加藤昇の(新)大豆の話
86. 中国の大豆史
世界の大豆油の歴史はすでに書いたように、中国東北部(旧満州)から始まっています。昔から中国では、大豆は油を絞る原料として利用されており、その搾り粕は肥料や飼料などに使われていました。このことを我が国の時代に当てはめれば平安時代の後期から鎌倉時代にかけて満州地方ではすでに大豆搾油が行われていたことになります。中国では大豆製品の利用が早く、特に満洲大豆は重要な搾油原料として使われていました。そして1895 年の日清戦争後、日本への輸出量が増大していくのでした。
日本企業で最初に満州大豆に取り組んだのは商社の三井物産でしたが、それに続いて日系企業も満州に進出するようになります。1907年には日清製油、1922年には豊年製油といった製油企業が相次いで満州に進出していきました。しかしこれらの日系企業は原料である大豆を、満州で入手する独自の流通組織がないため、現地の穀物商である糧桟に依存しなければならなかったのです。1910年代の満州には地方軍閥が存在していました。軍閥間の抗争や軍閥政権の経済活動が日系企業の進出を困難にしていました。満州での代表的な軍閥は張作霖・学良父子のいわゆる張政権でした。張政権は糧桟、満鉄並行鉄道などを利用し、大豆の買付、販売、運輸などに積極的に進出し、やがて農産物を売買する仲介業・糧桟の組織を広げていくとともに保管倉庫も大型化して大豆産業に深く食い込んでいったのです。
農家が生産した大豆は産地糧桟や沿線糧桟と言われる地方糧桟で買い集められ、産地糧桟からは大連、ハルビンにある中央糧桟に大半の大豆が渡っていきました。中央糧桟では大豆油を絞る大油坊を経由して多くの大豆油が海外へ輸出されていくことになります。日系の製油会社や商社もこれら中央糧桟から大豆を買付しなければならなかったのです。1920 年代になって満洲の大豆生産量は大きく増産されることになります。満鉄が調査した『満洲に於ける油坊業』によれば、中国全体の大豆生産量は世界の約 80% を占めており、満洲での生産量が全中国生産量のほぼ7 割に及んでいたとされています。つまり、満洲大豆の生産量は世界の大豆生産量の約50%を占めていたことになります。
張作霖は、1916年には自らの軍閥の勢力を背景に約18億uの農家の土地を奪って満州の軍事・政治を完全に掌握し、満州地方最大の地主となったのです。しかし、張作霖は土地の占有だけでは満足せず、私帖を発行するようになります。私帖は当時大量に流通されていた信用預かり証です。張作霖政権は外国などから武器を調達するために外貨が必要だったので、満州で国際商品として流通している大豆に着目したのです。こうして張作霖は満州の政権を握りつつ、油坊、糧桟などを各地に拡張していきました。 こうして張作霖が率いる奉天軍閥が日系企業に立ちはだかる存在となり、1928年6月4日奉天近郊で列車ごと爆殺されることになるのです。
1928年、張作霖の後継として張学良は満州三省の総司令に就任し、さらに南京政府の傘下に入ることになります。こうすることによって関東軍を含めた日本に対抗しようとの考えであったようです。すなわち張学良は満鉄を退け、自ら建設した中国鉄道を利用して、直接満州大豆を欧米に輸出するという生産・販売一貫体制を構想したのです。こうして満鉄と張学良は、互いに一つの利益を奪い合う競合相手となったのです。満鉄側からすれば、日系企業の大豆ビジネスの前には張氏政権をはじめとする満州軍閥が大きな障害として立ちはだかったことになります。彼らは大豆を独占するだけでなく独自の輸送ルートを確保したことで満鉄や日系製油企業の大豆ビジネスの排除を考えていたのです。
このような厳しい時代の中で起こった満州事変をきっかけに、1932年に満州国が建国されたのです。建国により主権を掌握した関東軍による満州国の統制が一気に強化されていきました。こうして関東軍は中国の糧桟を廃止し、日本農産物商社による交易市場を満州各地に設置していったのです。これらの新たな取り組みによって農家からは大豆を安く買い付けるようになり、大豆農家は生産の意欲が低下し、他の経済作物に転換する者が出始めます。こうして満州国の大豆生産量は初めて減少を始めることになります。1931年の大豆生産量に対して1939年には77.5%へと急速に減少していきました。満州で大豆の生産不振状態が続く中、1937年には日中戦争が勃発しました。日中戦争が長期化すると、関東軍は外貨獲得のために大豆三品の輸出量の増加が不可避になってきました。そこで満州国は農産物の集荷の強化と闇市場への流出を阻止するために「満州特産専管公社」を設置して、大豆など9種類の穀物を統制対象としました。農民は農産物をこの組織を経由して売り渡さなければならなかったのです。このようにして大豆などが安価で強制的に買い取られ、また闇ルートへの販売も閉ざされてしまいました。そしてこのような時代背景の中で農民の耕作意欲が低下し、大豆の生産量が急速に減少していったのです。こうして満州大豆は世界の大豆生産の主役の場から降りて、舞台はアメリカ大豆の時代へと変わっていくのです。
掲載日 2019.7