加藤昇の(新)大豆の話

83. アメリカ大豆油産業の生い立ち

アメリカでの最初の大豆搾油企業は1911年にシアトルにあるアルバーズ・ブラザーズ・ミリング社が水力式圧搾機械で満州大豆を搾油したのが初めてだとされており、それに続いて1915年にはエリザベス・シティ油脂が大豆搾油に参入しています。19168月のニューヨークタイムズ紙には、ルイジアナ棉実搾油協会が大豆搾油を優先することを決定したと報じています。さらに1918年にはイリノイ州のシカゴハイオイル社が大豆搾油に取り組み、アメリカのコーンベルト地帯での大豆搾油のパイオニアになっています。こうしてアメリカにおける大豆油生産は1910年代にスタートを切っていったのでした。しかし、まだまだ自国の大豆油需要を賄うには程遠く、ドイツなど海外からの輸入に頼らざるを得ない状況が続いていました。

ドイツが第一次世界大戦による壊滅的な打撃によって大豆油を輸出することが不可能となったことにより、アメリカは日本と満州から大豆油を輸入せざるを得なくなります。こうした特需によって日本の大豆搾油産業は急速に発展していくことになります。そして日本はドイツに代わってアメリカの大豆油の需要に応えていったのです。

アメリカが大豆油の自国生産へと本格的に向かう契機となったのは、1920年頃のヨーロッパや日本でダイズ搾油が活発に行われていることを知ったこと、さらには1921年に大豆製品の輸入に関税が課せられることになったことなどが転機になったようです。それまでは日本や満州から大豆原油を輸入して国内で精製していましたが、1922年にはイリノイ州ディケーターでステーレー社 (A.E. Staley Co.)がエキスペラー(連続式圧搾機)によって、大豆搾油を始めています。これが、アメリカにおける大手企業の大豆搾油事業参入のスタートとなりました。続いてアーチャー・ダニエルズ・ ミッドランド社(ADM社)、セントラル・ソーヤ社、ラルストン・ピュリナー社、スペンサー・ケロッグ社など、その後の世界の大豆搾油事業を代表するような企業が顔をそろえることになるのです。

そして第二次世界大戦が始まると、日本からの大豆油の輸入は止まることになります。194112月には真珠湾攻撃が始まり日米開戦となると、アメリカ農務省は一大キャンペーンを張ります。『大豆と戦争:アメリカ政府は戦争に勝利するために大豆油を必要としている。極東の戦争で輸入が途絶えた10億ポンド(約45万トン)の油脂を賄わねばならない。同時に、我が同盟国は10億ポンド以上の油脂を今年中に送るよう要請してきた。これだけの増産をするためには、大豆の作付面積を拡大してもらいたい。昨年は約600万エーカー(約243ha)だったが、それを900万エーカーに、できることなら1,000万エーカーにしてもらえないだろうか。大豆油がどのように役立つかって?大半は食用に充てられる。そして、さまざまな兵器を錆から護る塗料や油性ニスにも大量に回される。石鹸にもなる。もちろん、そのようなわけで大豆は重要な戦略物資だから価格支持も約束する。今でも、かつてない高値だし、ここ数年の平均の2倍近い水準になっている』 とのビラを全米の農家に配布しました。この呼びかけに大豆農家が敏感に応えて、420万haに大豆を作付し、前年の大豆作付面積を大幅に上回り、一気に520万トンの大豆を生産し、大豆油の生産量は62%の大増産になりました。

アメリカの大豆生産はこのキャンペーンによって翌年の1942年には世界の一大生産国となっていました。そして第2次世界大戦が終わった1945年から大豆の輸出をし始め、急速に輸出量を拡大して現在に至っているのです。

 

1945年、第二次世界大戦は連合国軍の勝利で終結したが、アメリカの大豆生産者には戦時の特需に対応した増産体制が生産過剰をもたらすのではないかという悲観論と、ヨーロッパや日本は基本的に食料不足になり、アメリカ大豆にとって大きな市場になるのではないかという楽観論とが交錯していました。しかし大豆生産者の組織であるアメリカ大豆協会(2013年から海外においてもアメリカ大豆輸出協会と改称)は終戦の翌年の1946年には3,441トンの大豆を日本に向けて輸出しています。その詳細については知ることが出来ないが、恐らく満州大豆に大きく依存していた日本が満州の喪失と同時に大豆が枯渇してしまっている窮状を救済するための緊急輸出だったのではないかと思われます。その後もアメリカから日本に向けた輸出は続き1955年には572千トンと10年間で190倍の輸出量に増加しています。その後、アメリカは第2次世界大戦の戦争特需が一段落した後に現れた穀物の過剰在庫の処理に苦慮していました。そこで小麦やトーモロコシなど在庫量の多い穀物の減反政策を進めましたが、これに対して農家は減反した畑に大豆を蒔いて収入減に対応したため大豆の在庫も増えていくことになります。1954年には「余剰農産物処理法」を制定し、アメリカ国内で処理しきれなくなった穀物の過剰在庫は戦争の傷跡の消えないヨーロッパやアジアの飢餓解消として払い下げられていきました。アメリカは195510月にはアジア市場の調査を行い、「日本は極めて有望な潜在市場」であるとの報告をまとめ、 翌564月、同協会初めての海外事務所が東京に開設されました。そして1958年には日本はアメリカ産大豆の世界最大の輸入国になりました。こうして国内の過剰在庫を調整していましたが、ここでアメリカを旗頭とした新たな波が起こりました。

1960年代に入ると先進国を中心に可処分所得の増進に伴う肉食と食用油脂の消費拡大が始まりました。先進国全体で見ても一人あたりの食肉消費量は1976年までの15年間に54.4sから73.2sへと伸びており、その勢いはその後も続いて1988年の81sへと拡大していきます。現在では経済力をつけてきた新興国の食肉消費量も拡大を初めており、このことが畜肉、乳製品を支える畜産飼料原料である大豆粕の需要を今も押し上げ続け、ますます大豆に対する世界の需要が高まっていったのです。

こうした拡大基調に支えられ、その後のアメリカ大豆は拡大の一途をたどります。

アメリカの大躍進とは逆に満州の大豆生産も日本の敗戦によって崩壊し、世界の大豆はここからアメリカ独壇場の時代が始まりました。 

その後のアメリカ大豆の増産ぶりは周知の通りです。2018年現在アメリカの大豆作付面積は51百万ha、大豆の生産量125百万トンに達しており、輸出量は51百万トンと世界ナンバーワンの大豆王国を誇っています。

 

 掲載日 2019.7

 

 

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