加藤昇の(新)大豆の話

85. ブラジルの大豆史

2014年にサッカーのワールドカップがブラジルで開催されていた時にはブラジルの街角からさかんにテレビ中継されていました。そこに映し出された大勢の日系2世、3世のブラジル人の多さに驚かれた方も多かったのではないでしょうか。今から約110年前の20世紀初めには日本からブラジルへ、新天地を求めて大勢の農民が移住していたのです。それまではハワイへなどへの移民が多かったのですが1924年になると北米への移民が全面的に禁止となり、翌1925年からは国策としてブラジル移民を増加させていったのです。彼らはブラジルの大地を開墾し、苦しい作業をしながら農業で生活の道を切り拓いていきました。現在ブラジルに住む日系2世、3世は150万人以上と言われており、世界最大の日系社会がここに作られています。それまで栽培されていなかった大豆を持ち込んでブラジルで栽培を始めたのもこれら日本からの移民たちでした。

 

今や世界の大豆供給国として期待を一身に集めているブラジル大豆の栽培は、1908年頃サンパウロに移民した日本人によって行われましたが、気候の違いで大豆の生育が悪く、順調には拡大していきませんでした。1950年になってブラジルの南端で小麦の裏作として大豆の栽培が始められましたが、ここはアルゼンチンに近く気候も比較的涼しく、九州の南部程度の気候だったので大豆栽培が順調に定着していきました。そこから徐々に栽培地域が北のほうに広がっていきました。しかし、なによりもブラジル大豆に大きな影響力を与えたのは日本の技術と資金をつぎ込んで始められたセラード開発でしょう。

 

1973年にアメリカは不作を理由に大豆の輸出規制を行いました。この影響で日本ではアメリカからの輸入大豆の在庫が底をついてしまい、豆腐など大豆製品の価格が高騰して、社会全体が騒然となりました。当時の田中角栄首相は、国内の大豆価格の安定を図るためにも、アメリカ以外の大豆供給国を育成すべきだとしてブラジルを目指したのでした。田中首相を乗せたヘリコプターが荒れ果てたセラードと呼ばれるブラジルの荒地の上を飛んだのが農地開発のスタートとなったのです。セラードはブラジル全土の24%を占める広大な面積であり、ポルトガル語で作物が育たない不毛の地を意味する「閉ざされた」という言葉で呼ばれているところです。ここでの開発作業は、強い酸性である土壌に石灰を投入して中和することから始められました。この事業は2001年までの21年間に亘って、345千ヘクタールを造成し、灌漑を整備し、入植農家に対する技術、金融両面から支援をしていったのでした。このセラードでの大豆栽培については日本の国際協力事業団(JICA)を核に、大量の資金と長期にわたる技術供与を行いながら不毛のセラードを大豆畑に変えていったのでした。ブラジルにおけるセラード開発に日本の果たした功績は非常に大きいものです。今ではかつてセラードだった土地からの大豆生産量がブラジル大豆全体の6割を占めるに至っていると言われています。

しかし近年ではADMやカーギルなど欧米の穀物メジャーによって、南米大豆の取り扱いはすっかり彼らに寡占化されてしまい、日本の消費者への還元はあまり多くはありません。そのようになった理由の一つに、ブラジルは赤道の向こうの南半球にあり、そこから大豆を日本へ運ぶのにコストがかかることと、赤道を越えるときの高温によって大豆の品質が劣化するからとも言われています。さらにブラジルでは収穫した農地から海外へ積み出す港までの距離も長く、国内での穀物輸送のインフラもまだ十分でなく、結果的に収穫大豆の価格に影響を及ぼしているとされています。このような背景から現実にブラジルからの大豆輸入量は現在も多くありません。また、農家に対する資金援助の面でも日本の企業は穀物メジャーに対抗することが出来ず、開発者としてのメリットを充分に得られていないという状態が続いています。こうして日本が行ったセラード開発は、その後の環境の変化もあり、国際協力の難しさを味わっているところです。しかし、ブラジルで大量の大豆が生産できるようになったことで世界の大豆価格も安定しており、我が国のセラード開発が世界の大豆需給に大きく寄与していることは間違いありません。こうして日本が海外から輸入している大豆はアメリカから約7割、ブラジルから2割という状態が続いていますが、世界の大豆生産に貢献した功績は非常に大きかったと思われます。

かくして今や大豆の生産地図は、かつての大豆発祥の地といわれた東アジアから、遥か海を渡ってアルゼンチン、カナダなどを含む南北アメリカを中心とした新天地へと移動し、これら新勢力が世界の大豆輸出量の約9割をまかなうところにまでになっています。

 

 掲載日 2019.7

 

 

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