加藤昇の(新)大豆の話

74. 我が国に大豆油産業が生まれる

こうして大豆粕の肥料としての価値が認められるようになると輸入量も増大し、国内でも大豆粕の生産をしようとの動きが出てきました。1902年には福井県の敦賀で我が国初の大豆搾油企業として大和田製油所が操業を開始し、圧搾法によって大豆油と大豆粕の生産を始めました。そして明治時代の後半にかけて国内に大豆搾油企業が相次いで創立されていくことになります。国内に旺盛な需要のある大豆粕を生産すると自動的に大豆油が生まれてきます。しかし大豆油は他の油脂資源が充分にある日本では世間から望まれない厄介者だったのです。これでは大豆を搾油する事業は成り立ちません。ところがここでわが国の大豆油にとって突然チャンスが訪れたのです。
 大正3年(1914)に勃発した第一次世界大戦によってヨーロッパ各国の大豆搾油業が壊滅状態になり、食用油は品薄を来たすようになり、ヨーロッパからの大豆油の需要とヨーロッパから輸入をしていたアメリカからの需要が同時に日本に舞い込んできたのです。つまり国内で必要とされる大豆粕と欧米で需要が高まった大豆油に対する需要が相まって国内での大豆搾油事業の環境が見事に整ってきたのでした。

 

この様な時代背景の中で満鉄が近代的な大豆搾油技術を開発し、大豆油の大量生産が可能になりました。満鉄の狙いは当時ヨーロッパで必要としていた大豆油と日本が求めていた大豆ミールを効率よく生産する技術の確立でした。当時の満州地方で作られていた大豆粕は残油分の多いものでした。大豆粕の中に残油分が多いとその分肥料効率は劣ってしまいます。当時の満洲における旧来の搾油方法は楔式、手押螺旋式、水圧式というものでした。 楔式は、大豆を石臼の上に載せ、畜力により大豆を潰し、蒸した後に圧搾する伝統的な搾油方法でした。そこで満鉄は残油分の少ない大豆粕が生産できる技術として「ベンジン抽出法」を開発したのです。ベンジン抽出法による絞り粕は圧搾法に比べて残留油分が極めて少なく、蛋白質の含有量もはるかに高かったのです。満鉄はこの技術を当時満州で大豆油事業に着手していた鈴木商店に譲ることにしました。

 国内で生産を始めた鈴木商店が作った大豆粕の品質は非常に優れたものでした。1925年の時点における輸入大豆粕との比較データーが残っています。それによると、大豆粕に含まれる残油分は、満州から輸入される大豆粕には6%以上もあったのに対して国内で鈴木商店製油部が生産した大豆粕の残油分は1%未満でした。また、大豆粕に含まれる泥などの夾雑物の割合は、満州大豆粕には2%含まれていましたが、国内産の大豆粕にはそれらはすべて除去されていていて残っていませんでした。さらに満州からの大豆粕の水分は20%と高かったのに対して国内産大豆粕は12%と空気中の湿度に合わせた安定したものでした(豊年製油(株)清水工場報による)。このように国内で始まった大豆搾油産業は品質の高い安定したものだったのです。

政府もまた、大豆搾油の国内生産を奨励し、明治39年(190610月に輸入中国大豆を用いて大豆油粕を製造する場合は、100斤(約60kg)につき47銭の関税を払い戻すことにしました。(当時の大豆油粕の100斤当たりの平均販売価格は337銭でした)これで大豆油粕は、明治44年から大正2年の3か年平均で全販売肥料の48.9%を占めるようになり、大豆油粕の輸入依存率が約64%まで低減されていきました。さらに大正元年8月には、横浜、神戸の輸入港と、愛知、三重、静岡の一定地域に建設した指定工場に輸入された大豆には輸入関税を免除することになり、大正34月には大豆油の輸入関税が100斤につき250銭に引き上げられ、国内産業の育成が図られていきました。

 

大豆油の登場

1915年、鈴木商店(後に傘下の製油部門が独立して豊年製油に)は、当時最先端の搾油法であった「ベンジン抽出法」の特許権を満鉄から取得し、静岡県の清水に大規模な大豆油生産設備の建設を始めました。とはいえ、当時の周りの受け止め方は、地元の新聞(静岡新報、大正5525日版)が報じているように「豆粕製造所」となっていました。豊年製油(当時はまだ鈴木商店)は1917 年(大正6年)静岡県の清水港に原料処理能力 500 トン/日 の工場を建設し、さらに翌大正 7 年には兵庫県鳴尾と横浜市に処理能力 250/日 トンの工場をそれぞれ建設しました。こうして日本における大豆油の本格生産が始まったのでした。そのころのわが国の大豆搾油工場の処理能力は100トン/日未満がほとんどの状態でした。こうして大豆油は我が国で最も新しい食用油脂として近年になって登場してきたのですが、大正時代の半ばに日本に登場した大豆油は、当初は先輩格の菜種油などの後塵を拝する立場に置かれていました。

この頃になるとわが国の大豆の消費量も増加しており、年間およそ50万トン前後とされており、そのうちの国内産大豆が約40万トン、満州からの輸入大豆が10万トンでした。その当時はまだ、醸造用と食用に向けられるだけでしたが、大豆油・大豆油粕の製造が盛んになり、大正7年には圧搾式抽出工場が15社、抽出式工場が23社となり、原料大豆処理能力は2,495トン/日に及ぶまでになりました。しかし大豆油が食用油脂の主役に躍り出るのは関東大震災後といわれています。

 

大正121923)年91日に関東地方を襲った大地震は、この地域に点在していた旧来の油脂製造所を壊滅状態に陥れ、多くの油脂工場が操業できなくなったときに、関東から離れた清水にあった豊年製油(株)の大型大豆搾油工場に脚光が当たりました。清水港から積み出された大豆油が東京湾に入港すると油脂が枯渇していた関東市場で歓喜を持って受け入れられ、初めて大豆油は主役の場に躍り出ることになります。しかし、その頃の大豆油は精製度も良くなく色の赤い、今から考えると品質の悪いものでしたが、ちょうどその頃に改良された新しい精製技術によって大豆油は消費者に受け入れられる美しい、現在のような食用油として生まれ変わるのです。

 

その後、昭和に入って菜種油の大量生産も行われるようになったことから「油揚げ料理」は一般家庭及び外食などで広く行われるようになり、また揚げ物に使用される油は大豆油と菜種油が中心となっていきました。このように日本では古くから使い慣れていた菜種油と新たに登場した大豆油が現在も共存しており、消費者は店頭で両者を見比べながらどちらの油も抵抗なく購入していく様子がみられています。 

 

 掲載日 2019.7

 

 

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