加藤昇の(新)大豆の話

69. 満鉄の大豆ビジネス

  日本は日露戦争を勝利することによってロシアが持っていた鉄道事業を手に入れることになりましたが、この戦争により我が国の国家財政は危機的状態に置かれていました。そのために一時はこの満州の鉄道権益をアメリカの鉄道王エドワード・ハリマンに譲渡して財政破たんを埋め合わせようと考えていたこともありましたが、講和条約全権大使の小村寿太郎がポーツマスから帰ってきてその考えに反対し、取り交わされていた覚書は取り消されてどうにか鉄道権益は日本の手に残りました。そして満州軍総参謀長の児玉源太郎が、当時台湾総督府長官であった後藤新平を満鉄初代総裁に推薦し、満鉄を基盤にした国家財政の立て直しに立ち向かうことになったのです。こうして日本政府の強い期待を背負った、半官半民の満鉄は1906(明治39)年に中国東北部に設立されました。

 

 当時の満州には、すでに山東省、天津など、農作物の不作だった地域から大量の移民が流入してきており、まさに大豆生産が大きく変貌しつつあった時でもあったのです。満鉄は鉄道事業の収益性を維持するために、鉄道沿線に豊富に栽培されている大豆の輸送を事業の主体とすることを考えました。日清戦争後には日本への大豆の輸出量も次第に増加していました。この頃に満洲から日本に輸出されたのは大豆の搾り粕(大豆粕)でした。特に日露戦争後になると豆粕が本格的に日本に大量輸出されるようになっていきました。

1898年にロシアが大連に港湾施設を建設し、満鉄がここを貿易港として重視するようになると、この地にも油房の建設が相次ぎ、それまでの営口に代わる満州の搾油基地となっていきました。こうして満洲豆粕が大量に日本に輸出されたことで、満洲大豆の知名度が上がり、欧州での関心を高めることにもなりました。そして第一次世界大戦により、戦場になったヨーロッパ諸国では油脂原料が不足したため、安価な満洲大豆を輸入するようになったのです。記録によると1922 年〜1940 年において、満洲大豆の主な輸出先は日本が 41.4%、ドイツが 39.7%、デンマークが 11.5%、イギリスが 7.4%でした。ヨーロッパでは大豆が重要な工業原料とみなされるようになっており、特にドイツでは、大豆はマーガリン、サラダ油、石鹸などの原料に使われる、経済的にも主要な資源として位置づけられていました。

 

当時の満州では大豆は数少ない換金作物とされており、収穫量の8割以上が商品として輸送されていました。当時の記録によれば、満州の貿易額の50%以上を大豆が占めており、昭和初期には400万トンを超える輸出量が続くほど主要な作物でした。

 満州における大豆三品(大豆、大豆粕、大豆油)の輸出量にみると、1869 年に清朝政府が大豆の外国輸出を解禁してからは、満洲大豆は香港、東南アジア、そして日本へと輸出されるようになり、その規模が急速に拡大していく様子が次の表からも読み取ることが出来ます。

 

 平均輸出量/

大豆三品の輸出量

1872-1881

   276千トン

1882-1902

   693 

 1912-1921

  3,009

1922-1931  

  6,138

 

そして、これらの大豆はさらにその後アメリカへと輸出の道を広げ、国際商品として飛躍していくのでした。

 

日本の商社である三井財閥は満鉄の経営陣に社員を送り込み、当初から満州の大豆取り扱いに積極的に参加していったのです。三井物産は1894 年に営口(当時、牛荘)で大豆の買付事業に着手し、1908年にはイギリスの「リバプール」製油会社に対し大豆200トンの輸出を試みています。当時、イギリスでは大豆油は石鹸の原料に、豆粕は家畜の飼料として使われており、その後大豆は次第にイギリスをはじめヨーロッパ諸国に輸出を拡大していくようになります。ヨーロッパに持ち込まれた大豆油は主にマーガリン原料として利用されたり、塗料などの原料として用いられていたようです。こうして満州で搾油された大豆油はヨーロッパ各国に輸出し、大豆粕は日本へ肥料として輸出するとともに日本で不足していた食品大豆も満州から受け入れていたのです。

 

 掲載日 2019.7

 

 

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