加藤昇の(新)大豆の話

70. 満鉄による大豆研究

 大豆の研究がいつから始まったか、については見方によっていろいろな考え方が出来るでしょう。大豆がわが国に登場した縄文時代以来、私たちの先祖はいろんな工夫を繰り返してきたはずです。しかし、その大豆を国家レベルで研究した画期的な時代がわが国にはあったのです。そして、そのことによって大豆の利用は新しい道を切り開き、日本の大豆産業が近代化に踏み切って行ったのです。それは満州に設立された満鉄が行った取り組みであり、これをわが国の大豆研究のはじまりと見ることも出来ます。

  満鉄は鉄道事業の収益性を維持するために、鉄道沿線に豊富に栽培されている大豆の輸送を事業の主体とすることを考えたのでした。当時の満州では大豆は数少ない換金作物とされており、収穫量の8割以上が商品として輸送されていました。鉄道の広がりは大豆の商品化をさらに促進し、農耕地の拡大、生産量の増大を推し進める役割りを果していきました。このように満鉄としては大豆に力を注がざるを得ない状況にあったのです。満鉄は大連に「農事試験場」「中央試験所」を建設し、大豆の研究に取り組み、大豆の価値を高めることに向かっていったのです。「農事試験場」では大豆の品種改良や栽培試験を、「中央試験所」では大豆の利用研究を進め、大豆油の近代的製造法確立を課題としていました。いわゆる近代的な大豆研究のスタートをきったのでした。
満鉄の大豆に注いだ情熱は並大抵ではなく、その後の30年間で設立した農事試験所関係施設は90ヶ所にのぼり、中央試験所は総勢千名を超える体制で臨み、発表された研究報告は約1,000件、取得した特許は349件、実用新案47件と華々しい成果をあげています。大正2年に日本で最初のベンジン抽出による大豆油試験工場を建設し、その後の日本の近代的製油産業に大きな貢献をすることになりました。ちなみに、この頃の試験所の様子については、その当時朝日新聞に連載小説を書いていた夏目漱石が試験工場を訪問して、その様子を小説の中で紹介しています。ここで完成された製油技術は、神戸にある民間企業である鈴木商店に譲渡されることにより、日本に近代的搾油事業がスタートすることになるのです。当時の世界の製油技術は圧搾法が最新技術でしたが、満鉄はヨーロッパで開発されつつあったベンジン抽出法をいち早く取り入れて完成させた技術レベルは高く、到底民間企業では達成できない成果として高く評価されています。

このほかに満鉄中央試験所が成功させた成果として、大豆タンパク質の高度利用を目的とした研究で大豆蛋白質人造繊維、水性塗料、速醸醤油製造法の技術展開などが挙げられます。大豆油の利用研究では、大豆硬化油、脂肪酸とグリセリン製造法、レシチンの製造法、ビタミンB、スタキオースの製造法などを確立しています。また、当時は「石油の一滴は血の一滴」といわれた第二次世界大戦前の日本であり、燃料油の開発は国家的緊急課題であったために、現在世界で利用されている大豆油を原料とするバイオ燃料の研究にも取り組んでいます。これは大豆油からグリセリンを製造する際に副生するカルシウム石けんの応用として、これから石油類似の液体燃料を製造しようというものでした。
 満鉄が開発したこれらの技術を受け継いだ日本の企業は枚挙に暇がなく、満鉄の研究成果は日本産業の近代化に大きく貢献したといえるでしょう。満鉄は、太平洋戦争による日本の敗戦によって満州国と同時に消滅してなくなってしまいますが、その30年間に満鉄の大豆研究がわが国の産業近代化に果した功績は大きく、その恩恵の中に生きる現代の我々は、このことを忘れてはならないでしょう。

 

 掲載日 2019.7

 

 

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