加藤昇の(新)大豆の話

78. アメリカの大豆史

海を渡った大豆

日本に大豆が生まれたのは縄文時代中期とされていますが、まず、東アジアで生まれた大豆がどうやって海を渡り、今や世界最大の大豆生産国になっているアメリカにどのようにしてたどり着いたかについて述べたいと思います。
 今回の物語の主人公はサムエル、ボーエンというイギリス生まれの船乗りです。彼は1758年に東インド会社からの依頼を受けてイギリスから中国に向けて航海をしました。これは東インド会社が中国との交易を開くために彼に依頼した航海でしたが、中国の皇帝は外国からの侵略を恐れて彼を拘束してしまったのです。彼は4年間の投獄の後釈放されますが、このことも中国側の記録に残っています。釈放後、彼は英国に引き返して航海依頼主から相応の報酬をもらった後に、1764年米国ジョージア州サバンナに移住することになります。その時彼は中国から持ち帰った大豆をアメリカに持ち込み、税関長のヘンリー・ヨングに大豆を蒔くよう持ちかけています。翌1765年ヨングは自分の農場に大豆を蒔きますが、これがアメリカにおける最初の大豆栽培である、とされています。

 ボーエンは大豆を新大陸に導入したことにより英国政府から表彰されています。記録によれば、ボーエンは1766年から徐々に醤油や大豆入りスパゲティ等を9年間に亘って英国に輸出していることになっています。彼が大豆を中国から持ち出しアメリカで栽培しようとした理由は、発芽させた大豆が船員の壊血病予防に有効であるとの噂を中国で聞いていたからであったと後に手記で述べています。当時船乗りたちにとって壊血病は死を意味する恐ろしい病気であり、船乗りであったボーエンが大豆の噂に敏感であったことは容易に想像されます。記録によると、彼はその後、英国革命戦争において王制側で戦い、177712月に死亡しています。

 アメリカへの、その後の大豆の導入には2つの特筆すべき出来事があります。その一つは1850年、太平洋上で日本の漂流民を救助したアメリカ帆船が日本人を乗せたままサンフランシスコの港に帰っていったのですが、到着後に日本人を検疫した医師ベンジャミン・エドワードが彼らから大豆をプレゼントされ、これを"Japan Pea"と記録していることです。エドワード医師はこれをイリノイ州に持ち帰って、農業委員会にこの大豆を提出しており、農業委員会はこれをイリノイ州の広域の農家に配布しています。イリノイ州といえば今やアメリカ大豆生産のメッカですが、この地に最初に持ち込まれたのが日本大豆であったということになります。1853年にその栽培報告書が提出されています。同じ頃にやはり土佐の漁民であった14歳の、後のジョン万次郎が鳥島に漂着していたのをアメリカ船に救助され、日本に帰ってきたのも1851年であり海外渡航が禁止されていたなかでの時代を動かす出来事となっています。

もう一つは、1854年に日本に来航したペリー提督が日本から2種類の大豆をアメリカに持ち帰り、やはり農業委員会に提出しています。そのときの記録では大豆のことを"Soja bean"としています。この種子も農民に配布され、各州の農事試験場からその栽培報告書が出されています。

 その後アメリカでは大豆栽培に取り組み始めますがいくつかの障害に直面することになるのです。それは、アメリカの土壌には満州や日本のような根瘤バクテリアが存在せず、そのことがダイズ育成の大きな壁となるのです。豆科植物は空中より窒素を取り込んで自分の栄養源とする優れた働きを備えています。豆科に属さない植物は窒素分をすべて土中から吸収しなければなりませんが、大豆のような豆科植物は根瘤バクテリアが働いて空気中に含まれている窒素ガスを根についた根瘤から供給されて利用できるのです。アメリカの土壌にはそのようなバクテリアがいなかったのです。そこで当時のアメリカ人たちが考えたのが、人工培養の土壌バクテリアを大豆種子にまぶして播種するという方法です。これによって大豆の根に根瘤バクテリアが付着して生育状態が改善されるというのです。この方法を見つけたことにより大豆栽培は大きく前進することになりました。それまでは大豆を栽培した農場の土を、次の年に他の農場まで運ぶというやり方で土壌バクテリアを広めつつ、作付け面積を広げていたので遅々として進まなかったのです。こうして根瘤バクテリアを広めることにより、従来の栽培方法に比べて3-4倍の単収と大きな種子を収穫することが出来るようになったとされています。20世紀に入ってアメリカの大豆への取り組みはさらに積極的に展開されることになりました。アメリカ大豆の先駆者ウイリアム・モースが2年間に亘り日本、朝鮮、満州を廻り、アメリカの研究者のために4,578粒の大豆の種子を持ち帰っています。このことによりアメリカにおける大豆育種研究が迅速に立ち上がることができました。

 この頃のアメリカは、ちょうど農業国への幕開けを迎えていた時期でもあり、農民達は新しく導入された大豆に大きな期待をかけていました。当初は、大豆はトーモロコシや小麦栽培を安定化させる輪作の一環として取り入れられ、農地の肥沃、輪作傷害の回避、農作業の分散化などを目的としたものであり、大豆の種子を収穫するというのではなく土壌に窒素分を取り入れて次年度の作物の収量を高めるのが目的でした。しかし、大豆の高蛋白、高脂肪という品質面の特徴が認識されるにしたがって商業作物として重要な地位を占めるようになっていくのです。1923年に出版された二人のアメリカ農務省技官によって書かれた大豆の本にみると、この頃すでに大豆の生産だけではなくその緑肥・サイレージなどの利用法についても広く検討されていた様子がうかがわれます。そこに記載されていたのは、大豆の油脂・食品加工について、枝豆や大豆モヤシ、さらには豆乳、大豆カゼインなどの利用についての記述の他、アジア地域における豆腐・凍豆腐・納豆・湯葉・味噌の様子などを取り上げており、大豆に対する当時の関心の高さを示すものとして注目されます。(注) 

そして、アメリカは1954年には大豆生産量が中国を抜いて世界第1位となり、大豆の輸出を始め、国際市場に中国大豆という先輩格がいたとはいえ急速にその輸出量を拡大して、徐々に世界の大豆市場での地位を拡大していきました。

「“The Soybean”  by Charles V.,Piper and William J. Morse  McGraw-Hill Inc. N.Y. (1923)

 

 

 掲載日 2019.7

 

 

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