかのように見えるのです。しかもそれらの栄養成分を長期保存が可能な頑丈な種子の中に閉じ込めておいてくれていたので、我々は秋に収穫出来た大豆を数年間貯蔵しながら非常事態に備えることが出来る貴重な穀物となっているのです。このように1粒の中に必要な栄養をバランスよく備えている大豆だからこそ、将来の宇宙旅行に備えた完全栄養食品としてNASAなどは大豆を材料にした宇宙食を検討しているのでしょう。

 また我々の過去の歴史の中では大豆は戦争という非常事態でも大きな力を発揮してきました。それは第1次、第2次世界大戦において大豆の争奪戦が起こったほどです。また後年の朝鮮戦争においても大豆を有効に利用した展開が勝敗に大きく影響していたことが知られています。このように戦争のような非常時態で、限られた食糧の中で生きなければならない状況というのは、今後にも起こらないとは断言できません。そのような将来の人類の緊急事態には大豆が再び重要な役割を担うのかも知れませんね。

 わが国では身の回りに多くの大豆食品を見ることが出来ます。伝統食材である豆腐、豆乳、納豆、味噌、醤油などを始め、最近ではヨーグルト、マヨネーズから代替肉に至るまで数えていけば数限りなく出てきます。しかもそれら大豆食品の多くは歴史も古く、我々の祖先の人たちが大豆の調理に工夫してきた姿が想像されます。我が国の記録の中で最初に大豆食品が登場するのは大宝律令(701年)においてとされています。ここには大豆を原料とした「醤」「豉」「未醤」などの発酵食品と思われる記録があります。これらのことからも我が国では縄文、弥生、飛鳥時代の古くから大豆は民衆にとって重要な穀物であったことがうかがわれます。当然のこととして、記録には残っていませんが、縄文時代から私たちの先祖たちは大豆を大切な食材として重宝していたことは十分に想像できます。このように大豆食品が長い歴史を刻んできたことから大豆油も当然ながら、これらの時代から我が国にあったのだろうと思われるかもしれませんが、じつは大豆油は近年になって登場してきた比較的新しい食材なのです。しかもそこには満州という、今はない中国の一地方を舞台にした歴史が深く織り込まれています。

 その物語を皆さんに知っていただきたいと思いますが、その話を初める前に、大豆が我が国にどのように登場してきたのか、もう少し丁寧に眺めてみたいと思います。

大豆はツルマメから変身

 大豆は既に述べた通り先祖種であるツルマメから変身したのです。このツルマメは今も日本各地の野原などで見ることが出来るつる性の野生植物です。では、このツルマメからいつどこで大豆に変わったのか、このことについて研究者たちはツルマメと大豆との中間体とされる栽培種を探していたのです。遺跡などから出土した大豆種子が栽培種かどうかを判断するのは種子の大きさの変化が一つの目安とされています。ツルマメは種子の大きさが1-2mm程度であり、現在の大豆と比べると種子の大きさに大きな隔たりがあります。そしてこの中間体が最初に見つかったのは中国の東北部、かつて満州地方と呼ばれていたことのある地域でした。

 その当時は世界の大豆の主産地がこの満州地方であったことと、中国の古い文献の中に、この地域に住んでいた朝鮮の古代民族である貊族(こまぞく)が栽培していた大豆を、紀元前7世紀の初めころ、斉の国の桓公が満州南部と見られる地方を制圧して持ち帰り、戎菽(チュウシュク)と名づけたとの記録があることなどから満州発生説が有力になりました。しかしその後、中国の研究者たちが中国全土に亘って調査・収集を行った結果、満州以外からも広く発見されており、現在ではツルマメから大豆への進化は中国の特定の地域で行われたのではなく、複数の地域で並行的に発生したものと考えられています。

 

ツルマメ、(牧野日本植物図鑑より)

 

わが国の最古の大豆は縄文時代の遺跡から

 わが国の遺跡からの大豆の出土で長い間、最も古いものとされていたのは、山口県にある宮原遺跡からのもので弥生時代前期のものとされていました。それは昭和477月に新幹線の工事中に発見されたもので、この遺跡から4粒の大豆が発見されています。この宮原遺跡以外でも、いくつかの大豆の出土品が見つかりましたが、弥生時代のこの時期をさかのぼるものはありませんでした。我が国の古墳などから出土した最も古い「豆類」としては、縄文時代前期のものとされる福井県三方町の鳥浜遺跡からのリョクトウがあります。九州では縄文後期後半にアズキやリョクトウと考えられる出土資料もありました。しかし縄文時代からの大豆の出土はありませんでした。

 ところが2007年になって相次いで大豆の出土品が見つかったのです。そのひとつは熊本大学のグループが見つけたもので、従来の定説よりもさらに1000年古い縄文時代後期とされるもので、今から3,600年前のものと推定されました。彼らは土器の表面や内部に残された植物の種子の跡を型にとって顕微鏡で観察するという「レプリカ法」を用いて調べていました。この方法で長崎県大野原(おおのばる)遺跡、熊本県三万田(みまんだ)遺跡から出土した縄文時代後期から晩期にかけての土器4点から大豆の痕跡を発見したのです。さらに、その痕跡から、それらの大豆は栽培種であったことが明らかにされています。

 ところが、その直後に山梨県北杜市にある酒呑場(さけのみば)遺跡から出土した縄文時代中期の井戸尻式土器から大豆の圧痕が見つかったと発表されました。これは山梨県立博物館の研究グループなどによって確認されたもので、熊本大学が発表したものよりさらに1,500年ほど前にさかのぼる、約5,000年前の大豆とされています。このグループもやはり「レプリカ法」で出土した土器などを観察したもので、大豆特有の「へそ」によって確認された、と言われています。現時点ではこの発見が最も古い大豆だとされています。

 縄文時代はどんな時代か

 では、この大豆の痕跡が見つかったとされる縄文時代中期とはどんな時代だったのか、現在我々が目にすることが出来る同時代の遺跡の一つが青森県にある三内丸山遺跡です。ここには縄文時代前期・中期の数々の出土品が見つかっています。それらの知見によると、この時代は気候が温暖で人口が増加していた豊かな時期でもあったようです。

 地球の歴史を振り返ってみると今から12万年前には温暖な時期があり、氷河も解けて東京は海の底に沈んでいたとされています。ところが2万年前になると再び氷河期に入り、東京湾の水位は逆に今よりも130m下位だったとされています。そして縄文時代に当たる6千年前には再び温暖化が進み、現在の東京の下町地帯に相当する土地は水没していたと考えられ、現在よりも海面が3mほど高かったと思われます。このように大豆が生まれた時代は現代よりも温暖であり、海岸が内陸部へと広がっていた時代だったようです。

 彼らは6畳一室くらいの竪穴式住居に住んでおり、5-10人家族による集落をつくっていたことが想像されています。同じ時期の富山県小竹貝塚からは50歳以上の人骨が発見されていますが、それは大腿骨を骨折して機能しなくなった足を縛って暮らしていたことが分かっています。また北海道の高砂・入江貝塚からは20歳前後の人骨で、子供の頃からの小児まひで自力では歩くことが出来ない人だとされています。それらいずれもがムラ社会の成立により助け合いや介護の様子が想像されるものであったのです。また三内丸山遺跡からは、そこから700kmも離れている新潟県の糸魚川で採れるヒスイや、北海道の白滝で採れる黒曜石も見つかっており、すでに広域にわたる交流があったことが想像されます。そしてお互いに共通語を喋っていて交流をしていたことも想像させるのです。この時期になると気候も温暖で人口も増加していたので、それまでの狩猟や採取を中心とした食糧の確保だけでは間に合わなくなっていた様子が見て取れます。縄文中期の気候が温暖な時期には東日本を中心に人口が増え、26万人に達したと想像されます。そのために、それまで採取していた植物のいくつかは栽培されるようになり、野生の獣の家畜化も行われ、定住生活が始まっていったと考えられます。そしてこの時代になって大豆やアズキが栽培されていたことも見られているのです。

 ここには知恵の発達していない未開の古代人というイメージは全くなく、自分たちが利用できるあらゆる道具をかき集めてきて食物の栽培を行っており、また自分たちの生命を守ってくれる神に対しての厚い信仰心を土器に表している、まさに創意工夫に満ちた先人たちの姿が見えてくる思いがします。私たちは彼ら縄文人は現代の我々よりも劣っていたと思い込んでいるかも知れませんが、各種の研究の中で彼らの脳の容積は現代の我々よりも少し大きかったということが分かっています。彼ら縄文人の方が現代の我々に比べて知見が少なかったり、道具がなかった分だけ物事への取り組み方が革新的だったのかも知れませんね。必ずしも現代人の方が進化しているとは言い切れないと思います。
 そして彼らの思いは当時作った縄文時代中期の土偶(縄文のビーナス)などに現れていると思われます。この時代に出土する土器はものを保存する器と言うよりも実用性を越えて「祈り」を表す性格が強かったと見られています。それらは中部山岳地帯の「水煙文土器」とか新潟県で出土している「火焔型土器」として今に残されています。そこには縄文人たちの力強いエネルギーを感じさせるパワーが秘められていると感じさせるものばかりであり、その生活も安定してきていることも示していると見られています。私たちは縄文時代からの血を現代に受け継いでおり、縄文人の心は今の我々にも生き続けていると思わずにはいられません。近年の研究によって現代の日本人(東京周辺の調査による)の遺伝子の中には縄文人の遺伝子が12%ほど受け継がれていることがわかっています。そして縄文の人たちが大豆に抱いていた気持ちも現代の我々にそのままつながっているのではないかとも想像されます。

 中国・韓国の遺跡からも

 大豆の先祖種であるツルマメの分布をみると、それは東アジアの南端の海南島周辺から北は沿海州・アムール川流域にまでの広い範囲に分布していますが、この領域の中でツルマメを栽培していたのは東アジアの中緯度あたりと考えられています。そして各地の遺跡の発掘による考古学的研究により、現在では我が国と同じように、中国においても大豆の誕生は5千年前の新石器時代中頃と考えられています(小畑弘己)。 また朝鮮半島における大豆の誕生は炭素年代測定結果から約5千年前の櫛文土器時代中期から始まったことが坪居洞遺跡からわかってきています(李Q娥)。 さらに中国の遺跡からの出土大豆は小粒の豆であり、韓国の古代の大豆は楕円形をしていたことが分かっています。このように日本、中国、韓国の初期の大豆の形が違っていたことは、これらの違った土地でそれぞれ独自に先祖種のツルマメから大豆に形を変えていったことを意味しており、そのことは遺伝学的にも確認されています。このように現時点では東アジアにおける大豆の発生は日本、中国、朝鮮半島においてそれぞれの古代人によってツルマメを栽培していた途中からほぼ同時期に大豆へと変身していったとされています。ただし、それぞれの地で見つけられている初期の大豆の出土品はまだ発見数が少なく、今後の研究に待たれるところでもあります。

 このように我が国の大豆は5千年前の縄文時代中期に古代の縄文人たちによってツルマメから大豆へと品種改良したものであることがわかったのです。5千年まえにツルマメから大豆に変身したということは、それよりもはるか前から大豆の先祖種であるツルマメを栽培し続けていたことを意味します。つまり古代の人たちは野原に生えていたツルマメを重要な食べ物と意識して長期にわたって栽培を続けていたのです。そしてそのことが大豆の誕生へとつながっていったのです。わが国ではツルマメの遺跡からの出土がいくつか見られています。例えば宮崎県都城市にある王子山遺跡からは1万3000年前のツルマメが出土しています。佐賀県の東名遺跡からは8000年前のツルマメが出土しています。さらに宮崎県の本野原遺跡からは4000年前のツルマメが見つけられています。長崎の大野原遺跡からは3500年前のツルマメが出土しています。それらを眺めてみると、この1万3000年前からの1万年の間にツルマメのサイズが段々と大きくなって現在の大豆に近づいている様子が見て取れます。これらは自然に変化したのではなく、明らかに縄文人の栽培努力の結果と見ることが出来ます。
しかし多くの雑草がある中で小粒のツルマメを選んで栽培し続けた古代人の気持ちとはいったい何だったのだろうか、多分彼らはツルマメだけではなく身の回りにあるいろいろな葉物野菜や実のなる草木を栽培していたことと想像されます。それらの中で栽培しやすいもの、増やしやすいもの、さらには貯蔵しておいても腐りにくいものなどが選ばれていき、その中にツルマメが入っていたのではなかったかと想像しています。エジプトのツタンカーメンの墓の中からエンドウマメが埋葬品の中に見つかり、それを播いたら芽が出てきたことは有名な話です。このように豆類は貯蔵条件さえ適切であれば長期に保存できる作物なのです。そのことに縄文人たちが気づいて繰り返し栽培を続けているうちに大きな大豆に変身したのではないだろうか。これはあくまでも我々現代人からの想像に過ぎないのですが彼らが作っていた縄文土器を見ながら思いは膨らんでいきます。

 もちろん我が国には古代中国の時代に伝播してきた大豆もあるし、朝鮮半島からもたらされた大豆も多く存在しますが、我が国固有の大豆も当初からあったことが遺伝子解析からも確認されていることも知っておいてもらいたいと思っています。

 マメ科植物は古代文明に貢献していた

 大豆はマメ科植物に属していますが、そのマメ科植物は世界で60013,000種あるといわれています。これはイネ科に次ぐ大きな植物のグループであり、その代表的なものが大豆です。これらマメ科植物には空気中の窒素ガスを取り込んで自分の栄養として利用することができる特技を持っているのです。

 これらのマメ科植物のうち現在食用に利用されているマメ類は約80種と言われ、その中でも経済的に重要なマメ類はわずか30種程度であるとされています。これら多くのマメ科植物がいつから地球上に生息していたのかはよくわかっていません。しかし、日本や中国の遺跡からの出土品から大豆の先祖種であるツルマメやリョクトウなどは古くから縄文人などによって栽培されていた痕跡が見られており、日本では7000年前のリョクトウや中国でも1万年前のツルマメを主張している説も見られているほどです。その他の多くのマメ科植物の広がりから考えても、今から7千-1万年前の、人類が地上に文明を築いた時よりもはるか前にはすでに多くのマメ科植物が生息していた可能性は否定できません。

 2019年10月には学術雑誌「サイエンス」に、最も古いマメ科植物の化石が、6400万年前の地層から発見されたことが発表されました。発見された場所はアメリカ・コロラド州の山岳地帯でした。ここからは巨大隕石が地球に衝突してから70万年後の地層から、隕石衝突後に生き延びていた哺乳類の化石と共にマメ科植物の化石が見つかったのです。そして生き残った哺乳類たちがマメ科植物を含む植物を食べることにより約100万年で大型化していったことも明らかになりました。このようにマメ科植物は6400万年前にはすでに地球上に現れており、周辺の植物に空気中の窒素を栄養として与えていたのみならず、間接的に古代動物の生命を支えていたのです。

 われわれの住む東アジアに起源をもつマメ類は大豆とアズキだけとされています。リョクトウはインド中北部を起源としておりササゲはアフリカ原産です。エンドウ、ソラマメなどは西アジアのチグリス、ユーフラテス河とナイル河周辺を起源としているのです。このように日本で縄文時代から栽培されていたのは大豆、アズキとリョクトウだけですが、世界の各地ではすでに多くのマメ科植物が育っていた可能性が高いのです。私たちが今食べているインゲンマメ、ベニバナインゲン、エンドウマメなどは江戸時代末期から明治時代にかけて日本に入ってきた豆類と言われています。

 ここにも書いたようにチグリス河とユーフラテス河の間で約5千年前にメソポタミア文明が生まれました。この文明を支えたのは、高い農業生産力だったとされており、主に小麦が栽培されていたようです。ところがここの小麦の生産力は極めて高く、小麦1粒から80粒の小麦が生産されたと言われています。現代の技術を用いてもこんな高収量を得ることは難しいほどです。本当にこんなに高収量だったかは疑わしいところですが、いずれにしても他の地域に比べても豊かな小麦の生産力があったことは確かだったようでした。彼らはこれらの小麦で周辺の地域と交易を始めて大きな富を築いていき、巨大な神殿を作って強大な国家を広げていったのです。そしてこの地域にはマメ科植物のエンドウとソラマメが生れていたのです。
 
 エジプトのピラミッドのツタンカーメンの墓からはエンドウマメの種子が見つかったことは有名ですが、この種子が発芽して、今では多くの人たちに育て継がれています。ツタンカーメン王が葬られたのは紀元前1358年とされており、その時に副葬品として埋葬されたエンドウマメの種子が、1923年にイギリスの考古学者カーターによって発掘されて持ち帰ったマメが3281年の休眠を破って発芽したのです。種子の生命力の強さには驚くばかりです。

 豆類の原産地について現時点で考えられているのは次の表に書いた通りですが、これらマメ科植物が生まれた地域に古代文明が育っているのです。古代の文明が生まれたナイル河やチグリス、ユーフラテス河、インダス河、黄河の周辺が世界のマメ類の発祥地であったことはまったく偶然ではないと思っています。詳しくは根粒菌の項で説明しますが、これらマメ科植物が周辺地域に自生していたかどうかが穀物栽培を可能にし、社会を形成し、文明を育てていくうえで大きな要因であった可能性が高いのです。 

豆の種類

想定される原産地

豆の種類

想定される原産地

大豆

中國・日本

インゲンマメ

メキシコ遺跡から

アズキ

東アジア

ささげ

アフリカ

エンドウ豆

地中海沿岸

そら豆

メソポタミア地方

ひよこ豆

インド周辺

レンズ豆

西アジア

 

 我々の先祖たちは身の周りにあった種子を採取し、動物を家畜化して農耕を広め、社会を形成していったのです。そして食糧として適している小麦など穀物の栽培地を広げて部族をまとめ、富を蓄えて国家へと築き上げていったのです。しかし、その時にどこの土地でも同じように穀物が育ったとは考えられません。小麦やトーモロコシなどが育ちやすかった地域には文明が育ち、栽培効率の悪い土地では文明が育ちにくかったと想像されます。そのような差は何によって起こっていたのか、それにはいくつかの要因があったと思われますが、その地域にマメ科植物が生息していたかどうかが大きな差を生んだものと考えられます。マメ科植物には共生する根粒菌の働きによって、その周りの土壌中には空気中から取り込まれた窒素分が豊富に含まれるようになり、化学肥料のなかった古代にあって空気中から固定した窒素は、小麦やその他の作物を育てる、まさに陰の大きな力になっていたはずです。植物が取り入れる栄養素の中でも窒素肥料による生育効果は最も大きな影響を与えることが知られています。20世紀になっても大豆やレンゲなどマメ科植物と共生している窒素固定菌に窒素の栄養分を頼っていた農業が行われていたことを考えれば、約5千年前に各地で起こった古代文明を支えた小麦栽培において、その周辺にマメ科植物に共生する窒素固定菌が棲んでいたかどうかは、そこに富が蓄積できたかどうかの大きな差となったはずです。こうしてマメ科植物が育っていた土地に初期の農耕文化が生まれ、それによって培われた富を土台として古代文明を育んでいったことが想像されます。まさにマメ科植物は古代文明を築き上げる力強い影の力になっていたことでしょう。つまり、古代の豆類は世界の文明創生に貢献していたと言っても過言ではないと思っています。

 こうして古代の中国黄河流域では大豆の先祖種であるツルマメや大豆に寄生する根粒菌によって土壌中に窒素分が蓄積され、多くの民を育てることが出来るようになり「黄河文明」が育つ環境が出来ていったと考えられます。

 世界の焼畑農業の歴史を見ても、紀元前300年頃のギリシャ・ローマ時代にはすでにマメ科植物は“緑肥”として土壌に鋤きこむことがおこなわれていたことが分かっており、このようなマメ科植物を利用した農業が古くからおこなわれていたのです。古代ローマ文明は紀元前800年頃に生まれており、すでにその頃にはローマ文明が育った周辺の土地にマメ科植物が育っていたことと考えられます。アメリカは現在世界最大の大豆生産国ですが、このアメリカでも大豆栽培の最初の目的は、小麦・トーモロコシ栽培で痩せた土地の地力回復を図ったものであり、緑肥として大豆をそのまま土壌の中に鋤き込んでいたのです。アメリカで大豆種子の収穫を目的とする栽培が緑肥目的を上回るのは、やっと1940年代後半になってからのことです。

 冒頭にも書いたように、小麦やトーモロコシ栽培を支え古代文明を作り上げるには窒素分が必要であり、それを供給できたのはマメ科植物だけだったのです。このようにマメ科植物は古代の文明を支えたのと同じように、将来の人口爆発に対応できる作物としても期待されているのです。 そして現代においても地球のサイクルの中で空気中の窒素を生物サイクルに取り込んでいる多くはこのマメ科植物なのです。

 (2022.1)

 

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