加藤昇の(新)大豆の話
84. 欧州の大豆史
ヨーロッパへの大豆の紹介はすでに触れたようにアメリカよりも早く、17世紀にはすでに大豆が認識されつつありました。1603年に出版された日本イエズス会編集「日葡(ポルトガル)辞典」には大豆・味噌・醤油について記載されていて、これがヨーロッパに大豆製品が紹介された最初とされています。1679年にジョーンロックは東インド諸島からイギリスへもたらされてくる物資としてマンゴと大豆を挙げています。また、1691,92年に日本に住んでいたオランダ東インド会社の医師エンゲルベルト・ケンペルは帰国後900ページにわたる日本における大豆の栽培・加工について正確に記述した本を出しています。当時は欧州人で日本への入国が認められていたのはオランダの東インド会社の社員のみだったので、彼はその社員として長崎の出島にやってきましたがどうも彼の本当の目的は医者としての医療業務だけではなかったようです。彼には東インド会社の社員として日本語の通訳と下僕が与えられていましたが、彼に日本語を教えることは禁止されていたようです。また出島に住むオランダ人は許可なく出島から出ることは禁止されていましたが、彼の巧みな交際術によって彼は江戸との間を2回往復しています。そしてその間に見た様子をこまかく書き留めて帰国後にこれを本にして日本を紹介したのです。その中には大豆について詳細に記録しており、醤油の原料が大豆であることも欧州人は初めて知ることが出来たのです。しかし大豆がヨーロッパで栽培された記録は遅く、1737年にオランダ人リナエスが自分の庭に大豆を植えていたことを書いたのが最初です。それに続いて1739年には中国にいた伝教師によって大豆がパリの植物園に持ち込まれ、1790年にはイギリスの王立植物園に、1804年にユーゴスラビアの植物園にいずれも植物分類学的目的や観賞用として植えられていたようです。ヨーロッパでも1900年頃になると商業生産が試みられていますが、大豆は登熟までには150日を要し、緯度の高いヨーロッパでは日照時間が不足して栽培が難しかったようです。
第一次世界大戦により、戦場となったヨーロッパ諸国において油脂原料が不足したため、安価な満洲大豆を輸入するようになります。1908 年にはイギリスの「リヴアプール」製油会社に 200 トンの満州大豆が輸出されました。これにドイツも敏感に反応して満州からの大豆油の輸入を始め、ヨーロッパにおける大豆油の取り組みはイギリスとドイツが先行して進んで行くことになります。もともとイギリスの搾油原料は棉実、亜麻仁でしたが、それらの作物は不作などで減産するとともに価格が高騰したために、その調整のために一時的に大豆で補うのが目的でした。イギリスにとっては、満洲から大豆を輸入すると輸送時間が長いことと輸送費用がかかるために、大豆は一時的な代用品でしかなかったのです。これに対してドイツは大豆搾油産業を国の経済を支える重要な産業ととらえて育成することを目指して技術開発に取り組んでいきました。ドイツも1908年にはすでに大豆搾油に取り組み、満州から大豆の輸入を始めるとともに大豆油の研究に取り掛かります。1928年には、オーストリアのラーズロー博士が食用を目的とした大豆全粒粉Edelsojaを開発してドイツに紹介するとともに、その料理本を出版して市民も知るところとなっています。
第一次世界大戦(1914-1919)が終わるとイギリスもドイツも搾油産業が壊滅的な被害を受けて、自国での大豆油の生産が望めなくなり満州から大豆油を輸入するようになります。この頃の満州からの大豆油の輸出を見ると、1916 年におけるヨーロッパへの 輸出量は 41,500 トンであり、その 6 年後の 1922 年には
97,100 トンと、6 年間で欧州向け大豆油の輸出量は2 倍以上増加しています。さらに 1932 年になると、ヨーロッパ諸国における満洲大豆の需要は 1925 年と比べて 3 倍以上と急速に拡大していきます。このように、満洲の大豆油は世界との繋がりを強め、原料大豆と共に世界経済に敏感に反映する国際商品となるのです。当時、満洲産大豆油の約5割は欧州市場へ輸出されており、大連における輸出価格が国際市場に大きく影響を与えるようになっていました。
1931年になるとドイツに大豆搾油工場が次々と出現するようになり、年間24万6千トンの処理量に達することもありました。こうして1933年にはドイツは世界最大の満州大豆の輸入国になるのです。自国でも大豆の栽培に挑戦しますが、高緯度の北ヨーロッパでは日照時間が不足していたので成功はしませんでした。しかしナチスドイツ軍は戦争の気配が濃厚になるにしたがい、海路での輸入や満州からのシベリア鉄道での輸送に依存することのリスクを認識するようになり、ルーマニアをはじめとするバルカン諸国での大豆栽培を積極的に推進するようになります。
一方、ヨーロッパでは当時、棉実を油脂原料として輸入していたが害虫被害の広がりから供給が不安定となり、棉実に代わる油脂原料として満州大豆に注目し、20世紀初頭には三井物産を通じて初めてイギリスに満州大豆が輸出されている。ところがドイツが大豆の価値に注目して新しい搾油技術を開発し、大豆産業の舞台はイギリスからドイツへと移ることになる。日本が満鉄を通じて近代的搾油技術を導入したのはこの時に開発されたドイツ技術であった。こうして近代的大豆産業はヨーロッパでのドイツとアジアでの日本が世界の2大拠点となるのである。しかし第1次世界大戦が終わるとイギリスもドイツも搾油産業の復興が遅れ、満州と日本から大豆油を輸入せざるを得ない状況になっていた。しかしドイツ政府は大豆搾油産業を戦後復興の重要産業と位置づけ国内の大豆搾油産業を保護したために急速に回復し、1932年には大豆油生産18.8万トンとピークに達し、ヨーロッパ諸国やアメリカに輸出して、第2位の日本を引き離して大豆の輸入量、搾油量ともに世界1位になった
1922 年〜1940 年において、満洲大豆の主な輸出先は日本が 41.4%、ドイツが 39.7%、デンマークが 11.5%、イギリス が 7.4%でした。第一次世界大戦でドイツは敗れて植民地を喪失したことで、各種資源の供給地を失ってしまいました。そのため、ドイツにとって、安価な満洲大豆は経済再建をするためには欠かすことの出来ない重要な工業原料となったのです。満洲大豆から得た大豆油は、ドイツなどのヨーロッパ諸国で
マーガリン、石鹸、その他工業原料などに使用されていました。ドイツにおける満洲大豆の輸入量は、1910年には3.4万トンでしたが、1928年には、84.7
万トン、1930 年には 88.9万 トンまで拡大していきました。 1927 年〜1930 年には満洲大豆の総輸出量の 38.5%をドイツが占めるに至りました。こうしてドイツでの大豆油生産量は1932年には18万8千トンを記録するところとなり、ヨーロッパ諸国やアメリカに輸出し、第2位の日本を引き離して大豆の輸入量・搾油量ともに世界第1位となったのです。
第2次世界大戦中のドイツ軍ナチス戦闘員にとって大豆粉は貴重な栄養源であり、大豆は重要軍事物資として位置づけられていました。当時のロンドン・タイムズ紙も大豆を「肉の代用となる魔法の豆」という記事を書いています。ドイツは大豆供給先を満州依存から分散するため、前述のように東ヨーロッパ諸国での生産に力を注いだのです。たとえば、第2次世界大戦の直前にはルーマニアで大豆を栽培し、それを輸入しています(脚注、Annales de
Geographic 1941. P222)。しかし、これら地域からのダイズの栽培面積も、1940年の13万6900haをピークに下降線をたどることになります。戦争が進むとドイツの搾油産業は壊滅状態になり、世界の舞台から姿を消し、1949年以降も立ち直ることは出来ませんでした。
掲載日 2019.7