加藤昇の(新)大豆の話
80. 戦争で拡大したアメリカ農業
大豆が初めて北アメリカに持ち込まれたのは1764年に中国から持ち帰った大豆が最初であるとされています。この時の大豆はその後継続して生育させることが出来なかったが、その後も何回か大豆がアメリカにわたる機会があり、彼らは根気よく大豆栽培に取り組み、1917年には大豆の作付面積を5万エーカーへ、さらに1938年には680万エーカーへと拡大させ、大豆生産国へのきっかけを掴むことが出来ました。しかし、アメリカが今日の世界の穀物供給国に成長した背景には再度の戦争が大きく影響していることは無視できないでしょう。
1846年にイギリスで「穀物法」の廃止という政策変更が行われました。それまでは、穀物の輸入を制限して国内の生産者を保護しよう、という法律でしたが、経済学者マルサスと国会議員リカードの論争により、産業資本家が支持するリカードが勝利します。「イギリスが穀物法を撤廃して、ヨーロッパ大陸の農業国から穀物を大量に輸入すれば、それと引き換えにイギリスの工業製品が、それら諸国に輸出されるようになる」との主張が勝ったのです。我が国のTPP議論でも似たような議論が聞かれています。しかしこの穀物法を廃止したにもかかわらず実際には輸入による穀物価格は安くならなかったのです。それはこの後、ヨーロッパ大陸を襲った天候異変とジャガイモの腐れ病の広がりで輸入穀物の価格は高止まりのままになり、ただイギリスの食糧自給率だけが低下していったのでした。そんな時にイギリス、フランス、オスマントルコ連合軍とロシア、ブルガリアが黒海のクリミア半島で戦った「クリミア戦争」(1854-56)によってイギリスにはそれまでのロシアからの小麦の輸入が途絶えてしまい、国内の穀物が不足するという事態に陥ってしまいました。困ったイギリス政府が新たな穀物供給先として選んだのがアメリカでした。これによってアメリカは初めて穀物貿易で国際舞台に登場してきたのです。1854年にアメリカがイギリスに輸出した小麦は22万トンに過ぎなかったが1862年には100万トン、1880年には400万トンと大幅に増え、アメリカは19世紀末にはロシアに次ぐ世界第2位の穀物輸出国に成長していったのです。これら穀物の運送を請け負ったのがイギリスやオランダの穀物商人であり、カーギル、ブンゲ、ドレフェスなど今日の世界を股にかけた穀物メジャーが生まれたのもこの時代でした。このころのアメリカは西部開拓地に鉄道網が広がる西部劇の時代であり、新しい農地の開拓で耕作地がどんどん広がっていくというアメリカ農業の黎明期でもあったのです。飢饉で苦しむアイルランドやドイツなどから新天地アメリカでの自作農を夢見た開拓民たちが大西洋を渡ってきたのです。開拓された農地と入植した農民によってアメリカはクリミア戦争を契機として農業国としての基盤を作っていったのです。戦争特需による穀物の増産は、戦争終結後に起こる過剰在庫というリスクを含んではいましたが、アメリカはこの後も何回かの戦争に参加しながらこれらのリスクを克服しながら農業大国へと上りつめていったのです。
次にアメリカの農業基盤を強化したのはアメリカ国内における南北戦争(1861-65)でした。アメリカでは南北戦争によってそれまで農業を支えていた多くの男性が戦場に駆り出され、女性と高齢者で農作業を続けなければならない状況となったのです。そして、それらを可能とするための省力化機械の「機械式鋤」「自動式刈入れ機」などが開発され、一気に農業の機械化が進められることになるのです。さらに北部軍の勝利によってリンカーン政権が樹立されたことにより、新政府の政策として自営農を推進していったことが農民の穀物増産意欲をさらに奮い立たせる結果となりました。これらにより入植する移民が急増し、1860年の農家戸数204万戸が20年間で倍増し、1910年には637万戸へと膨れ上がっています。このような農業環境の改善によって穀物の生産量も大幅に伸ばし、そのことによって20世紀初頭には在庫増による農産物の価格低迷が始まっているのです。こんな時に起こった第1次世界大戦(1914-18)がアメリカの農業を再び活気づかせることになります。終盤になってからドイツの無制限潜水艦作戦に対抗する形で参戦していますが、当初アメリカはヨーロッパの大戦には参加せず中立を宣言していました。そして国内の穀物生産を増やしてもっぱらイギリスやフランスなど同盟国に対して食糧支援をしていったのです。アメリカ政府は「食料で戦争を勝利する」と宣言し、小麦の生産量は1,690万トンから2,590万トンへと一気に増大していき、アメリカ農業は戦時バブルの活況に沸きあがったのです。しかし、戦争が終わってしまうとフランス、イギリス、ドイツなどの食糧生産も回復し、膨れ上がっていた戦争特需も急速にしぼんでしまうことになります。穀物価格の低迷はその後10年以上続き、アメリカ農業は大不況に陥ってしまいます。第1次世界大戦中の増産奨励にうながされて資金を借りて農地を買い増した中小農家の経営は破綻していきました。この苦境を脱するためにルーズベルト大統領が打ち出したのが「1933年農業調整法」であり、これがその後のアメリカ農業の根幹をなすものとなるのです。この法律の最も重要な政策は、CCC(商品金融公社)を設立して生産農家の販売価格を安定化させ、穀物を担保とした低利の短期融資を受けられるようにしたことでした。
このようにして安定を取り戻したアメリカ農業に追い風が吹くようになるのは第2次世界大戦(1939-45)であり、これによってアメリカ農業は再び連合軍の食糧供給基地となったのです。政府はCCCによる農家への融資制度を大幅に緩和し農家の増産意欲を盛り上げていったために小麦の生産量は開戦時の27百万トンが1945年の終戦時には41百万トンに、小麦の輸出量も開戦時の2百万トンから終戦時の11百万トンへと増加しています。第2次世界大戦も1945年8月15日、日本のポツダム宣言受諾によって終了することになりますが、日本をはじめヨーロッパ諸国は深刻な食糧不足に陥り、ひとりアメリカ農業だけが無傷の状態で終戦後も戦時バブルが続いていきました。ヨーロッパなど戦場になった多くの国々の農場は戦車で踏みにじられ、敵軍の侵略を阻止するために地雷が農場にまで埋められていて容易に農作業が再開出来ない状態となっていたのです。その結果、インドやアフリカなどの植民地や開発途上国も含めて世界中で食糧危機が深刻化しており、戦後も継続的に食糧生産が安定していたのはアメリカだけという独壇場の構図になっていたのでした。そのために終戦直後から戦勝国も含めた多くの国でアメリカからの食糧支援を求め始めたのです。
さらに大韓民国を支援するアメリカと北朝鮮の後ろ盾になった中国とが戦った朝鮮戦争(1950-53)もアメリカ農業に特需をもたらしています。この戦争によってアメリカの小麦輸出は6年間で3倍以上に増え、その他の穀物の輸出も大幅に増えてアメリカ農家にとって大きな飛躍のチャンスとなっているのです。
掲載日 2019.7