加藤昇の(新)大豆の話

82. フォード自動車と大豆

1930年代、工業立国を目指すアメリカのトップメーカーであったフォード自動車が本気で大豆の応用研究をしていた、という現代では想像できない話をご紹介しましょう。当時のアメリカの状況を簡単に紹介すると、それはアメリカに持ち込まれた大豆の種子を農地に定着させようと農務省も走り出していた頃で、農業大国アメリカのまさに黎明期にありましたが、国内では相変わらず失業者の多い苦難の時代でもあったのです。その頃、アメリカ国内の民間企業でも農務省の動きに合わせて大豆を使った商品開発に関心が高まり、パン、マカロニーや菓子類の開発、大豆ミルク、豆乳、缶詰豆腐、大豆コーヒー、大豆胚芽乳などの食品やダイズ接着剤、ペイント、ワニス、毛髪用油、石鹸などの工業製品を開発しています。このような大豆育成の熱が高まる中にあって、フォードモーター社のヘンリー・フォード社長による大豆の用途開発に対する取り組みはアメリカに大豆生産を定着させるキッカケの一つにもなっているのです。

 

 自動車が発明されたのは1885年、ドイツのカール・ベンツとゴットリーブ・ダイムラーによるものとされています。しかし、このガソリンで走る自動車のほかに、すでに蒸気自動車や電気自動車なども並存していて、必ずしもガソリン自動車が優れていたわけでもなかったようです。現に、1895年にアメリカで登録されていた自動車3700台の内、蒸気自動車が2900台を占め、ガソリン自動車はたったの300台に過ぎなかったといわれています。ヨーロッパで生まれた初期の自動車は、一部の上流階級の人たちの娯楽としての自動車レースや、高級車としての用途に向けられており、一般庶民には手の届かない乗り物でした。この自動車を庶民の乗り物に拡大をしたのがアメリカのヘンリー・フォードです。彼はデトロイト近郊の農村に生まれており、発明王エジソンが創業したエジソン電気会社に就職しています。彼はここで電気の技師長にまでなっていたのですが、ガソリンエンジンに興味を持ち、自動車会社に転職してしまうのでした。そして、1903年に自分で自動車会社を設立していろいろな自動車モデルを開発するうちに、1908年に記念すべきT型フォードを完成させるのでした。この自動車の特徴は大衆が買える安価さでしたが、それを支えたのは生産コストの削減と大量生産でした。

 フォードが自動車を作りながら、自動車を買ってくれる顧客として頭に描いていたのは、デトロイト周辺に住む農家の人たちであったと思われます。この時代のアメリカの農業は、ちょうどアメリカに大豆が導入され、政府も大豆の普及に力を入れていた頃でした。ロシアなどから大量の農業入植者を募り、農産物の柱である小麦やトーモロコシの増産に取り組むとともに新しく大豆を導入して、大豆油の生産と大豆蛋白の用途開発に力を入れているという時代でした。現在のアメリカの大豆の輸送は、ミシシッピー川を下る船と貨物列車、そして最寄りのカントリーエレベーターまで運ぶトラックですが、1900年ころの農家にとって農産物の輸送は大きな負担でした。農村に生まれたフォードにとって自動車が当時のアメリカ農業にとって如何に大きな役割を占めるかは容易に想像できたことでしょう。

 フォード社にとって大衆自動車開発のためには自動車の重量を減らすことが先決でした。こうして、大豆を素材としたハンドルやギアなど10箇所ほどの部品や塗料などに大豆素材を採用したのでした。このようなフォード社の取り組みが注目され、大豆が工業材料として利用できる可能性から、アメリカにおける大豆栽培が急速に拡大していくことにもなるのでした。このようにして電気や水道もない当時のアメリカ農村に自動車が導入され、農村生活が近代化の道を歩み始めるのでした。

フォード社は1930年より大豆研究に積極的に取り組み、ミシガン州に2万4000ヘクタールの農地を購入して大豆栽培にも手を広げています。1934年のシカゴの進歩博覧会において『工業と農業とは自然の共働者である。アメリカの農業はその生産物の需要の未発達に悩んでおり、一方、工業は過剰労働者のための失業に悩んでいる。農民は工業に対して原料を供給することのみでなく、農作物は工業の最初の工程である。将来農民は、一方の足で農業生産者として農地に足を置き、他方の足は現金を得るために工業の最初の工程を担っている、このような姿を実現するためにフォードは取り組んでいる。』、『農民が我々の得意先になることを望むならば、我々も農民の得意先になる方法を考えなければならない』と大々的にその取り組みを謳いあげました。
 このように大豆から工業用素材を作り出そうという動きは1930年代に入ってから始まりました。アメリカにおけるこのような取り組みは”Chemurgy”運動として広く展開されていきます。このChemurgyとは「伝統的農産物から工業材料を創り出す」ことを意味しており、ヘンリー・フォードの取り組みはこの流れに基づいたものだったのです。アメリカではこの運動の下で約200種類の新製品が大豆から作り出されたとされています。それらはプラスチック、大豆タンパク繊維、豆乳、消泡剤、合板接着剤、今で言うバイオディーゼル燃料など広い分野に広がっていたのです。

フォード社は大豆から自動車部品を作ることを研究し、1931年には大豆油から自動車のエナメルを作り、抽出残滓からハンドル、ギアなど10ヶ所の部品が製造できることを発表した。現代のように工業資源が自由に国際間を流通している状態とは異なり、限られた資源からいろいろな必要資材を調達しなければならなかった当時を考えると、アメリカ以外の国々でも同じようなことが起こっていたことでしょう。しかし、このフォード社の取り組みがアメリカからカナダ、メキシコの一部にかけての大豆栽培熱に火を付けたのでした。みんなの目には大豆がそれまでの換金作物である小麦とは違った可能性を秘めた魅力的な作物に映ったに違いありません。

 

 そして時代が移り、現代のフォード社は石油素材からの脱却や環境保護の観点から再び大豆などの天然素材に目を向けてきています。フォードの2008年モデルには大豆製発泡フォームを素材としたシート用クッションを採用することに決定したようであり、このような流れは自動車メーカー各社に共通していることでしょう。

今では、アメリカは世界で最大の大豆生産国であり、日本で消費している大豆の80%はアメリカからの輸入に頼っているのが現状です。このように強力な大豆生産力を見るにつけ、黎明期のこのような水面下の努力は遥かかなたにかすんでしまっていますが、当時の貧困にあえいでいた農民や失業者にフォード自動車の呼びかけがどれだけ希望を与えたことか、計り知れないものでしょう。このような官民上げての努力と第2次世界大戦という機会をとらえてアメリカは世界最大の大豆生産国へと登っていったのでした。

 

 掲載日 2019.11

 

 

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