加藤昇の(新)大豆の話
72. 大豆油の日本史
メソポタミア、エジプト、インドなどの古代文明ではオリーブ油、ごま油などが儀式の灯りに使われていたことが分かっています。日本における植物油の利用の歴史については、3世紀の初めころに中国から搾油技術が伝えられ、ハシバミの実から絞った油が神社に奉納されたのが始まりとされています。一方、灯明としての油の利用は、松脂を多量に含んだ松の根を燃やすところから始まり、さらに魚油、榛(はしばみ)油、椿油、ごま油、荏ごま油、カヤの油へと拡がっていきました。これらの中でなるべく煤(すす)の出ない油が特に求められていったようです。奈良時代には煤の少ないゴマ油などが税として徴収されるようになっていきました。それは神社や寺院などの室内で焚いたときに室内を汚さないためにも大切なことだったのでしょう。こうしてゴマ油が最も貴重な油とされていたようで、天平年間(8世紀)のごま油の価格を米に換算すると、米4斗5升(67.5kg)でごま油1升(1.65kg)に匹敵したとされています。もちろんこのような油は一部の貴族や神社への奉納のために使われていたものでした。ゴマ油が調理に使われるようになるのは平安時代になってからであり、これらの油を絞る人たちも登場してきます。こうして油はもっぱら高貴な人や神社、仏閣の灯りをともすために搾っていたのです。人の栄養としての必要な油は動物や魚や植物を直接食べることにより自然に摂取できていたから無理して油を絞ろうとは思わなかったのでしょう。それよりも大切だったのが信仰する神仏をもてなす「灯火」だったのです。自分や自分たちの部族を守ってくれる神仏は自分の命に直結している存在と考えられていました。だからその灯火の原料探しは真剣に考えられ、「油生産」の必要性に結びついていったのではないでしょうか。
京都大山崎町にある離宮八幡宮の初伝によると、貞観元年(859)、この地に宇佐八幡宮の神霊を奉遷した時に、神事・雑役に奉仕する神人が「長木」という絞り具を使ってエゴマの油を絞り朝廷などに献納したとされています。その功により神社の宮司は「油司」の役を賜り、それ以降、同社の神人たちはエゴマ油の独占販売権を強めていきました。鎌倉時代になると、この人たちの集団が油座(油商人の同業組合)を結成し、全国に活躍の幅を広げていったのです。
室町時代の終わり頃になると菜種油も使われるようになります。禅宗を中心とした武家文化は、食生活の上でも精進料理の影響を受け、ゴマ油や菜種油を使った料理が生まれてきます。大豆は主要な食材として使われますが大豆油はまだ登場しません。江戸時代になっても、まだ油はほとんどが行燈(あんどん)の燃料として使われていましたが、やがて「しめ木」という大規模に油を搾る器具が開発され、さらに菜種が大量に生産されるようになって、しだいに油が庶民の手の届くものになっていきました。
ポルトガルやオランダの人たちが長崎に持ち込んできた油料理も南蛮料理として庶民の間に広がっていったり、1655年に隠元和尚が京都万福寺に「普茶料理」として油で調理した料理を持ち込んだことなどによって我が国では油調理の幕開けを迎えることになります。それまで身の回りには新鮮な野菜があり、海や川にはきれいな水に泳ぐ魚が豊富だった日本では油調理としては普及せず、油はもっぱら灯りをともす材料でしかなかったのです。油調理が持ち込まれた元になっていたのは、清潔な水に恵まれていなかった地域にあった外国料理に影響を受けたものと見ることも出来ます。
江戸時代後期になると天ぷらなどの調理に使えるようになり、油おけを担いで売り歩く「油売り」を町で見かけるようになります。当時、江戸で使われる油の大半は大阪からの定期船便である樽回船や菱垣回船で運ばれてきましたが、正徳4年(1714)の大阪からの積出量を見ると、全体の27%がなたね油で、綿実油が6.4%、ごま油が2.2%となっています。そしてまだここには大豆油は登場していませんでした。
掲載日 2019.7