加藤昇の(新)大豆の話
75. 大豆粕苦難の時代へ
我が国で窒素肥料として需要が活発となっていた肥料用の大豆粕は、1923年からアメリカ、イギリスやドイツから硫安が輸入されるようになり、肥料としての用途が圧迫され消費量が減少を始めます。1925年の段階では国内での大豆粕消費量119.6万トンであり、そのうちの85%は満州からの輸入でした。そしてこの年の硫安の消費量はすでに12.2万トンと大豆粕を圧迫しはじめていました。両者の価格比較を表に示すと次の通りでした。
1924年の窒素肥料に対する価格比較 (豊年製油工場報 1927年2月号)
肥料品目 |
窒素分1貫の価格 |
大豆粕 |
5.46 円 |
菜種粕 |
10.12 |
鰊粕 |
9.79 |
硫安 |
3.12 |
硝石 |
3.42 |
ここに見られるように輸入される硫安の価格は窒素換算で大豆粕肥料の6割程度という安価であり、さらに硫安の国内生産も始まろうとしている時期でもありました。
満州豆粕の輸出量は1925年にピークとなり減少を始めます。そして国内の大豆粕の消費量も1923年をピークにすでに減少しており、1932年には、1926年の29%にまで激減していったのです。1935 年になると豆粕の肥料としての消費量が大幅に下がり、国内における硫安の消費量が豆粕を超え、硫安は日本における主要な肥料へと拡大していったのです。
国内で大豆粕の需要が低迷してしまうと大豆搾油事業は成り立ちません。そのために大豆製油企業は脱脂大豆の用途開発に必死で取り組み始めます。そして大豆粕の新たな用途として豆腐、味噌、醤油への用途開発、分離蛋白を作りアイスクリームや練り製品などへの増量材、さらには人工肉、合板用接着剤、園芸肥料、各種畜産飼料などが次々と登場してきたのもこの時代でした。そしてここで時代を大きく変えていったのは我が国をはじめとする多くの国々で起こった肉食、乳製品への流れでした。栄養知識の普及と食生活の欧米化により国内の畜産業が大きく発展していったのです。このような流れの中で乳牛用家畜飼料をはじめとして牛、豚、鶏などの畜産飼料は大豆粕を原料として作られるようになり、新たな大豆粕の用途として浮かび上がってきたのです。現在では大豆粕(大豆ミール)の用途として世界的に畜産飼料が最大の需要先として使われています。こうして日本の大豆油搾油事業は再び安定した産業として現代に引き継がれているのです。
窒素肥料硫安の登場
1804年、ドイツの探検家アレクサンダー・フォン・フンボルトがペルー沖にあるグアノ島から化石化した鳥の糞をヨーロッパに持ち帰り土壌に混ぜ込んだところ、驚くほどの穀物の収穫量があったことに端を発して、この白い岩石に対して肥料としての需要が熱狂的に高まったのでした。こうしてグアノの島々が姿を消すまでこの島の岩を掘りつくしてヨーロッパに運び続けたのです。これらの岩石には畜糞に含まれる窒素の30倍以上が含まれていたのです。そしてこのグアノ島が姿を消してしまったとき、これに変わるものとして化学工業による窒素肥料の必要性が大きくクローズアップしてきたのでした。
時代はちょうど第1次世界大戦を迎えようとしていました。ドイツは高性能爆弾の製造に欠かせない天然の硝酸塩源を持たず、イギリスによる海上封鎖に対して脆弱な状態であったのです。そのために国を挙げて硝酸塩製造法の開発に必死でした。1909年にフリッツ・ハーバーは硝酸塩製造の前駆物質であるアンモニアを継続的に製造することに成功しました。別の化学者のカール・ボッシュはこれを工業化することに成功し、第1次世界大戦が始まるころには、ドイツの新しい硝酸塩工場は20トン/日の合成窒素を生産することが出来るようになり、これらはすべてを軍需生産に回していました。そして終戦と同時にこれらは肥料に利用されて新しい時代を迎えることになったのです。
こうして窒素肥料をハーバーボッシュ法として工業的に生産する道を開いたことにより二人はノーベル賞を受賞しています。しかし、この方法で窒素を製造するためには空気中にある窒素ガスを相当なエネルギーを使って肥料にするという効率の悪さがありましたが、窒素肥料に対する需要からこのことについてはほとんど問題にされることはありませんでした。このハーバー・ボッシュ法による窒素肥料の製造には、400℃以上の高温と100気圧を超える圧力という過酷な条件を必要とし、さらに原料とする水素の精製にも膨大なエネルギーが費やされ、温室効果ガスの二酸化炭素も多量に排出するという状況でした。このことから大豆の根に共生している根粒菌が作ってくれた、大豆に含まれる窒素がいかに環境に優れているかは容易に想像できるものです。
こうして出来た窒素肥料の硫安が世界の農地にばらまかれる時代が到来するのです。
掲載日 2019.7